第5話『八女茶の香りは、想いの香り♡』
春の朝。
八女の茶畑が薄い霧に包まれる中、黒瀬蓮は茶室で湯を沸かしていた。
茶筅を握る手が、かすかに震える。
――八重が倒れた。
高熱を出して寝込んでいる。
そして今日の地域茶会は、八重の代わりに“孫の蓮”が任されることになっていた。
「ばあちゃんの代わりなんて、俺に務まるのかよ……」
湯気の向こうで呟く声に、マメが小さく鳴く。
「にゃあ。」
蓮は苦笑しながら、背筋を伸ばした。
「よし……“八女茶入りま〜す♡”の気合いで、いくか。」
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公民館に集まったのは、地元の人々と観光課の白川美結。
そして、厳しい目を光らせる八女茶組合長・村上宗真。
「八重さんの茶が飲めないのは残念だが……まあ、見せてもらおうか、若造。」
宗真の一言に、蓮は頭を下げる。
「本日は、ばあちゃんの代打です。精一杯“おもてなし”させていただきます♡」
会場に微妙な笑いが起こる。
だが、茶室に座れば――沈黙が支配する。
蓮は、祖母の手順を完璧に再現した。
姿勢も角度も、まるで写し絵のように。
けれど、点てた茶を飲んだ宗真の表情は、動かなかった。
口を開くと、低く響く声で言った。
「……八重の茶を真似たか。だが、お前の“顔”が見えん。」
蓮の手が止まる。
「顔、ですか?」
「そうだ。茶は鏡だ。お前の心が映らん茶は、ただの湯だ。」
その瞬間、八重の言葉が脳裏をよぎる。
――“心がない茶は、ただの湯だよ”。
蓮は茶碗を見つめ、静かに息を吐いた。
「……俺、間違えてたかもしれません。」
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再び湯を沸かす。
手順も、姿勢も、今度は守らない。
代わりに、客の顔を見た。
疲れた表情の主婦。
緊張した観光課の美結。
腕を組む宗真。
「八女茶入りま〜す♡ ……今日は、みなさんの“心の温度”に合わせて、特別ブレンドで♡」
柔らかな声。
茶筅を回すリズムが、ゆっくりと変わっていく。
ホスト時代に磨いた“空気の読み方”が、今、茶席に息づく。
「お疲れの方には、ちょい熱めで。
緊張してる方には、ぬるめで。
恋してる方には……甘めでいきます♡」
笑いが起き、空気がほどける。
香りが広がり、心が静まる。
客たちは、茶を飲み、目を閉じた。
誰もが、知らず知らずに呼吸を整えていた。
宗真が茶碗を置く。
「……派手だ。だが、不思議と落ち着く。
お前の茶には、確かに“心の温度”がある。」
その言葉に、蓮は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。俺、ようやく“自分の茶”が見えました。」
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茶会が終わると、蓮は走って帰った。
布団の中の八重が、ゆっくりと目を開ける。
「どうだったい、茶会は。」
「みんな、笑って帰ってくれたよ。」
そう言って、湯を沸かし始める。
「ばあちゃん。今日の最後のお客さんは――あんたです。」
湯気が立ちのぼる。
蓮の声が、優しく響く。
「八女茶入りま〜す♡ ……ばあちゃん、心のリセット、サービスで♡」
八重は微笑み、一口すする。
しばらく黙って、目を細めた。
「……優しいねぇ、その茶。」
蓮は息を吐き、静かに笑った。
「やっと、俺の“心の温度”が見つかりました。」
マメが膝に乗り、喉を鳴らす。
茶の香りが、静かな家に満ちていく。
その香りは、まるで――
祖母と孫の想いを、ひとつに繋ぐ風のようだった。
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夜、月明かりの下。
蓮は茶碗を見つめ、そっと呟いた。
「ばあちゃんの茶は“沈黙の癒し”。
俺の茶は、“会話で心をほどく”癒し――それでいいよな。」
八女の夜風が、湯気を優しく攫っていった。
新しい茶人の香りが、確かにそこにあった。




