魔女の弟子(2)
『相変わらずウブウブちゃんなんですね、ムラムラさん』
「茶化すのやめろや」
たしかにマリアの体は出るところは出て、凹むとこは凹んでいる、精巧にできたフィギュアのように魅力的だ。男なら一度でいいから拝みたい、なんなら自分のものにしたいとオスとしての本能を刺激する。
自分の体がいきなりそれになったのなら困惑するだろう。風呂となれば体を洗うために全身に触れるし、湯船に浸かれば艶めかしく映る。
けど、疲れってのは性欲すら減衰するってのは新発見だ。男の時分、疲れていても自分の意志を無視して暴走してたぎることはあっても、女の時分にそれはない。疲労感に勝るものはないのだ。
『最近忙しかったですからね。自慢の私の体がこんなにやつれてしまっては、ナカムラさん、恨みますよ』
「やかましいわ。そんな余裕があるか」
『体のメンテナンスは女の嗜みです。女の肌艶は男の筋肉と同義ですよ。努力の結晶は一日ではできませんから。それに、それはナカムラさんがオルクスさん捜索の際に表に出たことが原因です。私が表に出て何かをした事実はない、私に出来たことは助言だけ。あなたが覆したんですよ。忙しさはその責任払いです』
責任払いって、麻雀かよ。何がどうなるかなんて、あの時は想像できなかったことだ。そこに責任を押し付けるのはあまりにも暴力的ではないか。
『得てして能力があるものはそれを行使する責任が付きものです。その押し引きを見誤ったからこそでしょ』
「お前、人助けの魔女じゃないのかよ。お前の言い方だと、助けたことが罪みたいだ」
『いえ、そうではなく、あなたが切り開いた道なんですから、あなたがそれを歩かないといけないってことです。優れたものが周囲にそれを還元するのが社会のあり方なのですから』
俺の考え方とは違うな。能力はその人個人のものだ。なら、それをどう使うかはその人の自由意志に尊重される。マリアの考え方は、能力のある者は社会の奴隷となってしまう。それでは努力した甲斐がない。
『ひねくれてますねぇ。そこの考え方はあなたがいた世界の社会性の影響もあるでしょう。その考えを改めることが、ナカムラさんにとっての最大の課題かもしれませんね』
「人の考えってのは、そう簡単に変わるもんかね」
『変わりますよ。だって、……』
「だって、なんだよ」
『なんでもありません。今はその時ではないので。それより、あんまり長風呂はのぼせますよ。かさつきの原因にもなるので湯船はほどほどにしてくださいね』
なにかはぐらかされたな。けど、マリアの言う通り体は芯まで温まっている。この状態を維持したまま寝室に戻って床につこう。
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――唸るような暑さで目が覚めた。全身から吹き出る汗で寝間着が皮膚に張り付き、この上ない不快感を覚えた。
この感覚は、……きっとよくないものだ。よくないものを見ていた気がする。けど、その一部始終を覚えていないということは、おそらく悪夢だったんだろう。
「くっそ。胸糞悪いな……」
もう一度寝付こうにも、ベタつく汗と肌を差す夜の冷気が覚醒を刺激する。体が冷えるほどの濡れを解消するために一度シャワーを浴びて着替えるとするか。
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シャワーを終えて新しい寝間着に着替え、寝室に戻る前に眠り続けている娘の様子を見るために診察室に顔を出すと、未だ目を覚まさない少女の傍で、マタタビがベッドに頭を預けて寝息を立てていた。
時刻は三時ごろ。新しい点滴パックへと取り替えは済んでいるようで、次の交換までまだ二時間ほどある。
「ありがとな、マタタビ」
季節的には寒くはないが、何も羽織っていないまま寝ているマタタビを空いている寝台へと移す。やっぱり子供ほどの体格しかないマタタビは軽く、抱きかかえても起きないくらいよだれを垂らして深い眠りに入っているようだ。
薄手ではあるが何も羽織らないよりはいいだろうとシーツを掛ける。ゴロゴロと喉を鳴らすさまはやっぱり猫なんだなと思わせた。
眠り姫のように目を覚まさない娘。名前は確か――
「ドルン=グリルン、か。うーん。どうもこっちの名前は覚えにくいな」
父親はグリム=グリルン。売れない喜劇作家らしい。喜劇を主体にしているのに、どうしても悲劇を書きたがる変わり者。そりゃあ売れないよな。
眠り続けて二日は経つ。これでは童話の眠り姫そのものだ。何か別の角度から原因を調べないといけないかもしれないな。
「またネムの部屋の本を探すか。マリアのやつ、全然ヒントくれないし……ふぁぁ。あ、眠い」
急に押し寄せる眠気に視界が揺らぐ。これは、自室まで戻るのもきついぞ。いっそ空いてる寝台で……。
「いや、自室に戻ろう。ここはマタタビにお願いしたんだし」
物音を立てないように、眠気でふらつきながら二階の自室に戻った。途中でネムの部屋のドアがわずかに空いていたのが見えたが、そんなことを気にするのもやめるくらい眠い。さっさと二度寝しよう。
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微睡みの中で――やさしく頭に触れられている気がする。遠くにある意識が、手のひらサイズの温もりを求めて浮上した。
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閉じた瞼に射し込む陽光で緩く覚醒を刺激される。夜中のような寝苦しさはなく、数日ぶりに十分な睡眠が取れた感覚がある。
廊下の先でパタパタと足音が遠のいていくのが聞こえた。マタタビが起こしてくれたんだろう。朝の準備もあるのに忙しない。そろそろちゃんと起きないと今度は怒られそうだ。
「ん、……ん~」
わずかに残る眠気を払うように伸びをしてベッドから降りる。と、また廊下から足音が聞こえた。バタバタと騒がしい音が近付いてくる。
「ゴシュジン! ドルンがいないニャ!!」
「は?」
髪もボサボサになったマタタビが勢いよく扉を開けての開口一番はあまりにも予想していないことだった。
「いないって、起きたのか……? でもなんで急に」
「わかんにゃいニャ! ニャーが寝ちゃったのが悪いけど、けどけど!」
「落ち着けって……。ん……。マタタビ、もしかして今日は初めて俺のところに来たか?」
「ん? そうニャ」
ということは、さっき俺のことを起こしたのはマタタビじゃないことになる。
「もしかしたら、まだ建物の中かも。手分けして探そう」
焦っているマタタビはそうそう見れるものじゃないけど、ドルンはもしや迷子になっているのかも。この建物無駄にでかいし。
「俺は下を探してくる。マタタビは二階を頼む」
「わ、わかったニャ!」
慌ただしく部屋を飛び出したマタタビは向かいの部屋へと突撃していった。かなりカビ臭くて開けることすら毛嫌っていたのにこういう時はちゃんと動いてくれるのは頼もしい。
一階に降りたときに何かが落ちる音が聞こえてきた。落ちるというよりかは、崩れるが正しいだろうか。音の先は、どうやらネムの部屋らしい。
「ドルン……いるか?」
ゆっくりとネムの部屋の扉を開けて中に入ると、今しがた雪崩が起きた本の山からかすかにうめき声が聞こえてきた。
「ドルン! 大丈夫か!?」
急いで崩れた本たちをどかしていく。紙の束とは言え、百冊にもおよぶ本はかなりの重量だ。雪をかき分けるかのように生き埋めにあっているドルンの左手を見つけて引っ張り上げた。
「キュ~……」
……見事にのびてるな。けど、右手にはしっかりと本が握られていた。ハードカバーで、大きさからしてどうやら図鑑らしい。
「まったく、……けど見つかってよかった」
迷子の救出を終え、騒がしい中で朝食の準備となった。大きなたんこぶを作ったドルンはしばらくして意識を取り戻した。
「――さて。朝食も終わったし、そろそろお父さんにお迎えに来てもらおうか」
ドルンは一言も発さず、ただただ首を横に振っている。ネムの部屋から救出してからずっとこれだ。首を縦に振るか横に振るかで意思の疎通は取れるが、頑なに帰ることだけは拒否していた。
帰りたくないにはイエス。帰れないにはノー。父親が嫌いにもノー。なら家が嫌ではないらしい。
この娘なりに父親のことは好きだが、それよりも今はここに残りたいという気持ちが強い様子だ。
「うーん。困ったな……」
うちは保育所じゃないし学童でもない。症状があるのなら状況を観察することはできても、一子供が暇を消費できるだけのものもない。……わけではないようだ。
「それ、ずっと持ってるね。本が好きなのかな?」
静かに縦に首を振る。メガネを掛けて表紙を見れば、『古代種苗図鑑』と書かれていた。大昔の植物を書き記しているようだが、俺にとっては今も昔も大差はない。ただ、ドルンの興味は引いているようで、今にも崩れそうな本の山から図鑑を引き抜いたことで雪崩が発生したようだ。
「ゴシュジン、いつまでも子供の相手をしてる時間はにゃいニャ。そろそろ予約が来るニャ」
片付けをしているマタタビが一言だけ告げて部屋を後にした。時刻は九時半。三十分もすれば詰まった予約の堰が外れて、今日も今日とてきりきり舞うことになるだろう。
「ドルン。私は今から仕事がある。それもとびきり忙しい。君の相手はできないかもしれないけれど、本が好きなら好きなものを読むといい。だけど、夕方には帰ってもらうよ」
そういうと、わかりやすく寂しいという表情を見せた。ガックリと肩を落とす様は表現力は豊かなのかと感じる。
「でも、本が読みたい時はいつでも来るといい。本は逃げないしね。私だけでは読み切ることもできないし、それでは本がかわいそうだ」
眼に星がいるのかと思わせるほどの輝きにドルンの表情が明るくなった。コクコクと首を振り、手にした本を広げて読み出した。
「この部屋は好きに使っていいよ。何かあったらマタタビを呼んでね。ベルはテーブルに置いてある」
聞こえているのかわからないほどの集中力で本を読み込むドルン。厨房にいるマタタビに事情を伝えると、
「うへぇニャ」
いかにも仕事が増えたことでわかりやすく嫌な顔をされた。今日はドルン優先で他のことは適当にしてていいとだけ告げ、エントランスホールで今日の分の予約を処理するために背筋を伸ばした。
「――先生、ありがとうございます。ご迷惑をおかけしました」
グリム=グリルンが娘のドルンを引き取りに夕方に訪れたが、ドライなのか堅実なのかイマイチ掴みきれない男だ。
『彼は合理主義ですから。悲劇しか書けない喜劇作家ってウケますよね』
作品の評判は、フィクションの中でも合理性を出そうとして、物語がどんどん不穏になっていくらしい。ドロドロとした展開になることが多く、救いのないオチになることも。
それでもカルト的な人気はあるようで、売れないなりにも一定の顧客をつかんでいるんだとか。
グリムは少しやつれている様子で、目の下には黒い影が刻まれていた。昨日から寝ていないようで、ここ数日疲労が溜まっているのだろう。
「グリムさん、このままでは今度はあなたが倒れてしまいますよ。かなり疲れているようですが、仕事ですか?」
「え、ええ。今日のお昼が締め切りだったんです。すいません。押し付けるように娘を任せてしまって」
「まあ。事情がわかったからいいです。ですが、託児所代わりにするのはこれっきりですよ」
子供を預かるというのは、命を預かることと同義で、生半可な知識と覚悟ではできないことだ。ましてや、俺には子供を育てたり預かったりした経験がない。ずっと眠っていたとはいえ、やっぱり精神を削ることになるのに違いはない。
「本当にすいません。どうしても落とせない案件で、都の劇場で……いえ、言い訳ですよね」
彼自身、何が正解かはわかっている。やはり合理主義者というべきか、都の劇場で使用される脚本ならば、彼の名はより高みへ行けるだろう。
けれど、それは守るべき家族を犠牲にしてすることではない。ましてや、ひとり親であるグリムが、ひとり娘であるドルンを蔑ろにしていい理由にはならない。千載一遇とはどのように見繕っても主観的で、それを支えるだけの土台がないのならギャンブルの類を出ないだろう。
「仕事が落ち着いたのなら、私からこれ以上責めることはしません。あとは親であるあなたの役目ですから。けど、やっぱり疲労困憊では心配ですね。なにか薬を出しましょうか」
滋養強壮、栄養補給、疲労回復、その他諸々の栄養剤なら処方はできる。
「いえ、大丈夫です。家でゆっくり休みますので。昔ながらの回復薬もありますし、コレ以上先生の手をかけてしまっては申し訳ない」
深々と頭を下げたグリムのもとに、マタタビがドルンを連れてきた。手には、朝読んでいた図鑑があった。
「これ、どうしても読みたいから帰りたくにゃいみたいニャ」
「なら貸してあげる。お父さんが元気になったらまたおいで」
ネムの本だが、まあ本人もいないし大丈夫だろう。ドルンの表情も明るく、読み足りないのか、かなり気に入ったようだ。
「何から何まですいません。後日返却に来ます」
「ええ。帰りは道中気をつけてください」
再度頭を下げたグリムとドルンを見送る。そろそろ日が暮れだす頃だろうが、彼らの住んでいる村は割と近い。心配することはないだろう。
「……ん。なんだあれ」
遠くに離れていく二人の背中を眺めていると、かなり乱暴な運転で荷台を引いてこちらに向かってくるの何かが見えた。
「ま、マリア先生! 急患です!」
早馬――俺が知っている馬と比べると一回りはでかい――の手綱を引いていたのは、グリムたちが住んでいる地域の村医者の中年の男性だった。
「なにかあったんですか?」
「それが、……ウチの娘が目を覚まさないんです! それも、隣の家の男の子も!」