狐の恩返し
お使い狐は神の眷属なので、エキノコックスには感染してません。安心してください。
夜風が毛を逆撫で、わたしは意識を取り戻しました。
首をもたげ辺りを見渡しますが、見えるのは物言わぬ木々の陰。少し体を捻ると、左前足に痛みが走ります。錆び付いた虎挟みが食い込んでいるのです。
暗闇の中、既に何時間こうしているか知れたものではありません。油を売っていられる余裕などないというのに。
わたしは、稲荷大社の主祭神、宇迦之御魂神に仕えるお使い狐。そして今日は年に一度の大晦日です。神の眷属として、仰せつかった仕事が多くありました。にも関わらず、このような罠に愚かにもかかってしまうとは。
わたしは所詮お使い狐。罠から抜け出す力すら持ちません。そしてここは深い森の中。助けなど来ようはずがありません。ここが、運の切れ目ということでしょうか。
再び瞼が重くなりました。このまま眠ってしまいましょう。次に気が付いたときは、きっと光溢れる天の国にいるはずです。えぇ、決して悪くはない未来です。
ですが、最後に目に浮かぶのは皆様のお顔。宇迦様、先輩狐、同僚狐。きっと、わたしのことを心配くださっていることでしょう。特に宇迦様はお優しいお方。お別れと感謝の言葉をお伝えできないのは何とも心苦しいのです。しかし、それは既に叶わぬ願いなのです。
体を丸め、瞼を閉じます。次第に風の音も遠ざかり、冷たさも感じなくなってきました。これが死の感覚。どうか皆様、役立たずなわたしをお赦しください。
そうして、次第に意識が遠のきはじめた、そのときでした。
「狐?」
ふと、声が聞こえました。幼い男児の声。首をもたげようとしましたが、体に力が入りません。草を踏む音が近づいてきます。
「あぁ、罠にかかっちゃったんだね。血が出てる。可哀想に。すぐ外してやるからな」
彼は優しい手つきでわたしの頭を撫でると、少し苦戦しながらも虎挟みを外し、更には傷口に布切れを巻いてくれたのです。
「これでよし! まだ痛いかもしれないけど、歩けるみたいだし、すぐに良くなるよ」
彼は朗らかに微笑みかけてくれました。
少しずつ意識がはっきりしてきました。首を上げて彼を見上げると、彼はゆっくり腰を下ろし、もう一度わたしの頭を撫でました。
「赤いスカーフに、鈴が二つ。君には、帰りを待ってくれる家族がいるんだろう? だったら、そろそろ帰りな。もう大分暗くなっちゃったし、皆心配してるよ」
その一瞬、彼の瞳はひどく悲しい色をしているように思えたのです。
やがて、彼はゆっくり腰を上げました。最後にもう一度微笑みかけると、背を向けて歩き出すのです。
追いかける訳にもいかず、鳴き声を上げる訳にもいかず、遠くなるその背中を、ただ見つめていたのです。
***
千本鳥居を抜けた先に佇む立派なお社。わたしの主、宇迦様の住まう稲荷大社です。すっかり夜も更けてしまいましたが、何とか帰ってくることができました。
閉ざされた門扉の隙間から淡い光が漏れ出ています。安心する暖かい光。ですが、今回ばかりはのほほんと門をくぐる訳にはいきません。たとえ寛大なお心をお持ちの宇迦様といえど、これほどまでにご迷惑をお掛けしてしまっては、お叱りもさぞ厳しいものでしょう。
寒さからではない震えを感じつつ門をくぐり、宇迦様のお部屋へ向かいます。そして、豪奢な襖を開いたその時でした。
「トウカ? トウカではありませんか!」
宇迦様はわたしの名を呼び、一目散にわたしを抱き上げたのです。
「トウカ! 心配しましたよ! 貴女に何かあったのではないかとばかり! 丁度今から他の子たちに探させるところでした。でも、良かった。無事に帰ってきてくれて。しかし、少し毛並みが乱れていますよ。それに、随分土で汚れて……はっ! この左手の傷はどうしたのです!? 何があったのですか!? もしや獣か人間に……」
どうやら、わたしの心配は杞憂だったようです。宇迦様はどこまでも寛大で、お優しい方でした。
捲し立てられる宇迦様を側近の狐たちが宥め、場は一旦落ち着きました。宇迦様は脇息に腕を預け、その前でわたしは頭を下げます。そして、今日あった出来事を包み隠さず報告申し上げたのです。
「そうですか。人間の男に助けられた、と。その左手の巻き布も、件の人間が」
宇迦様はお顔を曇らせてらっしゃいます。宇迦様は人間の話になると、どうもお顔に出るのです。しかし、わたしは敢えてお願い申し上げます。何故なら彼は、わたしにとっての命の恩人なのですから。
「それで、恩返しがしたいのですか」
わたしは大きく頷きます。
明日は年に一度のお正月。彼もきっと、願い事を胸に抱いて初詣に来るはずです。その願いを宇迦様に叶えていただく。それこそが、力の無いわたしに唯一できることなのです。
「可愛い貴女の願いといえど、それはできません」
しかし、お返事はわたしの願うものとは違いました。
宇迦様の目が鋭く光り、諭すような口調でお話になりました。
「私は稲荷大社の主祭神。私の神通力ならば、確かに件の人間の願いを叶えることもできるやもしれません。それに、貴女が世話になったのですから、私としてもやぶさかではありません。しかし、だからこそ、それは叶えられぬ願いなのです。私は神として、人の世に干渉することは決して許されないのですよ」
それが、宇迦様のお言葉。わたしがこれ以上口を出すことはできません。分かっていたことですが、そこまできっぱりと仰られるとは。
側近の狐たちが憐みの視線を向けてきます。わたしは深く項垂れました。ですが、宇迦様は更に続けます。
「しかし、貴女は違います」
そのお言葉に顔を上げると、宇迦様は先ほどとは違い、柔らかな笑みを浮かべてらっしゃいました。
小首を傾げると、宇迦様はお口許を扇子で隠されました。
「トウカ、貴女は神ではありません。私の可愛いお使い狐。であれば、人の世に触れることは罪ではありません。トウカ、件の人間に恩を返したいと願うなら、その手で叶えなさい」
わたしが? ですが、どうやって? わたしは所詮狐の身。できることなど、せいぜい人を化かすことだけ。
「そうですね。確かに、その体では少々不便でしょう。では特別に、貴女にこれを与えましょうか」
宇迦様は一度微笑むと、左手をわたしにかざしました。するとどうでしょう。わたしの周りに光が集い、わたしを覆い尽くすのです。何が起こっているか分からないまま、やがて光は晴れていきます。視線の先で、宇迦様は微笑んでいらっしゃいます。
「トウカ、お似合いですよ」
「お、お似合いとは……」
その瞬間、衝撃に体が震えました。何と、言葉が口を衝いて出たのです! 慌てて口許に手を当てると、ふさふさで長い口がありません! 手も指の一本いっぽんが離れ、人間の手そっくりです。
「ここ、これは一体!?」
「あらあら、そんなに慌ててしまって。取り敢えず、姿見を御覧なさい」
宇迦様のお言葉に従うように、大きな鏡がゆらゆらとわたしの前にやってきます。そこに映し出されたのは、素っ裸で立つ人間の女の姿でした。
***
翌日。稲荷大社は大勢の人で賑わっていました。老若男女の行き交う中、わたしは一番鳥居の陰に身を潜めています。昨日、わたしを助けてくれた彼を待ち伏せているのです。
今のわたしはお使い狐ではありません。正真正銘、どこからどう見ても人間の女の子です。この毬や花柄で飾られた晴れ着も、宇迦様がノリノリで着付けてくださいました。
『折角人間の体を与えたのですから、お洒落しないと勿体ありませんね』
宇迦様は嬉しそうに微笑まれると、あれよあれよと可愛らしく着飾られていったのです。長い赤毛は後ろで括り、狐の装飾付きの簪が刺さっています。お化粧も少々施し、いつもの鈴は腰の帯に括り付けてあります。見違えるほど綺麗に着飾りましたが、昨日の怪我は治らず、左手首には包帯を巻いたままです。
見た目はすっかり人間の女の子。あとは彼が来るのを待つだけです。彼が来ないという可能性もありますが、そこは信じるしかありません。ただ只管に待ち続けます。
それからどれだけ経ったでしょう。正月の風に体を震わせ、少し暖をとろうかと思い立った瞬間、見覚えのある横顔が目に入りました。間違いありません。命の恩人の彼でした。
早速目標を発見しました。休んでいる余裕はありません。早く彼のもとへ向かわなければ。
急いで彼の背中を追いかけます。そして彼を呼び止めようと腕を伸ばしたとき、ふと疑問が浮かび上がりました。
どうやって声を掛けたら良いのでしょう?
わたしの目的は彼へ恩返しをすること。そのために、彼の抱く願いを叶えたいと意気込んでいるのですが、問題はそれを如何に聞き出すか、です。わたしたちは初対面。彼が急に心を開いてくれるとは思えません。
どうしましょう。いきなり声を掛けたら怪しまれるでしょうし、かと言って引き返す訳にもいきません。頭を悩ませながら、わたしは彼の後をコソコソ付けていくしかありませんでした。
「……誰? さっきから付いてきてるのは」
ですが、わたしの努力も空しく、尾行は早々に気づかれてしまいました。
彼は唐突に振り返ります。それに反応できなかったわたしは、彼とばっちり視線を合わせてしまったのです。今更隠れる訳にもいきません。大人しく、物陰から姿を現します。
「こ、こんなにすぐバレるなんて。完璧な尾行だったはずなのにな……」
「完璧って……バレバレだったよ。後ろから鈴の音が丸聞こえだったから」
迂闊でした。まさか、お使い狐の証である二つの鈴が障壁となろうとは。人の世では狐は人を化かすものですが、わたしはまだまだのようです。
「それで君は誰? どうして俺のこと付けてたの?」
訝し気な目を向けられ心が痛みます。ですが、バレてしまった以上、アドリブで乗り切るしかありません!
「わ、わたしは……初詣に来た一般の参拝客で、別に怪しい者じゃないよ! 本当だよ!」
「怪しくないって言われても、人のこと付けてたよね。めっちゃ怪しいんだけど」
「ち、ちがっ! あれはその、君が一人で歩いてたから。ほら、わたしも一人で寂しかったからさ、折角だから一緒に回りたいな……なんて」
と、わたしが言い終わる前に、彼は背を向けて歩き出していました。慌ててその背中を追いかけます。
「ちょちょ、ちょっと! 話の途中で行っちゃうなんてヒドいじゃん!」
「付いてくるなよ。しつこいと警備員呼ぶぞ」
何ということでしょう。稲荷大社に仕えるわたしが、稲荷大社の人間にお縄にかけられてしまうとは。いえ、そのような脅しに屈することはできません。彼にその気がないのなら、その気になるまで粘るまでです。
「そんなこと言わないで。こんな寒い中、君も一人で寂しかったでしょ? 一緒に回ろうよ。二人のほうが楽しいから」
「……」
「そいえば、まだ自己紹介してなかったね。わたしはトウカ。あなたは?」
「……」
彼は依然として仏頂面。迷惑千万と言わんばかりの態度です。しかし、わたしは諦めません! 何としても彼の願いを聞き出し、それを叶えるのです!
今はまだお昼前。時間はたっぷりありますから!
***
全然ダメでした。
結局彼の願い事は聞けず終い。ですが、これはわたしの力が及ばぬばかりではありません。彼だって酷いんです。あれはお社に参拝し、二人並んで手を合わせた後のことです。
『神様は大変だよね。こんな沢山の人のお願いを聞かなきゃいけないんだから。ところで、君は何をお願いしたの?』
『……』
相変わらず無視! ちっともわたしの方を見てくれないし! こんなに頑張って話しかけているのに!
その後、絵馬の売り場を見つけた時だって、
『あ! 見て見て! 絵馬だって! へ~、狐の形してるんだ。ねぇねぇ、折角来たんだからさ、記念に一枚ずつ書いてこうよ!』
『……いや、別に』
一生懸命誘ったのにその返事は何ですか! 何とも煮え切らない!
その後もそうです。護摩木売り場を見つけ、一緒に書こうと提案したときは、
『願い事なんてして何になるの? カミサマなんて、どうせ何もしてくれないんだから』
何ということでしょう。彼は今、自分がどこに居るのか忘れてしまったのでしょうか。わたしたちが今踏みしめているのは、日本中から信仰を集めるお稲荷様、その総本宮の土だというのに。
彼はちょっとひねくれているようです。とても、昨日わたしの命を助けてくれた優しい方とは思えません。
それにしても、どうしましょう。このままでは彼の願いを聞けず、宇迦様からいただいたお小遣いも余ってしまいます。
彼の半歩後ろを歩きながらため息を一つ。そこでふと顔を上げると、見えたのは「おみくじ」の文字。折角ですから、自分の運勢でも占っていただきましょう。新年一発目からこの調子ですから、結果が良くないことは目に見えてますが。
また一つため息をついて、彼の袖をちょいと引きます。
「ねぇ、おみくじだって。おみくじを引く機会なんて滅多にないんだから、一緒に引こうよ」
色よい返事なんて期待していませんでした。それだけに、一瞬だけ彼の言葉を飲み込めなかったのです。
「……そうだね。引こうか」
「え?」
彼はおみくじ売り場へ足を向けます。わたしも慌てて彼の隣に並びました。
横から覗き込みますが、彼は変わらず仏頂面でした。
「い、いいの? さっきまでわたしが何言っても山の如く動かなかったのに」
「何となくだよ。理由なんてない。まあ、結果なんて分かり切ってるけど」
彼と思っていることが被ってしまいました。ちょっと癪です。
ともあれ、わたし的には少し前進した気分です。おみくじを買い、さっそく開きます。結果は……、
「おぉ! 吉だ。悪くないね」
ちょっと意外です。して、彼の結果はどうでしょう。隣から彼のを覗き込みます。
「あぁ、凶かぁ。残念だったね……」
「待ち人来ず……か」
彼は小さく呟きます。寒さで赤くなった指先に力が込もり、おみくじはくしゃりと歪みました。
「別にいいさ。端から期待してなかったから」
慰みの言葉を掛けますが、彼は初めから気にしていないような素振りです。彼は仏頂面のまま、おみくじを紐に結びました。
「じゃ、行こうか」
「え? あ、ちょっと」
そして、何も無かったかのように、彼はその場を後にするのです。
5
やがて日は暮れ始めます。稲荷大社の賑わいも少し和らぎ、ゆったりとした茜が空を包んでいます。わたしたちは人の喧騒から離れ、森の中を歩いていました。
ふと空を見上げると、木々の隙間からカラスが飛んでいくのが見えました。鳥たちもお家に帰る時間。彼と共有できる時間も、残り僅かです。
結局わたしは、彼の恩に報いることはできないのでしょうか。わたしのようなお使い狐は、人間の姿を借りても役立たずということなのでしょうか。
そろそろ、諦めるべきなのかもしれません。この思いは所詮自己満足のためで、わたしには過ぎたものなのだと。
彼の数歩後ろで足を止め、大きく息をつきました。
「ねぇ、そろそろ帰らない? 暗くなってきたし、それに、あまり遅くなると、家族が心配するでしょ?」
彼は足を止め、横へ視線を流します。そして、独り言のように言葉をこぼすのです。
「……待ってくれる人なんて、いない」
このとき見えた彼の横顔。その目を見たことがあります。昨日、助けたわたしに語りかけてくれたときです。
『君には、帰りを待ってくれる家族がいるんだろう?』
あのときと同じ、深い悲しみに満ちた目をしていました。
待ってくれる人がいない。心配してくれる人がいない。垣間見えた心の中。一瞬、そこへ踏み込むのを躊躇う自分がいました。
先に、彼が言葉を繋げます。
「昨日、ここで一匹の狐と会ったんだ」
心臓がピクリと跳ねました。
「きつねと……?」
「そう。赤毛で、鈴とスカーフをつけてた。きっと、人間の家族がいるんだと思う。けどその子、罠に足を挟まれて、苦しんでた。だから、助けてあげたんだ。帰りを待ってくれてる人がいるのに帰れないのは、きっと寂しいことだから」
知らぬ間に左腕の包帯に触れていました。今でも覚えています。あの時の痛み、そして、あなたがくれた優しさを。でも、それを今伝えることはできません。今のわたしは人間の皮を被っているのです。
「ここに来ればまた会えるかなって思ってた。でも、そんなはずないよね。相手は狐。俺のことなんて、覚えてるはずがないのに」
いいえ、覚えています。どうして忘れられましょうか。あなたから受けた恩は、一晩で忘れるほど小さなものではないのです。
忘れられるものでは、ないのです。
「きっと、覚えてるよ」
目を丸くして彼は振り返ります。
「狐は昔からずる賢さの象徴だから。君も気づかないうちに、その子に化かされてるかも! なんてね」
そう、狐は人を化かすもの。恩返しなど、わたしには似合いません。
「それもそうかもね」
彼は小さく笑いました。彼と出会って、初めての笑顔です。嬉しいはずでした。それなのに、胸がこんなにも痛むのは何故なのでしょう。
「こんなに暗くなっちゃったし、そろそろ帰ろうか。トウカ、君の家族も心配してる」
彼はわたしの横を過ぎ、来た道を辿ります。わたしは小さく頷いて、その背中についていきました。
やがてわたしたちは稲荷大社を後にします。大通りに出ると、彼は左を指さしました。
「俺、こっちだけど、トウカは?」
これ以上彼の隣にいても仕方ありません。わたしは右を指します。
「こっち。だから、ここでお別れだね」
「お別れ、か」
彼は俯き、一瞬躊躇いの表情を浮かべました。そして次の瞬間には、晴れた笑顔を見せたのです。
「俺、キョウスケっていうんだ。今日一日トウカと一緒にいて、初めは怪しいやつだと思ってたけど、とっても楽しかった。だからさ、トウカが良ければだけど、また明日も会えないかな?」
このときのわたしは、光に満ちた眼差しから、目を逸らさずにはいられませんでした。
あぁ、やっぱり。わたしは思い上がっていたのです。小さなこの体では、彼の願いは手に余ります。
わたしは狐で、彼は人間。住む世界が違うのです。だから、わたしは彼の願いを叶えられない。彼の待ち人となることはできないのです。
だから、わたしは……
「そう、だね。また明日、会えるといいね」
キョウスケを、化かし続けるしかないんだ。
「ほんとか! よかった! 俺、明日もここで待ってるから! きっと来てくれよ!」
これまでの彼からは想像できないほど嬉しそうな笑顔。それを裏切ることになると知っているのに、わたしは謝る言葉の一つも口にしませんでした。
***
お社に戻ると、宇迦様は唇を引き結び、お顔に影を落とされました。わたしの顔から察されたのでしょう。
宇迦様の前に跪き、頭を垂れます。
「宇迦様、本日はこの肉体をお与えくださり、誠にありがとうございました。これをお返しする前に、わたしの口から報告申し上げさせていただければと思います」
「いえ、その必要はありませんよ、トウカ。すべて、見ていましたから」
慈しみに満ちたお声。宇迦様は、このような役立たずの狐でさえ、赦しをお与えくださろうというのです。ですがそれを、わたし自身が赦せないのです。
「宇迦様、わたしは思い上がっていたのです。命を救われ、恩に報いる。それが独り善がりな行いであると気付かず、自分の無力さから目を逸らしていたのです。彼と一つの約束を結んでしまいました。守れないと知っていたのに。わたしは、恩人であるはずの彼を、明日傷つけることになるでしょう。すべて、わたしの浅はかさに依るものです。こんなわたしを、わたしは赦せないのです。……宇迦様、お願いします。わたしにどうか――」
「待ちなさい」
宇迦様の声が響き渡りました。普段のお優しい声ではありません。凛とした圧力を感じ、空気が一瞬にして張り詰めました。
わたしは口を固く閉じ、頭を再び深く垂らします。
「確かに、あなたが自分を責めるのはもっともでしょう。私も、昨日まで小さな狐であった貴女が、ほんの一瞬を共にした人間にたった一日で何かできようとは思っていませんでした。その肉体を貸し与えたのも、貴女の一時の我儘を聞いただけに過ぎません」
厳しいお言葉です。わたしはどれだけ自分勝手で、身の程知らずだったか。
「ですが、私はそのような惨めな姿を見たいがために、あの人間と接触することを許したのではありませんよ。今日一日を共に過ごして、何も感じなかったのですか?」
「感じたこと……」
「貴女は、恩返しとしてあの人間の願いを叶えたいと言いましたね。ですが、それ自体が間違いなのです。貴女はこの一日で、あの人間の願いは自分の手には余ると思い知ったでしょう。それは、願いをすべて叶えようとしているから。ですが、その思い自体が思い上がりなのです。我々神は、人の世に干渉することを許されない。私たちにできることは、人が道に迷ったとき、そっと道を指し示すことだけです。それはきっと、貴女も同じ。あの人間に何と言葉をかけるべきか、今の貴女なら知っているはずです。そうでしょう? トウカ」
今の、わたしなら……。
宇迦様の仰る通りです。今のわたしがするべきことは、宇迦様に罰を請うことなんかじゃない。あの人の恩に報いたいというのなら、ここで跪いたままでいいはずがない。
伝えなきゃ。わたしの思いを。彼が一歩でも、自分の力で歩み出せるように。
「宇迦様、ありがとうございます。わたし、ようやく目が覚めました」
「そうですか。では、お行きなさい。あなた自身にも後悔が残らぬよう」
「はい!」
わたしは駆けだしました。人の皮を捨て、四つ足をしなやかに奮い、夜風に毛を靡かせて。
偽りの姿はもう必要ありません。わたしは、稲荷大社の主祭神、宇迦之御魂神に仕えるお使い狐。誇り高き神の眷属なのですから。
***
俺は本当にバカだった。一日一緒に過ごしたくらいで、何を期待してたんだろう。ほんと、バカバカしい。
一月二日。俺は一番鳥居の前で待った。待ち続けた。けれど、ついにトウカは現れなかった。約束したはずなのに。
空はすっかり黒に染まっている。体も冷えてきた。どうせ、もう彼女には会えないだろう。
諦めよう。友達なんて、待ってくれる人なんて、俺にできるはずが無かったんだ。
滲む涙を拭い、静かな帰途に就いた。
家に着けば、中から明かりは見えなかった。あの男はまだ外らしい。良かった。帰って早々に怒鳴られずに済む。
鍵を開けて家の中へ。あいつがいないと知っていても、忍び足になる自分がいる。音を殺して廊下を歩くのが癖になっているんだ。
明かりもつけず、二階の自室へ向かう。静かに戸を閉めて、大きくため息をついた。
「トウカ」
名前を呼ぶ。会えなかった彼女の名前を。彼女も他のみんなと同じ。彼女にとって、俺の存在なんてその程度なのだ。こんな気持ちになるのなら、初めから突き放しておけばよかった。
大きくため息をついたその瞬間。
鈴が、鳴った気がした。
チリンと、たった一度だけ。静まり返った空間に、余韻が広がっていく。
音の鳴った方へ視線を向ける。俺の勉強机。その上に、一通の封筒が置かれていた。白い、何てことない封筒だ。表には『キョウスケ君へ』と下手な字で書かれていた。
どうしてこんなものが? あの男が? いや、それはあり得ない。そもそも俺に手紙を書く人間なんているはずがないのに。
封筒を手に取り裏を返す。そこには、小さく
「トウカ……」
確かに、そう書かれていた。
急いで封を開けば、中には手紙が一通と、見覚えのある鈴が一つ。生唾を飲み込み、手紙をゆっくりと開く。
――キョウスケ君へ
本当は面と向かって話したかったけど、それは出来ないから、こうして手紙を残します。
まずは今日のこと。約束を守れなくてごめんなさい。でもね、決してキョウスケ君のことがどうでもよくなったとか、そういうことじゃないの。これだけは信じてほしい。だって君は、罠にかかったわたしを助けてくれた命の恩人だもの。左手の傷も随分良くなったよ。全部君のお陰。本当にありがとう。
どういうことだ? トウカがあの狐? あり得ない。だってトウカはどう見ても人間なのに。
脳裏を過る二人の姿。しかし、思えば共通点があった。赤毛、二つの鈴、そして左手の包帯。
あの時の狐が、本当にトウカだっていうのか。
――わたし、君に恩返しがしたくて。それで昨日はしつこく付きまとっちゃった。その時、キョウスケ君言ったよね。『待ってくれる人なんていない』って。でも、それは間違いだよ。だって、わたしがいるから。……お家のこと、ちょっと見させてもらったよ。辛いよね、苦しいよね。家にすら拠り所がないなんて。でもね、今まで他に想ってくれる人がいなくても、これからはわたしが君のことを想ってるから。見守ってるから。わたしだけじゃないよ。これから出会う人もそう。みんな、君にとっての大切な人たちばかりなんだ。
だから、恐れずに前に進んで! 君の望むものは、その先にきっとあるから!
手紙の最後に、小さな紙切れが貼り付けられていた。それは、昨日引いた凶みくじだった。ただ、昨日と違う点が一つ。待ち人来ずの部分。そこだけ赤くバツをつけられ、訂正されていた。
――来るかどうかは君次第。勇気を持って!
人の気も知らないで勝手なことを。でも、気付けば口端に笑みがこぼれていた。
ふと窓へ目を遣れば、外の木の枝に赤毛の狐が座っていた。赤いスカーフと一つの鈴、そして左手に包帯を巻いて。狐は一度瞬きをすると、木の枝を降りて去っていった。
「見守ってる、か」
息をつき、小さな鈴をつまむ。それをそっと鳴らしてみれば、君のように明るい音色が小さな部屋にこだました。