魔王のいないファンタジー世界(9)
「実に運がいい。招かざる者が防壁の張られた魔女邸への侵入は骨が折れる。これはいっそのこと火でも放とうかと思っていたところだよ魔女様。だが、穴ができてしまえばこっちのものだ」
グリコレスが右手に持つそれは、虚ろに揺れていた。滴るそれは床を染め、鼻に届く鉄臭さに瞳孔が開き、冷や汗が吹き出る。
「いつか誰かが言った。『疑わしき悪意の芽は徹底して摘むのが摂理』。かの魔王が勇者に放った有名な言葉だ。もちろん知っているだろう魔女様」
『ちっ……。やられましたね。まさか、内側から突破されるなんて』
「ロ……」
言葉は容易にかすれ、鼓動は加速する。
なんだこれは。
俺たちは一体、何をした。
何をしていた。
何を見落とした。
何を見過ごした。
俺の判断か? それとも――
「だが、疑わしい悪意の前に、野ウサギが自ら姿を現すなどと、やはり見立ては正しかった。道中をたどれば必然ではあったが、答え合わせは大事だ。なによりね。正解したんだ、報酬は頂いていくよ」
グリコレスが手にしていたそれを転がしてきた。まるで自分の足元に転がってきたボールを拾って軽く投げ返すように。けれどそれは、床に落ちると同時に鈍く重い音を響かせた。
「どうした魔女様。肩が震えているぞ。何を恐れる。呪いの元は断った。何も心配することはない」
こちらに向いたそれは、光を失っていた。廊下の窓から指す月明かりに、その影が晴れる。
「サルバトールの旦那、下の準備はできたぜ」
「ああ、ご苦労。なら次はここだな。その前にドクブタを呼んでこい」
下から登ってきたのは馬面の亜人だった。サルバトールの指示にすぐに従い下へと戻っていく。
『ナカムラさん、バイタルが著しく狂っています! 落ち着いて、私の言葉を復唱してください!』
「ハァ……ハァ……ハァ……」
「恐れることはない。運命とはそういうものだよ魔女様。受け入れるのも切り開くのも個人の意志だ。君もただ、風に任せるがいい」
冷たい視線が背筋を刺す。鼻の奥に届くそれが、胃の底を押し上げる。
『――『――』、ナカムラさん、復唱して! ナカムラさん! このままだとあなたもマタタビも、ロロのように殺されてしまいます|!』
床に転がる、――の頭が、虚ろな瞳が俺を捕らえて離さない。
頭に響くのは衝撃かマリアの言葉かわからない。
けれど、その瞳だけは、俺の意識を狭く強く締め上げていく。
「……ジン。ゴ、シュジ、ン」
ふと、息も絶え絶えとなったマタタビの言葉が耳に届く。振り向けば、弱々しくも裾を掴み、痛みに耐えながらもこちらを見ていた。
『ナカムラさん、復唱! 『星屑の幻灯』! 復唱して!」
「ツ、――『星屑の――
「おっと。魔法はいけないな」
「づっ――!?」
突如下腹部に走った激痛。グリコレスとの距離は数メートルはあったのに、一瞬で詰められて先の尖った鉄靴で蹴られていた。
痛み自体には強いほうだ。強いというか慣れている。けれど、そこはダメだ。我慢とか慣れとかそういう問題ではない。
「ぉえ……ゴホっ……っづ――」
「ハハハッ、粗相とはよろしくないな魔女様」
蹴られた腹を抑えてうずくまるが、股を濡らす感覚が広がる。蹴られた場所が悪かった。鋭く強い衝撃が内蔵を刺激し、生理現象が押し出される。
「おっと。汚らわしい。やめておくれよ。不浄には触れたくはない」
床に広がったそれがグリコレスの足元に至る直前に距離を取られた。全身を金色の鎧にまとっているだけあり、鉄靴の先まで月明かりを反射する。
「ぐっ、……ってめ、膀胱を、……ふざけ、……ゴホッ」
「ふん。口も不浄とは、見た目が美しくともやはり魔女は魔女か」
先程までの表情とは打って変わり、心の底からの蔑んだ眼で見下していた。
「グリコレス、……なにが、目的、なんだ……」
内蔵に響く痛みよりも、一つの疑問が生まれる。なぜ奴隷として攫ったロロをここで殺したのか。彼を呪いの触媒として商品にしたのなら、逃げられたそばから殺していたのではそのうち破綻する。
呪い返しを恐れるなら捕まえるにしても殺しはしない。眼が目的ならわざわざ奴隷にする意味もない。こいつらの行動はいちいち筋が通ってない。
「目的? そんなもの簡単だ。わざと逃し、探し出して殺す。そのほうが――おもしろいではないか」
「……は?」
おもしろいって言ったか? これは娯楽か? いや、それよりも。
「わざと、逃した?」
「ああ。牙のない獲物は逃げなければ狩りにならない。牙のある獲物は趣味ではない。そして、一度逃げたことで得た安心感や希望が絶望に塗りつぶされたときの顔ほどいいものはない。見ろ、そこに転がっているだろう」
虚ろながら、赤く輝く。けれど、そこにはそれしかない。
「見ろっ!」
「ぎっ……!?」
腹を蹴られたときのように一息で距離を詰められ、乱暴に髪を掴まれて顔を挙げられた。興奮したグリコレスの険しい顔の眼の前に近づかされる。
「私を見ろ。見るんだ、レディ。わかるかね。これほどのこと、私にとっては何の障害もない。誰も私を咎めることはできない。ゆめ忘れるな。グリコレス=サルバトールは、すべてが許されるバルベブルだ。王国が存在を認めた魔女とはいえ、所詮は不浄の魔族の一派。バルベブルは決して許さない」
バルベブル。以前、マリアからこの異世界について聞かされたときに出てきた単語だ。北と南に世界が分断されたときから続く選民思想の優生派であり、行き過ぎた思想がゆえに過去に何度も取り締まられてきたが、散り散りになった残党がさらに派閥を作り潜んでいるという。
グリコレス=サルバトールがその一派だとすると、憲兵騎士でありながら奴隷商とともに悪行をしているというのなら、それは自身の優位性が故だろう。絶対的な地位にいて処罰されずに闊歩する。それがこの男のステータスとなっているんだろう。
なら、こいつも――
「ば、バルベ、ブル……だあ? そんなの、俺にも関係ない!」
吐き捨てた言葉と一緒に、唾をはきかける。勢いよく飛び出たそれは、見事にグリコレスの顔に着弾した。
「は? ぎゃぁ!? ぎゃア!!」
『ちょっと!? 何やってるんですかナカムラさん!』
眼の前に生首を出されて怯え、腹を蹴られて失禁する女に唾をはきかけられるとは予想にもしていなかったはず。マリアすら驚いている。
グリコレスが顔にかけられた唾を腕で拭おうとするも、今度は腕に移ったそれに嫌悪感を示して壁に塗りたくっていた。
「悪かったな、グリコレス。あんたのこと、買いかぶりすぎたぜ。けど、あんたは偽物だ。クソみたいなプライドにかまかけてドヤ顔で幅きかせてるクソダセェ勘違い野郎だったよ」
「き、貴様ッ!」
「ぅぐっ……」
怒りに任せたグリコレスの拳に顔面を殴られ、衝撃で壁に激突し、痛みに蹲る上に乱暴な蹴りを喰らった。
『なに挑発してるんですか!? バカなの!? この自殺志願者!』
「クソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソっクソガッ!!」
怒りに狂う暴行が数十発におよび、全身に痛みが走る。口には血の味が広がり、咳き込むと同時に吐き出される。骨も何本かイッたかもしれないが、これは俺の意地だ。
「汚らわしい! クソッ! クソッ!!」
腰に下げた剣を引き抜き、剣先が次第に赤く輝き出した。
「だ、旦那!? 取り乱すな! 今、火はダメだ!」
戻ってきた馬面が声を荒らげた。その言葉を聞いたグリコレスは数秒停止した後、剣を鞘に戻して怒りに満ちた拳で壁を殴りつける。
「ちっ。腹立たしい。おい、ドクブタ。こいつを処理しろ。好きにして構わん。魔女の蜜壺は格別だそうだぞ」