人類滅亡前夜のこと。
理由も経緯もどうだっていい。唯一の事実は、僕がもうすぐ死ぬということだ。
超大国間の緊張は、あらゆる国の必死の仲裁にも関わらず、一線を超えた。今、街に戦火が降り注がないのは、平和ではなく、破滅に向けた助走期間に過ぎない。
うららかな午後の陽射し、夏に向かい色濃くなってきた緑、静かな青空。これら全ては、今、一層鮮やかに在った。生きとし生けるものが最期に生命の輝きを一際増しているのだ。嵐の前の静けさの中で、全てが活きて輝いている。
それを、ただ、美しいと思う。
一時、「戦争は起こらない」と熱弁していた知識人はバツが悪そうに沈黙し、「国民のみなさまの生命・身体・財産を守り通すべく万全を期して……」という何の気休めにもならない政府広報がそこかしこで流されている。
意外にも混乱は起こらなかった。
どこへ逃げても助からないのだから、パニックは起こりようもない。あるいは、世界の終わりというイベントには現実感が欠けていたからかもしれない。
ともかく、僕だけじゃなく多くの人々が、恐怖と不安と高揚感とある種の好奇心の入り混じった不思議な気持ちで「余生」を過ごしているはずだ。
「もしもし、元気してる?ちょっと挨拶しておこうかなって」
「おお、久しぶり。こっちは元気。もうすぐ、関係なくなるけどね。そっちは?」
努めて平静に返す。
電話の主は、大学時代の旧友———かつて想いを寄せていた相手だった。
正直に言うと、死ぬ前に思いがけず、もう一度その声を聞くことができて嬉しかった。
「大変な事になったね」
「まあ、人類史上稀有な死に方ができるし、一人じゃないって意味ではラッキーかもね」
「ポジティブだね」
「実感湧いてないだけだよ。———それより、お仕事大変だったんじゃない?」
彼女は、外務省に勤めている。今回の件では、僕らの国も仲裁に名乗りを挙げて奔走していたから彼女もきっと大忙しだったに違いない。
「アハハハハ。この世の終わりかと思った———終わりなんだけど。全然関係ない部署まで駆り出されて、連日連夜対策会議ですね。結局、国民のみなさまをお守りできず不甲斐ない限りです。もう、申し訳が立たなくて表を歩けないよ」
「随分と棒読みな笑いですこと。まあ、他の国も無理だったし、抗う可ら不る力ってやつじゃないですか?ほんとうにお疲れ様でした、ありがとうございましたって感じですね、一国民としては」
本当にそう思う。
そして、彼女みたいに必死に頑張った人が報われないのは嘘だ。
頑張った人は報われなければならない。僕みたいなのが死ぬのは別として、彼女まで死ななくてはならないことが悔しい。正義の女神様は、天界で眠りこけているのだろう。
「———ありがとう!そう言ってくれる人がいると多少救われる!それで、もう無理ってなったら急にお仕事無くなって暇になったから有給取ってお電話して回ってる」
「それはそれは。わざわざ僕のところまでお電話いただいてありがとう」
「いえいえ!大切な友達だから———」
ふと、「この瞬間に世界が滅べばよいのに」という考えが浮かんだ。
それは多分、独占欲だ。
僕は、この人がまだ好きで、この人を独占したい、その為に今この瞬間に彼女が死んでしまえばいいと考えたのだった。
僕を見下ろす僕が、「恋愛感情というのは癌みたいだな」と溢した。
———寛解したと思ったら、電話一本で再発しやがって、平然と道徳を突き破り狂気に至る。実に厄介な病理だ。
彼は、これから世界が滅びるというのに未練に囚われた男を冷笑していた。
「———何がおかしいの?」
「いや……来年の桜が見られるかなと思って」
「桜?」
「余命宣告された時に言うじゃん。人類自体が余命宣告されてるわけだから———」
「いいね!桜の季節まで生きてたら、大学のみんな集めて花見しよう!」
「———春の梢に咲いて会おう」
「それは多分もう死んでるね……。そこは、せめて『酒盃に襟の色映し』じゃない?我ら、文民だけど」
「ハハハハ、戦争で世界が滅ぶ前に軍歌で花見の約束してるの、我々くらいだろ」
「だね」
こういう会話がひどく懐かしい。
ハイコンテクストな会話ができる人だった。生育環境なのか思想傾向なのか興味関心なのか、不思議と波長が合う人というのが居るものだ。僕の場合、それが彼女だった。
そして僕は多分、こういう日常が好きだったんだと思う。
「来年の桜、楽しみだなぁ———」
彼女がポロリと言う。
それは反実仮想だ。
明日にも、この星から生命は消えるのだから。
それでも、僕らは桜を幻視した。
降り積もった雪のようにたわわな淡い花々を見た。枝の微細な構造とそれが風に揺られるたびに舞い散る桜を見た。その桜は、やはり鮮烈なイメージとして在った。
桜は、いかなる兵器による破壊をも拒絶していた。
もう一言二言会話を交わした後、彼女は、他の友達にも電話するからと述べて電話を切った。惜しむように、とても丁寧に今まで世話になったと礼を述べてから。
何か決定的に断たれた気がする。
それが何かは分からなかった。