繋がっている
男は、山に友人を捨ててきたところだった。
ズッシリ汚れた普段着を後部座席に放り投げ、これは捨てるしかないな、とため息が出た。
もうすぐでこの山を降り、住宅街に出る。
男は、友人との会話を思い出していた。
お互いとっくの昔に還暦を過ぎ、顔を合わすと逝く時にはこう死にたいだのああ死にたいだの、そんな話ばかりであった。そのなかで、親友が、「俺ァよぅ、焼かれんのは怖ェのよ。知ってるか?火あぶりで死ぬのが一番苦しいんだとさ。そりゃあ死んじまってんだから痛いも苦しいもないんだろうけどもよ。だから、死ぬなら水の冷たいところでこっそり消えちまいたいなァ……」とそんなことを言い出した。
「君、その時自分の体に何が起きるのか知った上での夢なのかい?」
「なんだよぅ……そおりゃ、土座衛門になって最悪身元不詳の老人が引き揚げられるんじゃねえの」
「人の死体は、十分に低い温度と湿度の中に放置されると腐らずに蝋になっちまうんだよ。確かに君の言うように、土座衛門として引き上げられる可能性の方が高いだろうがね。一年から三年はかかるというから。死んでもずっと、自然に還れずそのままになってしまうかもしれないよ」
「そりゃあいい! つまりずうっと俺が残るかもしれねェってことだろう。焼けて灰になっちまったり、もう俺とも知れないような骨だけが残るよりよっぽどいい」
「先ほどは静かに消えたいと言っていたが。いいのかい、残るので?」
「俺ァ、死への恐怖ってのは結局、消えてしまうところにあると思うんだよ。身寄りもない、友と呼べるのもお前ぐらいで、どっちが先に逝っちまうかもわかんねェ。お前が先に死んだら、あとは本当にもう消えるだけだ。
この世に俺の意志一つ残せず、代わりに俺とも呼べないような骨の欠片が残る。
どうしたって消えてしまう恐怖からは逃げれねェなら、水に全部融けてしまうみたいに消えたかったのよ。さっきお前から話を聞くまではな」
普段は酔っぱらっているばかりであまり多くは喋らないものだから、この男が存外物事を考えていることを知るものは少ない。今となっては己ばかりだ。それに、そもそも考えていることを人に伝えるのは苦手なようで、大体要領を得ない。
「わからないな。残りたいのか、消えたいのか」
「あのよぅ、まず俺は焼かれるのが厭なンだよ。死んだ後までそんなに怖い思いはしたくねェよ。でも水ン中はそんなに怖い気はしないし、蝋になったらお魚さんが覚えてくれるだろうから、繋がってるだろ」
「なるほどな……」
本人が納得していることなので深くは聞かないことにした。
ただ、現実的に屍蝋になろうとしても、土地の問題がある。他人様の山だったり、国の所有する土地に死体を投げ込んだとして、屍蝋になるまでに発見されてしまうだろう。
結局この友の願いは叶わず仕舞いか、と思ったところで、記憶の海の中から浮かび上がるものがあった。
「君。もし本当に水の中で蠟になりたいなら、手伝ってやれるかもしれない」
「なんだってェ? 難しいだろう、そんなのは……確かに夢にはなったが、現実的には俺ァどっかのお寺さんに焼かれて、骨壺の中にちょっとばかし残るだけだろう」
「まあ、そうなるだろうと俺も思っていた。しかしだな、要は人の手がめったに入らない山か何かにそれなりの深さの水たまりがあればいいんだろう。まさか、日本百景のような湖に沈みたいとは言うまい?」
「そりゃあ、残れるならどこでも文句は言わないがね」
「すっかり忘れていたんだが、俺の名義で山を一つ持っている。ほぼ所有権があるだけで手入れなんかもしていない。祖父さんが死んだときに相続されて、俺は難しい話は嫌いだから税金だけ払ってずっと忘れていたんだ」
「なんて勿体ない。お前、その払ってきた税金だけでもっといい暮らしができるだろうに」
「どうせ酒とたばこに消えるだけだよ。手入れしていないのに誰も連絡してこないっていことは、すくなくとも1年程は誰も見に来ないだろう。自殺者の連絡も聞かないし」
「もしかしたら、テーブルの上に山になった封筒の中にあるかもしれないぞ……」
「さすがの俺だって、再三来るような連絡には気づくさ。気づかない連絡ならそれは意味をなしていない」
「お前はさァ、そりゃあ屁理屈だぜ……。まあいい、それで? お前さんの山には池かなにかるのか?」
「知らない。そも山の場所さえ曖昧だ。下見に行かなければな」
親友には大いに呆れられ、その日は解散となった。
書類をひっくり返して山の住所を確認し、次の日には車を走らせた。免許の返納もただ面倒の一点張りで先延ばしにしていたが、この日ばかりはその先延ばし癖が役に立った。
身寄りもない、残すものがないのは男も同じだ。男は、遠からぬうちに自分の命が消えてしまうことに関しては特に恐怖もなく、ただそういうものだと漠然と認識していた。しかし、唯一、こんなろくでなしの己を友達だと笑う男が怖がるのであれば、少しぐらい払拭してやりたかった。
見に行った山にはとても綺麗とはいえない、緑に濁った池があった。手入れがされていない木々に覆われて年中翳っているのだろう。じめじめして、そこらじゅうに水の気配を感じる場所だった。しかし、幸いにもヘドロは浮いていない。獣害があれば自分に連絡の一つや二つ来るだろうし、この山も生き物を失って死にかけているのかもしれなかった。
死んだ池に死んだ人間が入る。魚がいなければ親友の望みは果たせないだろうか。
「お前が覚えていてくれるんだろ? そんならまあ、それで一つ残せる訳だ。それに、お前の話じゃあ、腐敗しないから蝋になっちまうわけで、これもまた一つ残る。ちっとばかし足りないかもしれねェが、俺はお前が覚えてくれているだけでうれしいよ」
親友はそういって笑った。
「しかし、俺がお前より先に死ぬかもわからないぞ」
「いいや、そうはならねェよ。おあつらえ向きに今は冬の入り口だ。水温が低いと蝋になりやすいんだろ? 善は急げってな」
本心でそう思っていることがわかる表情で、親友はうれしそうにのたまう。
「君は、自殺志願者だったのかな」
「いんや、前にも言っただろ、死ぬのは怖ェンだよ。けど、お前が俺の夢を叶えてくれるのが嬉しくってなあ。だから、一年はしっかり生き残ってくれよ?」
「俺が寂しがるとは思わんのかね。今やもう酒が吞めるのもお前だけになったというのに」
「ははッ、なにを言ってンだ。寂しがるようなタマかよ、お前が」
男は俯いて笑うしかなかった。もうどれだけになるかわからない付き合いだ、全部ばれている。男も、己が親友のことを覚えていればそれで十分だと思っていた。
「なあ、最期に呑もう。呑み明かして、明日の夜俺の家に来てくれ」
「ああ……。わかったよ」
親友の体を折りたたんで、ボストンバッグに詰める。まったく、老体に無茶をさせるやつだ。
車では山のふもとまでしかたどり着けないため、中腹にある池までは徒歩で運んで行った。本当にどっちが先に死ぬかわかったもんじゃない、と悪態を吐きつつ何とか池にまでたどり着き、ボストンバッグを開く。
鞄に収まった親友はひどく小さく見えた。生きていたころは、成人男性なりの背丈と酒の飲みすぎで出た腹の、決して小さいとは言えない男だった。首元に引っかき傷を作って、なんと障子戸を全開にして冷え込んだ部屋にぶら下がっていた。
鋏で鞄を裂いてしまい、親友を抱きかかえた。初冬の山、水気の多く沈み込むような地面を歩くのは随分と堪えたが、親友にしてやれる最後のことだと思うとそうせずにはいられなかった。
「俺は覚えているからな。大丈夫だ、ここは静かだから眠りの浅いお前でもちゃんと眠れるよ」
親友を抱いて入った冬の池は骨身に染み入る冷たさで、このままここで心中になってしまうかもわからなかった。強張る体をできるだけ早く動かして、絶対に動きを止めないように車まで戻る。ズッシリ汚れた普段着を後部座席に放り投げ、乾いた服を着る。カイロをべたべた貼り、厚い上着を着て体の底からの寒気をやり過ごした。
感情がない、人の心がない、ひとでなしと言われる己であっても、親友を沈めた記憶につながるものを手元に置いていて平気ではいられない。服も車も捨てるしかないな、と震える息を吐いた。
それから半年が過ぎた。男は非常に喉が渇いていた。
初夏であり、近年の夏は暑くなるのが速い。老体は気温の変化を感じにくいが、それでも連日の真夏日の天気予報を見ていればあんまりな暑さだと理解できる。
しかし、男の体は凍えていた。体の震えが止まらなくなり、汗の一つも出ない。熱を測れば平熱で、病院に行けども医者は首をかしげるばかり。胃を冷やさないようにぬるい水を飲みなさい、お酒は控えなさいとそればかり言う。
言われたように常温の水を飲むのだが、すぐに尿意に変わってしまう。まるで体が一本の筒になっているようだ。何の引っ掛かりもなく水分は体を素通りしてしまう。
そうなるのだとはわかっていても、喉がひりつくように痛むので水を飲むしかない。今や、男の生活はトイレと台所を行き来するだけのものになっていた。
対称的に、体感温度は氷点下にいるようだった。親友を沈めたあの日のように、キンと冷えた水が関節を刺す痛み。水の足りない体をのろのろとしか動かせないことも、その妄想を加速させた。
春ごろまでは、ただ冷え込みに弱くなっただけだと思っていた。あの冬の池の冷たさが老いに拍車をかけて、人を沈めた報いと受け入れていた。少なくとも一年は、あの山に人が入らないように見張っていなければならない。親友が安心して残れるようにしなければいけないと、以前より健康に気を付けるようにまでなった。
木々の青さが増し、時折夕立が訪れるようになってきた頃に異変だと感じ始めた。いくらなんでも寒さが長引きすぎている、と最初は思った。日を追って夜が短くなるこの時期に、体が震えるほど寒いのはいかほどかと。しかし、天気予報のキャスターは例年通りの予報を告げている。どれほど着込んでもその震えが止まることはなかった。
そんな体の震えも喉の渇きも、夢の中でならば無縁のものだった。
いつからか、透明な水面越しに空を見上げている夢を見ている。その夢の中では、己は深い安堵に包まれ、周囲には複数の同輩がいることを知っていた。
多くの枝が空を覆っていて、見えるものは少ない。それでも雪や桜が舞う日もあったし、わたり鳥が横切っていくのを眺める日もあった。
ほとんど音は聞こえないが、偶にせせらぎが聞こえるときがある。どうやら細く水が流れ出ているようで、その音が聞こえると夢は正体を失くしはじめる。
そうして目が覚めた瞬間、忘れていた内臓を締め付ける寒さと乾上がり張り付いた喉に体が丸まるのだ。枕元に置くようになった水差しを、悴んで動かない手で必死に引き寄せる。ぬるい水が喉を通っていくのが痛い。そしてまた尿意を催して、転ばないようにゆっくりとトイレに向かった。
罰だろうか、と男は思う。
いくら本人が望んだからといって、真冬の骨も凍る冷たさの池に沈めたのだ。己も納得づくで行ったことだとしても、内心に思うところがあり、それがこうして夢に出てきているのではないだろうかと。
現実には濁っていた水が透明なのは、せめて綺麗なところで眠らせたかった気持ちの表れか。あんなに寒い場所で、寂しがるのは彼の方だろうと。
生来、霊だの妖だのを信じるような性質ではないが、今になって人がそういったものを求める気持ちが理解できる。もう届かない死者への後悔を抱えきれないがために幻想を見て、その果てに己の体すら死に寄せてしまう。己にもそれほどの情動があったのかと、それでまた寒気が上る。
日に日に渇きは増していった。反面、寒気はこれ以上ひどくなることはなかった。水温は上がらないが、下がりもしないからだろう。
真夏になったのに、やはり汗が流れることはない。アスファルトを焼く日差しに当たっても震えが収まらない。体の中に水がとどまらない感覚が当たり前になり、それなのに脱水症状で倒れることもなかった。
水面の夢は毎夜見るようになって久しい。日毎に夢の中の居心地がよくなり、夢が現実であればいいのにと思わずにはいられない。それでも、男の痛みが罰であるのなら、男は生き続けて親友との約束を守らねばならなかった。
今夜も夢を見る。
「繋がってる。繋がってるンだ、お前も来いよ。もうそっちは暑いだろう。俺たち、毎年今回の夏こそは死ぬんじゃねェかって酒を呑んだなァ」
ああ。でも今年は暑くないんだ。むしろ寒いぐらいでね。
「それは、繋がってるからなァ。だからお前も来てくれよ。俺ァ寂しくないがよ、お前は案外寂しそうだぜ。歳取ると人間弱っちまって困るなァ」
ああ、だが、まだ少なくとも今年の冬までは行けないよ。お前がきちんと眠れるように。
「お前、丸くなっちまって、そんな律儀にさあ。大丈夫だ、ここはみんな残ってるし繋がってるンだ。平気だ、お前も乾いただろ、こっちは湧いてるぜ」
どこに繋がってるっていうんだ。湧いている? なにが。お前、どうしたんだ。
「俺に。お前に。すべてに。なあ、でもお前、本当に山なんか持ってたか? でも繋がってるからなァ、お前を潤すものが湧いてるぜ、早く来いよ」
どういうことだ。お前、まだその感性に任せた話し方をしているのか。それじゃあわからないって言っているだろう。
「来い。繋がってるから、大丈夫だ。ほら、聞こえるだろ」
細いせせらぎが意識に入ってくる。夢の覚める合図だ。まだ聞かないといけないことがあるのに。体の痛みが戻ってくる。ああ、
「行くよ……。お前は、ちゃんと聞かないとわからないようなことばかり言うんだから……」
夢から覚めて、男の渇きは最高潮に達していた。節々が痛む体と干からびた喉では、あの山まで自力で行くのは困難だった。タクシーを拾って枯れた声で行き先を告げる。
あまりに聞き苦しい声だったのか、聞き返された。
「しづる山前バス停まで、おねがいします」
さきほどよりははっきりと伝えられたと思ったが、運転手の顔はしかめられたままだった。
「あの辺は忌地ですよ。まさか自殺、なんて……」
「いえ、そういうつもりは一切……。忌地なんですか?」
「沈蔓山に好んで近づくやつなんていませんよ。本当にそこでいいんですね?」
「ええ、お願いします」
再度告げると体力の限界で、ぐったりとシートに背中を預ける。夢に見た親友の言葉を思い返す。己の渇きが見せた願望だと心の底では思っていた。あの池に行こうと思ったのは、親友に呼ばれたからではない。万一にも親友の形が崩れていてはいけないと思ったからだった。しかし、あの濁った池を上から覗いて、何がわかるというのか。
夢に釣られて、覗き込めば底が見えるものだと思い込んでいた。夢の透明な水面と、冬山の池が同じものだと確信しはじめたのはいつからか。
もう何も考えたくなかった。ただ親友のそばに行きたかった。せせらぎが耳元にやってくる。
「水は全部に繋がってるだろ?」
強張ったままの顔をした運転手が、気味悪そうに運賃を受け取りさっさと帰っていった。
よろめく体で山を登る。己がどうして動けているのかすでに分からなくなっていた。
ただ耳元で親友の声が聞こえていた。耳鳴りのように、せせらぎのように、早く来いよとささやき続けている。幻聴だろう、とかすかな理性が判じるが、確かにその先に己の渇きと痛みを癒すものがあるのだという不思議な天啓がおりているような気がした。
己のすべてが渇ききっている。還暦をとうに超えて親友と呼ぶような男の遺体を自ら沈めたときから渇いていたのだ。
気が付いたときには、男の目の前に池があった。
ざぶ、ざぶ、と分け入るように入ってゆく。ようやく体が正しく水の冷たさを知覚する。寒いのではなく冷たかった。関節を刺す痛み。喉の渇きは収まっていた。池は濁っておらず、親友の周りにも沢山の屍蝋があるのが見て取れた。
構わずに進む。親友は一番奥にいると思った。腹のあたりまで水位が来て、進みづらくなる。
これ以上は進めない。困ったな、と体が沈むままに任せた。それでもきっと問題ないのだろう。なぜなら、
「全部、繋がっているからな……」
この怪異は食虫植物みたいな感じです。