青臭い果肉・抽象
難航すると思っていたワインの買い付けの交渉があっさり終わったので、日程がぽっかりとあいた。
帰国便を取り直すこともできたが、三沢は少しゆっくりしたいと思った。
笑顔で握手を求めてきた担当者のA氏にそのことを素直に話す。
すると、A氏は笑い皺を深くした。
「良い保養地があります」
告げられたのは、高速鉄道で2駅先の位置にあるマイナーな土地。
ワインの買い付けで世界をめぐる三沢は、旅行ガイドに載っているような観光地のほとんどを記憶をしている。けれど、この土地を聞いたことはなかった。
買い付けの仕事を始めてずいぶんと経ったが、世界にはまだまだ広く、未知というものがあふれている。三沢はこの事実を嬉しく思う。
そんな彼に、A氏はその土地を絶賛。いわく、風光が明媚を極める、焼き加減が絶品の鴨を出すが、外国人は絶対に泊めない宿があったりする。その宿はA氏の名前を出せば問題がなく泊まることができて、秘蔵のワインまでつけてくれる。などなど。
A氏の力説に、それは素敵ですね、と笑顔を作りながら、三沢は少しだけうんざりした。
饗応という物事そのものに飽きていたからだ。
もし良ければ駅まで車を出しますよ、というA氏の申し出を謝絶しかけて、三沢は思い直す。
今後の買い付けも考えると、人間関係は深めておいた方が良い。
車内では他愛のない会話をした。不況とか外国産の安価品の悪口とか、工業化に対する嫌悪とか。
伝統的な手順にもとづいて仕事を丁寧にする高齢者は、大体似たようなことを話す。
だから三沢はA氏を信頼のできる人だと思った。けど農場はもって25年だろう、とも。
降車の直前に、A氏は思い出したように、鉄道は途中で下車しない方が良いですよ、と三沢に助言をした。今の時期は降りると酷いことになる、と付け加える。
ふと、三沢は胸が高まるのを感じて、途中下車を決めた。
駅で英字新聞を新聞を買った三沢は、乗り込んだ車内で広げる。英文はすらすらと読めるが、アルファベットのbとdの判別がつかない。
これは最近始まった老眼のせいだ。三沢はため息をついて、係員を呼び止めてビールの缶を数本買い、老眼鏡をかけた。
列車が走り出して少ししてから、三沢は老眼鏡を外した。
そうしてなるほど、と独りごちる。
トマト祭りか。今年で5回目。祭りとしての歴史は浅いが、毎年中々の盛況らしい。
スペイン発祥のトマト祭りは、世界各国で開催されている。が、時期や方式はまちまちで、ここも独自色を強く出している。よじ登り用の柱に塗るのは石鹸ではなく生クリーム。前夜祭では中央広場の噴水の水はワインに変わる。サーカスも来るし、開催は8月の最終週。
日曜日を除いた全ての曜日に、トマトが飛び交い、潰れる。
三沢はA氏が今の時期と言った理由が分かった。今日、街に着いて改札を出たらトマトが飛んでくるかもしれないからだ。
途中下車は正解だと、三沢は嬉しく思った。
※※※
「三沢か」
「甲斐か」
列車に備え付けのトイレの前で、三沢は甲斐と鉢合わせをした。
高校を卒業してから実に30年ぶり。再会の場所が地球の裏を走る高速列車の車内とは。
三沢は甲斐と一生会いたくなかった。
30年たっても、前髪が薄くなって地肌が見えても、この男のペリカンみたいな受け口は変わらない。
三沢は舌打ちをしかけた。音楽活動をしていた時、涙ほくろを消したらと持ち掛けられたことがあった。オセロのコマみたいで、大きすぎるとのことだった。テレビ映りが悪いという。
あの時に消しておけば良かった、と三沢は後悔する。こちらが気づいても、相手が気づかなければ、目を合わせずに素通りできた。
いや、そもそもトイレになど来なければよかった、と三沢は重ねて思う。
それから車窓からの景色に責任を転嫁。壮大過ぎる景色は、ビールを過剰に飲ませる。酒のあてとして極上すぎる、と。
※※※
三沢と甲斐は、中学からの同級生だった。彼らは四方を山に囲まれた街で育った。
その街の小ささは、ゴルフ場の芝生にあいた穴に似ていて、中央を流れる川沿いをバスで進んだ先の中規模都市とは文明が違っていた。この都市の高校に2人とも進学。
もう1人、同じ通学バスで揺られた生徒がいた。名前は美妻智子。同学年だった。
農業を志して移住してきた両親のもとで、年がら年中農作業に駆り出されていた彼女は、夏は炭のように黒く日焼けしていたし、だからキャベツの畑から上体を起こして笑った時、歯がとても白かった。
その白さが、並びの良さが、今でも三沢の目に焼き付いている。
おやつ代わりのキュウリの浅漬けを、美妻智子は通学の行きかえりに、三沢と甲斐によく融通した。
三沢は受け取るたびに、ジャガイモのようなニキビ面を少しだけ赤くしていた。
ひそかに、浅漬けをバレンタインのチョコレートに脳内変換し、鼓動を速めていたからだ。
一方の甲斐は、だせえよ、と言って毎回拒絶。
が、このいがぐり男も、結局は浅漬けをかじっていた。
今でも三沢は、思い出すたびに舌打ちをする。あいつはそういう男だ。素直じゃない。
三沢と甲斐は高校でも同じ部活で美術部だった。が、画題はまったく違っていた。
美妻智子の横顔をよく描いていたのは三沢で、浅漬けの野菜ばかりをデッサンしていたのは甲斐だった。美妻智子は水泳部で、夏はいつも以上に日焼けしていた。
それだからか、三沢は美妻智子に夏を連想することが多い。
きゅうりの浅漬けを咀嚼する時に、口腔で響いていた音。食感。塩の苦みと蝉。青空に膨らむ乳白色の雲。
三沢は3年の夏の夕方に、甲斐と美妻智子が付き合っていることを知った。
暮れなずむ光に染まる三沢の虹彩に、キュウリのハウスが映っていた。シルエットに近い美妻智子は甲斐に抱き着いていて、甲斐は美妻智子にむしゃぶりついていた。
水泳で鍛えられた肉体。その凹凸。揉みしだく手の主は、甲斐。
列車に備え付けのトイレの前で甲斐と対峙する三沢は、記憶そのものに拒否感を覚える。
それは当時の衝撃よりも、発覚の後の気まずさに由来する。
甲斐と美妻智子は2年の冬から付き合っていた。きっかけはバレンタイン。
美妻智子は甲斐に、本命だよと言ってチョコレートを渡したそうだ。
キュウリの浅漬けではなかった。
傷ついた三沢は何日か放心した後、鏡を眺めた。にきび面の頬がひどくこけて、目に力がない。
涙ほくろだけが、相変わらず湿ったように黒々している。
「涙って、透明じゃなくていいんだな」
口がつぶやく。
透明な涙を煮詰めると、真っ黒な色になるかもしれない。
そんなことを考えて、乾いた笑い声を立てた三沢を、感情の大波が襲った。
せき立てられるような使命感に変質したそれは、少年をカンバスの前に押し流す。
そうして、油絵に熱中する日々が始まった。絵の具を垂らした毛筆の先に美妻智子の姿を探す毎日。
単純な写実画ではない。哀惜。過ぎ去りしもの。消そうとしても消せない、輝き。夏という抽象。
制作を重ねるごとに、三沢の描く美妻智子は人体から遠ざかっていった。
10作目で彼女は甘く爛れた果実のようにも、化膿した肉の裂け目のようにもなった。
色彩の数は減り、赤と黒の夕焼けのようになったその姿は、目にする者に暴力的で、しかし繊細な印象を与えた。強烈と精緻。
少年は完成したそれを冷やかな目で眺め、ふと気配を感じて肩ごしに振り向くと、顧問の美術教師が瞠目していた。喉が別の生き物のように動いている。つばをいくら呑んでも足りないらしい。
教師は三沢に芸大の推薦を提案。三沢は受け入れて、芸大に進学。
在学中に賞をいくつか獲得したが、青年となった彼を満足させる論評は1つもなかった。
三沢は、美妻智子という喪失に向き合いたかった。その望みは切迫であり、それ以外の感情は失せてしまったと、青年は感じていた。
けれど、風の噂で甲斐と美妻智子が別れたと知った時……。
三沢は痛みに近い憎悪を、旧友に対して覚えた。
この感情を契機として、三沢は芸大を退学。持て余した感情のはけ口を探して、音大を受験。
合格の後のバンドデビュー。意識の深層に訴えかける譜面作りは、最初にライブハウスで評価を得た。それからメジャーに進出。海外ツアーを機会に活動の拠点をイギリスに移した。
三沢という名前が1つのジャンルとして定着したある日、中年となった彼は1つの限界を迎えた。
それは精神ではない。体力の問題だ。
憎悪も喪失もしっかりと在るのに、肉体だけが悲鳴をあげている。
半年間ほど寝込んだ中年男は、見舞いにきた音楽関係者の持参したワインに驚愕した。
あまり知られない土地で醸造されたその液体に、芳醇と酔い、酸味と香りに、三沢は神話を感じたからだ。
アル中というのは、世界で一番幸せで、しかも失礼な人種かもしれない、と三沢は思った。
こんな祝福に依存症などという汚名を着せる。
美酒は美食と共にあるべきだ、と中年男は強く感じ、直観のままに音楽活動の引退を決意。
著作権も売り払って、ワインの輸入販売会社を設立した。
まずは神々の美酒にふさわしい料理店を探す。星持ちの飲食店が多かったが、無くても三沢は構わなかった。ワインを卸す条件は3つ。
はじめに美酒にふさわしい美食を提供すること。
次に客数が少ないこと。三沢は生産量に合わせた本数しか輸入しない。
最後に、誠実であること。
卸し先の開拓と並行して、事業家は世界を飛び回った。バンド時代の人脈をフル活用し、美酒の生産者を探す。1つの産地に頼り切ることは、というよりも何かに依存しきることは危険だと、三沢は少年時代の経験から学習していた。
事業は3年で軌道にのった。しかし三沢は会社を株式化することもなく、社員すら雇わず、あくまで個人輸入業者であり続けた。初老を迎えて何年もたった現在、三沢は仕事に満足している。
※※※
無言で甲斐を押しのけて入ったトイレで放尿を済ませて、三沢が一息ついた時、彼は便器のたもとに黒革の財布を見つけた。
嫌な予感を感じつつも、つまみ上げ、開く。
目に飛び込んできたのは、甲斐の免許証。これは何の呪いだ、と三沢は舌打ちをした。
事業家は車内を捜索。持ち主に財布を届ける。
甲斐は不機嫌な顔で受け取り、その顔のまま、席に戻る三沢についてきて、隣を占領した。
「お前の席、違うだろ」
「確かめたいんだ。ここで会ったのも何かの縁だからな」
― 縁なんてごめんだ。えんがちょだ。でもそれなら……。―
「こっちも、甲斐、お前にききたかったことがある。30年、ずっとききたかった」
2人は顔を見合わせた。
列車がゆるいカーブに差し掛かり、床が傾く。
男たちは片手で椅子を掴み、慣性に抵抗しつつ、にらみ合う。
「どうして美妻さんと別れた?」
「何で芸大やめたんだ?」
2人は同時に切り出し、同じタイミングできょとんとした。
「別れるなら初めから付き合わなければ良かったじゃないか」
「芸大中退するなら推薦枠つかうなよ」
言い足しも双子のようににぴったりで、三沢は、これは何の冗談だろう、と頚を傾げたくなる。
その後の会話で判明した事実。
まず、甲斐は推薦枠を希望していたこと。
次に、美術の先生からは内々の許可を得ていた推薦が、結局三沢によってご破算となったこと。
しかし三沢の画才が別慈眼に達していることは瞭然であり、結局甲斐はあきらめるしかなく、けれど諦めきれず、浪人して絵の道に進もうとする中で、美妻智子は先に進学し、大学に恋人を作り甲斐をふったこと。
彼女はこの時には水泳もとうにやめていて、楚々としたお嬢さんになっていたこと。
最後に、甲斐が結局芸大には受からず、専門学校に進み、現在は画商の仕事をしているということ。
三沢は、次々と明かされた事実たちに驚愕を禁じ得なかったし、目も泳いだ。
目の前の受け口男に内在する情熱は、30年という月日に劣化をしない。
甲斐のこの情熱に、三沢は感嘆と、かすかな嫉妬を覚えたが、肝心の怒りはというと……。
あるにはある。しかしそれは車内の冷房に気化していく。
だから、三沢は戸惑いを感じた。
この奇妙な邂逅と、判明した事実と、消えていく憎悪、それらの全てに。
「で、今は仕事何してんだよ? 有名人」
「ワインの買い付けをやってる。三ツ星にも卸してて結構顔が利くから、僕の名前を言えば安くしてくれるよ」
A氏みたいなことを言っていると自覚した三沢の目は自然と泳ぎ、肩はすくめられた。
そんな三沢に、甲斐は目をすがめる。
「絵もギターも才能あって、ちゃんとめちゃくちゃ有名になって、結局ワインか」
「落ち着いたのはそこだけど、活動がなかったらうまくできなかったよ。この仕事は」
弱ったような顔で、けれど瞳に自信を込めて微笑む三沢。
受け口の下唇を突き出して、三沢を睨む甲斐。
無言の時間が10秒ほど続いた後で、甲斐は、はあ、とため息をつき、目を閉じて首を横に振った。
合わせるように、列車が減速を開始。
到着のアナウンスが流れた。
男たちは同じドアを通って列車を降りた。
改札を通る直前に、甲斐は三沢の肩をつかんで振り向かせ、
「なあ。三沢」
と凄んだ。
薄くなって頭皮の覗く髪は、ヤクザのように後ろに撫で付けられており、そげている頬のわりに二重顎はどっしりとしていて、アンコウを連想させる。
そんじょそこらの犬なら、迷わず降参の姿勢を取りそうな威圧感だ。
「何だよ」
「トマト祭りだろ。ちょうど今やってる時間だ。中央広場で、やり合おうぜ」
一瞬、意味が分からなかった三沢だが、すぐに得心した。
あばたが残る鼻が、その孔が小さく膨らむ。
三沢の47才の脳を、トマトの匂いが刺激した。それは駅構内に充満している。
生臭く、青臭く、どろりとした臭いだ。
「僕たちはお互いに恨んでいる」
「そうだ。30年も恨んできたんだ。しかも、似てるんだぜこの街は」
「何が?」
「山に囲まれてる。俺たちの街にそっくりだ」
甲斐は笑い、三沢もつられた。
まあ、これも、と三沢は推し測る。
これも何かの縁なのだろう。地球の裏で30年ぶりに再会。しかも故郷に似た街で。
……ふと、三沢は錯覚を覚えた。
本当は、日本には高校三年生の自分がいるのではないか。
絵に打ち込むという形で逃避する自分。
そんな自分を遠目に眺めながら、推薦枠が埋まったことを担任に宣告されて、絶望する甲斐。
プールでしぶきをあげながらクロールする美妻智子。
時間も場所も遠すぎるからこそ抱いた錯覚に、くすぐったさを覚えながら、三沢は同意する。
「そうだな。中央広場まで歩いたらお互いトマトまみれだけど、でもそれがいい」
「だろ? さすが……」
言いかけて、甲斐は口をつぐんだ。
さすが親友、と言いかけたんだろうな、と三沢は思う。
47歳の事業家は、旧友から顔を背けた。
そのまま改札を通りながら、これからの事について想いをめぐらす。
中央広場でお互いにトマトをぶつけ合う。怨念を、鬱憤を、嫉妬を、晴らす。
その後、関係はどうなるのだろうか。まあ、終わったら考えよう。
三沢は駅の出口に向かった。
トマトの匂いが強烈なその出口は、逆光のために白く輝いていた。
陽気な罵倒のような歓声が三沢の耳に届き、彼はそれを音楽のようだと思った。