秋 ~校舎の夕日~
「先生!オレのカバン、よろしくな!」
「あっおいこら!」
校門前で出会った担任にカバンを投げつけ、少年は駆け出した。
忘れ物をした。夕陽で赤く染め上げられた廊下を、少年の黒い影が流れ去る。
階段を一気に三階まで駆け上がり、渡り廊下を走り抜け、一番奥の教室を目指す。
少年の教室がある東校舎は、窓が東側に面しているためにこの時間は少し薄暗く、夜の気配が忍び寄る。旧館とも呼ばれる東校舎の廊下は古めかしい造りと薄暗さが相まって不気味な雰囲気を醸し出す。
そんなことを気にも留めない少年は、たどり着いた教室の前で息を整えるついでに廊下の時計を見上げた。
17時27分。校門前で先生と出会ってから、約二分程度。なかなかのタイムだ。少年は満足げに頷いた。伊達に毎朝チャイムと戦っていない。
磨りガラス越しに見える教室の中は、やはり薄暗い。中庭を挟んだ西校舎が夕陽を遮っているからだ。
暗くなる前に帰ろう。そう思い、少年は教室のドアを引き開けた。
――フワリ
窓から入る風が、カーテンを揺らす。たなびくカーテンの前には、オレンジ色の光を浴びて一人の女の子が立っていた。小柄で、黒い髪をショートカットにした女の子。彼女は驚いたように、ドアを開けた少年を目を見開いて見つめている。
知らない子だ。
「君、だれ?」
少年は直球で尋ねた。少年のクラスメートではない。同学年でも見たことがないと思う。
しかし少女はこの学校の制服を着て、この教室にいる。
「私、前にこの教室だったの」
少女が答える。風に揺れる、花のような声だった。
少年は納得する。他学年の顔まで覚えているほど、彼の記憶力は優れていない。
つまり、彼女は先輩ということか。同い年、いや、年下だと思った。制服に感じた微妙な違和感も、学年が違うせいだろう。
「あなたは?」
少女が尋ねた。
「あー、いや…オレは今このクラス。ちょっと、忘れ物をして…えーっと…」
少女に真っ直ぐに見つめられ、少年はどぎまぎする。慌てて視線を逸らし、逃げるように自分の席へと向かう。机の中をあさり、目的のプリントを引っ張り出しながら、少年は少女を窺った。彼女はじっと窓の外を見ている。
「ねえ、何見てるの?」
少年は気になって少女に尋ねた。この教室の窓から見えるのは、暗くなった中庭ぐらいだ。じっと眺めるほど面白いものが見えるわけではない。
「夕陽」
少女が短く答える。
「ここから見える夕陽が、一番好き」
「夕陽?」
少年は首をひねった。この教室から、夕陽が見えるはずがない。だって――
そのとき、少年は顔に当たったまぶしい光を思わず手で遮る。
「そう。すごく、きれいなの」
少年は少女がいる窓際に駆け寄った。
「そんな、はずが…」
燃えるような、美しい夕陽。窓から差し込む光が、教室を赤く染め上げる。
「西校舎は?」
この教室からは、新館である西校舎に遮られ、夕陽を見ることはできない。できないはずだ。
しかし今、教室の窓からはなにものにも遮られることなく、山間に沈んでいく夕陽が見える。
西校舎が消えていた。
茫然とする少年を見て、少女は何か気付いたようだ。「…ぁ」と小さく声をもらし、それから淡く笑った。
ザァ
窓から吹き込む風が、カーテンをなびかせる。少年の視界を、少女の姿を、儚いその笑みを覆い隠す。
「ごめんね」
そう、言ったのが聞こえた。
燃えるような夕焼け。誰もいない教室の窓辺。耳に残る少女の声と、淡い笑み。夕陽が何もかもを真っ赤に染め上げていた。
「おや、忘れ物かい?」
その声に少年ははっとする。暗い廊下の向こうから用務員のおじいさんが歩いてくる。
「さっき戸締まりを確認したから、開いてないだろう。今開けるからなぁ」
「えっ…?いや…」
その言葉に、少年は戸惑う。落とした視線の先に、さっき机から引っ張り出したプリントを握った手が映った。
「入れた…けど…?」
少年が不思議そうに呟くのを聞き、おじいさんは首をひねる。
「そんなはずはないよ?さっきちゃんと鍵を閉めたからね。ほら」
そう言ってドアを引く。ドアは開くことなく、ガタリと音を立てた。おじいさんが持っていた鍵の束をジャラジャラ鳴らしながら鍵を開け、ドアを引く。ガラリと開いたドアの先には、西校舎に日の光を遮られた暗い教室。
「あれ…?だって、さっきは…」
どうかしたのかい?というおじいさんの言葉を無視して、少年は廊下の時計を見上げる。
時計の針は、17時27分を指していた。




