魔王のいないファンタジー世界(8)
高くなった月明かりがカーテンの隙間から溢れる。気が立っているのか、眠っていたのに唐突に目が覚めてしまった。
部屋の隅に設置した寝台の上では、ロロが布団に包まった様子で横たわっていた。
夜の静寂が逆に緊張感を醸し出す。それが余計に、グリコレス=サルバトールのことを思い出させ、また背中に冷たいものが走った。
転生前は虐げられる日々を過ごしてきた。その影響もあってか、本物と偽物の区別が一目でつくようになっている。
何も嬉しいことはないが、保身のために本能的に身に着けた技術のようなものだ。僅かな所作、表情、声色、いろいろな要因が重なり、決定的な要因を言語化することは難しいが、一番は直感だ。
過去に二度、本物に遭遇した。そのどちらも、凄惨な日々だった。逃げるように去り、後にどちらも報道でその異常性を認識することになる。フウンな人生の中で、本物が本物になる過程の上流に遭遇していたことは幸いだったのかもしれない。猫や犬の次で良かった。それでも、俺の心を折ったのは偽物たちだったが。
そのフウンな経験が、今になって蘇る。グリコレスの眼には感情がない。俺に見せた仕草も表情も、どれも仮面だ。その裏にあるものは煮えたぎった闇鍋のようなどす黒いなにか。
『眠れないんですかナカムラさん。思考が普段より迷走しています』
「眠れないというか、ずっと覚めてる」
『なるほど。だから考えすぎているんですね』
そう言われればそうなのだろう。立てるだけの対策はした。今できることは待つことだけ。その手持ち無沙汰が、より心を惑わせる。
『解決策、というのは何事においてもそう多くはありません。やれることをやったのですから、今は静かに待ちましょう。何かあった時は、そのときに考えればいいのです』
楽観的、といえばそうかもしれない。けれど、神経質になりすぎるのもよくない。マリアの言う通り、今日の夜は静かに過ごすことにしよう。
『一つ、昔話をします。独り言なので聞き流してください』
『この星にはもういない、一人の魔王がいました。彼女は無気力で、ただただ一日を過ごすだけの自堕落な魔王。けれど、なぜか魔王の周りには、多くの亜人が寄り添っていました。その誰も彼も、魔王に忠義を持っていた。魔王にはそれがわかりませんでした。魔王の行い一つに、多くの亜人が歓喜した』
『そうして、気付けば魔界――今では地獄と呼ばれる地域は大いに発展しました』
マリアはこちらの相槌すら求めず、ひたすらに昔話を続けた。まるで子供に言い聞かせる読み聞かせのように、長い長い独り言だった。
『――一人の亜人は魔王にいいました。北側の大渓谷の向こう側には陽の光が届く豊かな土地がある、新天地を目指しましょう。そこにはまだ見ぬ未来があると。それに対して魔王はこう答えました。ただめんどうくさい、と』
『魔王にとって、星は手の届く範囲で良かった。北の大地なんて興味がないのです。けれど、一部の亜人によって北の大地への侵略が始まった。魔王はそれとただただ見送りました。なんの対策もせず、対応もせず、叱責もせず、糾弾もされず、傍観しました』
『亜人のポテンシャルの前ではヒト種は暴虐の限りを受けました。けれど、彼らには知恵があった。文明があった。なによりも、彼らの星を守るための魔法と、魔王に匹敵する勇者を呼び寄せた。攻勢が逆転したときに、ようやく魔王は重い腰を上げました。その時も、魔王は勝つためではなく、終わらせるために動いた。それが、南側が滅び、星と袂を分かつことになりました』
『多くの犠牲があり、長い年月もの間亜人たちは迫害された。もし、魔王が本腰を上げて北の大地に攻め入っていれば、ヒト種は滅んでいたかもしれない。もし、一部の亜人の暴挙を止めていれば、お互い平和だったのかもしれない。もし、魔王が勝つために動いていたのなら、星は二つに別れなかったのかもしれない』
『できることをやらないで招いた結果ならば、悔やむこともあります。けれどそれは許されない。それを選ばなかったことに今更後悔するのは卑怯です。一人のことならば自己責任ですが、他人が絡んだ時点で拒否した選択は戻りません。それは魔王でも勇者でも叶わない魔法ですから』
『ヒト種側は決して後悔していないでしょう。結果がどうであれ、彼らは選んだ。多くの犠牲を生もうとも、守るべきものを守った。一匹の使い魔の突貫が、それ以外のすべてを守り、勇者が魔王に打ち勝つ一条になりました。その過去だけは本物だった』
『――この話は、教訓は過去にしかなく、後悔は未来にしかないというこの星における常套句です。やるべきことをしたのならば、その答えは先にしかない。けれど、そこには必ず意味が残ります。私の言いたいことが伝わりますか?』
「……聞き流せって言ったのはお前だろう?」
『そうでしたっけ? フフフ』
ふざけてはいるが、マリアの話は的を射ている。何もしない選択をしたのなら後悔後に立たずだ。やることをやったのならなるようにしかならない。
『さて。昔話も終わりましたし、そろそろ寝て……あれ。ロロの様子、変じゃないです?』
変って、普通に布団に包まって寝息をたててるじゃあ……。
『その寝息、聞こえてます?』
聞こえないな。なんなら、ずっと微動だにしないし、呼吸してる気配すらない。
ゆっくりとロロへと近づき、布団に手をかける。ゆっくりと顔を確認しようと布団をめくると、そこには丸められた予備のシーツが横たわっていた。
「いないし! え、いつのまに!?」
『ナカムラさんが数分だけ眠りに落ちてるタイミングがありましたが、もしやそのときに?』
「丁寧に分析してるばあ――!?」
ガシャン!!
「――ンニャ!」
下の階から何かが割れる音が響いた。それとほぼ同時にマタタビの叫び声も聞こえる。
『な、何事ですか!?』
「何事って大事だろう!」
部屋の外からドタドタと足音がする。マタタビが危ない。直感での判断だが、防犯用に用意していた角材を取り、ドアノブに手をかける。
「ン゛ニ゛ャ゛!」
「てめぇコラッ! ボケコラッ!」
ドアのすぐそこで男の怒号がした。勢いよく飛び出すと、誰かがマタタビに馬乗りになって殴りつけていた。
「やめろっ!!」
「ぐあっ……!?」
勢いは大事だった。言葉よりも先に身体は動き、振り抜いた角材が折れるほどの衝撃が男の側頭部に直撃して壁に叩きつけられていた。人を殴った衝撃が手に残るが、暴行されてうずくまったマタタビに駆け寄った。
「大丈夫かマタタビ!?」
「ゥ……ゴ、シュジン……」
強く殴られたのか頬は赤く腫れ、切れた額からは血が流れている。痛みからうめき声を上げ、何かを伝えようとしていた。
「もう大丈夫だ。さっきのやつは強く殴ったから気を失ってる。無理して話さなくていい」
いまは早くマタタビの癒やさなければ。いや、それよりも先に血を……。
『ナカムラさん落ち着いて! あなたが焦れば意味がないですよ!』
「ああくそうるせぇな! そんなことわかってるよ!」
コツッ。ギィ……。コツッ。ギィ……。コツッ。ギィ……。コツッ。ギィ……。
意識の外から、何かの音が入ってきた。焦りからそれが床の軋む音だと気付くのに時間がかかり、それを意識したときには、足音は二階まで登り終えていた。
ゆっくりと振り向く。薄暗い廊下の先に、大柄の誰かが立っていた。
ピチャリ。
「――いやはや。夜分遅くにすまないね魔女様。やはり、悪い子にはお仕置きが必要だろう、レディ」
ピチャリ。と、なにかが滴る音がする。それよりも、姿は確認できずとも、声の主が誰なのかは一瞬で理解できた。
「グ、……グリコレス=サルバトール……」
「ええそうです。グリコレスに間違いないですよ、魔女様」
数歩進むグリコレス。歩く度に軋む床と、滴る何か。それが何なのかは、グリコレスの顔がわかる距離になってようやく理解した。