二話「出会う」
ふと目を覚ますと、深い緑が視界を埋め尽くしていた。
ぼんやりしていると、少しずつ記憶が蘇ってくる。カイに婚約を取り消された私は、絶望し、せめて少しは後悔させてやろうと崖から飛び降りた。自ら命を絶とうとしたのである。
だとしたら、ここは死後の世界なのだろうか。
まだ曖昧な意識の中、私は思考だけを巡らせる。体は重く、上手く動けない。が、思考することくらいはできたのだ。
それからさらに時間が経つと、体が動くようになってきた。
最初は手の指が。それによって、横たわっている地面を触ることができた。服を着ているからかあまり気にはならなかったのだが、指で触ってみるとごつごつしている。ところどころに角のような部分もあり、意識せず触ると擦り傷を負ってしまいそうな、そんな触り心地だ。岩場だろうか。
次は腕が動くようになったので、両腕で支えながら、ゆっくりと体を起こす。体重がかかると、地面の小さく尖った部分が刺さって、手のひらが痛かった。
「私……生きているの?」
上半身を起こし、座るような体勢になる。
感触の通り、岩を繋ぎ合わせたような地面だ。そして、辺りには見たことがないくらいの木々が生い茂っている。
自然に満ちた場所だ。
それからも、しばらく、私は周囲を見回した。周りの様子を確認するために。
目が覚めてから、どのくらいの時間が経っただろうか。岩と木や草しかない静寂に佇むのが辛くなってきた、ちょうどその頃に、一人の青年が現れた。
「やぁ。目が覚めたんだね」
上半身を起こしている私を見て、青年は静かに言った。
「は、はい……」
「海に落ちかけていたから驚いたよ」
線は細く儚げなのに、どことなく強さを感じる。
美しい青年だ。
白銀の髪はうなじの辺りで一つに束ねていて、その房は肩甲骨に至るくらいの長さがある。また、顔立ちははっきりしていて、目が結構大きい。さらに、燃えるような紅の瞳なので、迫力がある。
背はあまり高くなく、女性として平均的な身長の私より少しだけ高い程度。実際に比べてみたわけではないが、頭一つ分も違わないだろうと思う。
そんな彼が身にまとっているのは、純白のコート。詰め襟、長袖で、丈は膝くらいまでと長めだ。銀色や水色の糸で丁寧な刺繍が施されており、裾には白色のタッセルがつけられている。
「貴方は……」
「いきなり僕の正体を聞くの? 君って、ちょっと礼儀がなってないんだね」
青年は束ねた白銀の髪を揺らしながら歩み寄ってきた。そして、私のすぐ近くに腰を下ろす。
「ところで、体調は?」
「平気です」
「なら良かった」
良かった、じゃない。
カイに少しでも後悔してもらおうとわざわざ崖から飛び降りたのだ、助かってしまっては何の意味もない。
……いや、普通に考えれば「良かった」なのかもしれないけれど。
「それで、君、名前は?」
「マリエ・ルルーナ」
問いに答えると、青年は少し間を空けて返してくる。
「ふぅん、そっか」
彼は、どうでも良さげな顔でそう言ってから、私の姿を凝視してきた。
自分でこう言ってしまうと救いようがないかもしれないが、私はパッとしない容姿だ。
そこは幼い頃から変わらない。
肩までの栗色の髪。皆より一回り小さい目。肌はかさつきやすく、唇も健康的な色でない。身長体重や体型は平均的ではあるが、それゆえ、これといって目立つ部分はなく。脇役のような容姿、と表現するのが相応しいだろうか。
「な、何か変ですか?」
あまりに凝視されるものだから段々不安になってきて、私はそう尋ねた。
すると青年は、首をゆっくり左右に動かす。
「いや、そんなことはないよ。見つめてしまって悪かったね」
「……あ、いえ。お気遣いなく」
「じゃあ一応。僕の名前はジェネだよ、よろしく」
「あっ……こちらこそよろしくお願いします」
青年——ジェネに向かって、私は頭を下げた。
「で、君はどうしてあんなことになったの? 理由もなく崖にいる女性なんて、なかなか見かけないけど」
ジェネは紅の双眸で私の顔を見つめてくる。
その双眸には、人間離れしたような目力があった。上手く言葉で説明することはできないのだが、彼の瞳から放たれる圧力は普通の人間のそれとは桁違いで。
小心者の私には、嘘をついてごまかすことさえできなかった。
「……私、あそこで死ぬつもりだったんです」
そう、あの崖から飛び降りて終わらせるはずだったのだ。
マリエ・ルルーナの人生と、何もかもすべてと、あそこでお別れする気でいた。