魔王のいないファンタジー世界(10)
馬面と一緒に上がって来たのは、――
「ヒィ……」
全身の痛みすら忘れるほどの嫌悪感。体温を奪われると錯覚するほどの情報が視覚をジャックする。
「不浄でも、聡明な魔女ならば一目でわかるだろう。こいつはドクブタ、ありとあらゆる性病を詰め込んだ女を壊す化け物だ。削げた鼻も、朽ちた下顎も、そして、クククッ。腫れ上がったそれの説明はいらないだろう」
「旦那。こっちの部屋は武器の宝だ。見たことねぇのもたくさんある」
「そうか。全部出しておけ。武器は金になる」
廊下の影にグリコレスが溶けていく。そして、入れ替わるようにして現れたそれは、廊下を埋めるほどの巨体。床が抜けそうになるほどの重量に重い音が響く。
身体的特徴から元はオークなのだろう。だが、醜くただれた肌と鼻を刺す悪臭、ヤニのたまった眼がぎょろりとしている。下顎の欠けた口からはだらしなく長い舌が垂れ、腰布を持ち上げるほどいきり立つそれが何を意味するのか、やはりグリコレスの言葉通り説明はいらなかった。
「ふっ……フゴッ……フシュルル」
開きっぱなしの口から溢れる異音に恐怖が掻き立てられる。まるで言葉の通じない化け物だ。こちらの不安をかきむしり、溢れんばかりの絶望が押し寄せてくる。
あれはやばいと、全身から汗が吹き出た。グリコレスに対して覚えた感覚とは違う、直感的な危機だ。女を壊す化け物に比喩はない。シンプルだが、それ故に後の展開が濁流のように脳裏を浸潤していく。
ゆっくりだが確実にまっすぐ歩みを進める化け物が手を伸ばす。そこに、たまたま手に触れたものでとっさに殴りつけた。手にしていたのは、最初にマタタビに馬乗りになっていたチンピラを殴った際に折れた角材。けど、相手の重量に対して非力すぎた。手に伝わる衝撃が激痛に変わる。
「フグォ」
「んぐ!?」
図体に対してあまりにもはやく、そして見た目通りの腕力で首を掴まれ、手の大きさから口まで塞がれてしまった。まずい。これでは詠唱ができない。
「んごごご」
だらしなく垂れた舌が犬のように上下に揺れている。それに合わせて飛び散るよだれが気持ち悪い。こいつ、楽しんでやがる。欲望のまま動く姿は獣そのものだ。暴虐の限りを許された獣の眼が笑っていやがる。
頭の奥で叫ぶマリアの声が聞こえない。認識できない。気道が狭まっているのか息が苦しい。ゆっくりと持ち上がる体が宙に浮き、抵抗のための踏ん張りすら効かなくなる。
「んん……ん、んんッ……」
声にならない音だけが漏れる。全身の痛みよりも目の前の恐怖が精神を蝕んでいく。
「いっ……って。なん、だ……いてぇ」
意識を失っていたチンピラが目を覚ました。ことの状況を認識しておらず、ゆっくりと立ち上がった際にドクブタと目があった。
「ド、ドクブタ!? なん――」
ガシャン。――ドチャ。
言葉よりも先に。振った片腕でチンピラの体を軽々と殴り飛ばし、廊下の窓を突き破って下へと落ちていった。
「でへぇ。どぅへへぇ」
眼を細めて、肩を揺らして笑っている。卑しく歪んた眼のまま、上から下へ、下から上へと舐めるように視線を動かしていた。
体の痛みを無視してバタバタと足を動かすも、丸太のような腕は微動だにしない。圧倒的な体格差に本能的な恐怖が押し寄せる。
こちらには抵抗する術がない。数分と待たず暴虐が始まるだろう。このままでは本当にまずい。
「旦那。武器庫の奥に派手な壺があったぜ。これはいるか?」
「骨董品だが汚れと破損が多すぎる。壺自体は売れなさそうだが、中身は確認しとけ。音からして宝石か何かはいっているだろう」
巨体の奥での会話が耳に入るが、あいつらにとってこちら側の出来事はすでに終わったことのようだ。
「んん! んんッー!!」
もがく声が虚空へ消える。こちらの様子にご満悦な化け物が大量のよだれを床へと落としていく。振り回す長い舌が、こちらの体に近づいてくる。
「へげぇッ!?」
急に苦悶の声を漏らす化け物。目線を下に向ければ、マタタビが大木のように太い足に爪を立てていた。
「ゴ、……シュジン、離、す……ニャ……」
深々と突き刺さる鋭利な爪。それをゆっくりと動かすことで肉を抉っている。いかに巨大な肉体であろうと、それが鋼鉄でないのならネコの爪は容易く掛かる。
「っづッ! ッづッ!!」
「ン゛ニ゛ャ゛!」
マタタビの爪を引き剥がそうと蹴り上げた足が、小さく傷ついた体を吹き飛ばすには十分だった。あまりの勢いに飛ばされて、窓際の壁に叩きつけられたマタタビが床に倒れ込む。
――やめろ。
心で叫ぶも。言葉の通じない獣にこの意志が伝わることはない。楽しみの前に邪魔をされた怒りが、少女の体にも容赦なく振り下ろすために持ち上げられる。
――やめろ。マタタビを傷つけるな。
この異世界で、マタタビは良き理解者になってくれた。こんな俺にも、友達のような関係を築けることができた。その絆が、簡単に砕かれてしまう。
――やめろっ!
声にならない乾いた叫びが――
グシャ――
――マタタビに振り下ろされようとしてた拳を目で追って、次に視界に入り込んだのは真っ赤に染まった世界だった。
「ん゛っ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ッ゛!!」
鼓膜に突き刺さる劈く咆哮。重く太い肉の塊が床に落ち、飛び散った血が周囲を汚した。
「いっでッ!」
宙に浮いていた体が急に墜落し、いきなりだったために受け身を取れず、尻もちをつく。隣では、腕から血を吹き出しているドクブタが落ちた肉塊をくっつけようともがき苦しんでいた。
「な、にが、あったんだ……?」
朱の世界。赤い液体を満たしたかのような、影すらも朱に染まる。氾濫する単色の海に、異様なものが浮かんでいる。
人の丈よりも巨大な剣。宙に浮く白刃の先が、――
「ぐぼぉッ!?」
ドクブタの背後から突き刺さって喉を貫通する。見えない力が刃を引き、巨大な肉の塊を袈裟斬りにした。聞くに堪えない叫び声も、痛みに痙攣する肉体も一切合切を考慮しない所業。肉を離れても返しの刃は更に切り裂き、ものの数秒で解体された肉の塊が転がるだけになってしまった。
あまりの状況に息を呑む。凄惨と呼ぶにはあまりにも単調で、刹那的だが流動的で、そうなるのが当たり前とすら感じさせられる。
「ぎゃー! 旦那、た、たすけ――」
「ちっ、なんだこれは!? なんなんだっー!!」
赤い影の先でも叫び声がする。床に落ちる鈍い音も、金属同士がぶつかる音も、何かを引きずる音も、見えない先でなにかが起こっている。
『――さん、ナカムラさん! ああ、よかった。ようやく届いた』
全身を蝕む感覚が変わったからか、頭の中にマリアの声が響いた。
「何が起きてるんだ。それに、なんだこの赤いの」
『これはオリバです。この屋敷に設置された、”マリアという存在”が危険に陥った場合に自動発動される終末装置ですね。まさか、こんな形で発動するとは思いもしませんでした』
オリバ? ってあの弟子の一人か?
「私は許される者だぞ!? こんな仕掛け、不敬な館ごと消し飛ばしてやる!!」
廊下の奥に何かが流れていく。肌から温度が奪われる感覚。先にグリコレスが剣を構えたときの感覚に似ている。たしかあのとき、馬面が火がどうとか……。
「ま、まさか、この建物を燃やす気か!?」
『大丈夫です。この霧に満たされている間は、いかなる魔法も使えない』
赤い闇から響く叫び声。若干の焦げ臭さは漂うも、それが不発に終わり断末魔に変わったことだけは理解でき、また何かが落ちる音が聞こえた。
――カシャン。