三話「ホットミルク」
「マリエ。はい、ホットミルク」
姉はものの数分で、私のためにホットミルクを作ってくれた。
手渡された桃色に花の柄が描かれたカップには、白い液体がなみなみと入っており、湯気が立ち上っている。顔を近づけると、ふわりと甘い香りがした。
「それを飲んで、ゆっくり休むといいわ」
「ありがとう姉さん」
カップの縁に唇を当て、ホットミルクを少し口に含む。液体が口腔内へ流れ込んだ瞬間、牛乳の自然でまろやかな味が、味覚を刺激する。口の中が温まっただけのはずなのに、全身がじんわりと温まったような気がした。
「マリエ」
ホットミルクを飲み、少しホッとしていると、蛇の姿のジェネが声をかけてきた。
「……ジェネ?」
「それは何という飲み物なんだい」
ジェネは頭部を持ち上げて、カップの中を覗き込んでいる。どうやら、私が何を飲んでいるのかが気になっているようだ。
「これ? ホットミルクよ」
「ホットミルク?」
「えぇ。つまり、温かい牛乳」
そう説明すると、彼は不思議なものを見たような顔をして「ふぅん……」と言っていた。ホットミルクにはあまり馴染みがないようだ。
「それは美味しい?」
「美味しいわよ」
「そっか。なら良かったけど」
蛇の姿のジェネはカップから視線を逸らした。
気になるなら人間の姿になって飲んでみれば良いのに、と密かに思っていたことは、私の中だけの秘密にしておこう。
その夜、私は久々に書斎へ向かった。
ジェネと共に。
今はほぼ使われていない書斎。様々な本に満ち溢れたそこは、いつだって埃臭い。恐らく、定期的に掃除を行っていないから、こんなことになるのだろう。けれど、それでも私はこの場所が嫌いでない。
「ここが書斎よ」
書斎に入るや否や、私はジェネにそう告げた。
「何だか、本だらけだね」
ジェネは細長い体を動かして周囲を見渡し、さらりと感想を述べた。飾り気のない言葉だ。
「本は知っているのね!」
「うん、まぁね。読んだことはないけど」
「読んだことがないの!?」
「そうだよ。僕は人間じゃないから……ね」
私は書斎内にある本棚から一冊の本を取り出す。
濃紺のハードカバーがついた、分厚い本。紙はやや黄ばんでいるが、保存状態は決して悪くない。そう、これは、私のお気に入りの一冊。
この本は前にカイとも読んだ。
もっとも、彼はあまり関心がなさそうだったが。
「これお気に入りなの。一緒に読まない?」
私はそう提案する。
それに対し、ジェネは頷く。が、直後に「君が声に出して読んでよ」と付け加えた。彼の話によれば、彼はあまり文字が読めないらしい。
私はもちろん、首を縦に動かした。
断る理由など、どこにもないから。
「じゃあ音読するわ」
「頼むよ」
そう言った次の瞬間——ジェネは人の姿に変化した。
薄暗い部屋の中、神々しい容姿が映える。
「ジェネ!? どうして!?」
あの場所以外で人の姿になることはできないと、ジェネはそう言っていた。にもかかわらず、彼はミジーズ村で人の姿に変化したのだ。驚かずにはいられない。
「ふふ、このことは秘密だよ」
ジェネは一本伸ばした人差し指を唇に当て、口角を微かに持ち上げる。いたずら好きな子どものような笑みだ。
「秘密!? それで大丈夫ならいいけど……でも、人の姿になったら駄目なんじゃ……」
戸惑いつつ発する私の言葉を、ジェネは途中で遮る。
「マリエはこっちの方が好きだよね?」
ジェネは少し腰を屈め、敢えて下から、私の顔を覗き込んでくる。その口元には、いたずらな笑み。どことなく挑戦的な表情だ。
「……どうしても認めさせたいのね」
「うん。だって、マリエに気に入ってもらえてるって思える方が嬉しいよ」
そう言ってもらえて嬉しいわ。
そんな素直なことは言えず。
けれど、ジェネが傍にいてくれて嬉しいということは、紛れもない事実だ。
◇おわり◇