十一話「気の迷いだった」
「……俺が間違っていた。あれは完全に、気の迷いだった。できるなら……もう一度やり直してくれ」
雨降りの日、らしくないみすぼらしい格好で現れたカイは、婚約取り消しのことを謝りもせずに、そんなことを言い始める。
だが、頷くことなんてできるわけがない。
他人を一方的に傷つけておいて、こんなに簡単に「やり直そう」だなんて、なぜこんなことが言えるのか、私にはちっとも理解できない。
「お断りします」
「あの女は嘘つきだった……俺はそれに騙されていただけで……」
「お断りします。帰って下さい」
雨に降られながら助けを求めている人が目の前にいたなら、きっと、助けの手を差し伸べただろう。たとえそれが知らない人であっても。
だが、カイは別。
残酷な形で裏切った人にも手を差し伸べられるほど、私は出来上がった人間ではないのだ。
「もう二度とお会いする気はありません」
はっきりと告げ、扉を閉めようとした——が、カイは急に腕を伸ばし、閉まりかかった扉を動かないように固定する。
「待ってくれ! 話だけでも聞いてくれ!」
激しい雨に打たれながら、目を見開き叫ぶカイ。
無理矢理な行いに苛立ち、私は、らしくなく「止めて下さい!」と鋭く放つ。しかしカイは腕を動かすことはせず、扉を閉めさせてくれない。
何て思いやりのない! と、さらに彼を嫌いになってしまう。
「止めて下さい……!」
「そう言わずに!」
カイは片腕で扉が閉まらないようにしつつ、もう一方の手で私の右腕を掴んできた。振りほどこうと、右腕を大きく動かす。が、カイの手の力は意外と強く、そう易々とは離れない。
「マリエー? 何だったのー?」
玄関へ向かったっきりなかなか戻ってこないことを不思議に思ったのか、家の奥から姉が声をかけてきた。
ちょうどいいと思い、彼女を呼ぼうとしたのだが——刹那、突如口を塞がれた。
「……っ!」
カイの大きな手のひらが、口元を強く押さえる。
「んんん!」
何とか抵抗しようとする。しかし、男性による拘束はなかなか解けない。私の力では上手く抵抗できない。
結局、私はそのまま、カイに連れ去られてしまった。
家から少し離れた辺りで待っていたボロい馬車に乗せられた私は、カイと二人きりになる。雨の中、馬車は砂利道を駆けてゆく。
今すぐにでもここから逃げ出したい。けれど、すぐに逃げ出すことはできない。かなりの速度で駆けている馬車から飛び出すというのは不安があるからだ。
「どこへ連れていくおつもりですか!」
「…………」
「答えて下さい! そうでなければ、ここで降ります!」
「今俺が暮らしている家へ……案内するつもりでいる。これからは、そこでゆったり暮らそう……」
みすぼらしい格好のカイは、俯き、暗い顔のまま答えた。
その答えを聞いた瞬間は「お断りします!」と返そうと思った。カイと共に暮らす気など、欠片もなかったからである。
だが私は、その言葉を飲み込んだ。
頭の端にジェネのことが思い浮かんだから。
「……少しお願いがあります」
私がそう言うと、カイの顔つきがほんの少し明るくなる。
「何だろうか?」
「崖へ連れていって下さい」
「……崖?」
「貴方の家から少し行ったところにある……あの崖です」
するとカイは「なぜ?」というような怪訝な顔をした。が、すぐに視線を私へ向け、静かに「分かった」と言う。そして、一瞬だけ馬車を止めて御者に指示を出した。
馬車は崖に向かって走り出す。
崖へ行けばジェネに会える。そこで彼の力を借りて、カイに諦めてもらおうという算段だ。
カイ相手とはいえ、騙すようなことをするのは気が進まない。
けれど、やるしかない。
カイに諦めてもらう方法が、他には思いつかないからだ。
それから崖に到着するまで、カイは、小さく口を動かしていて。何やらぶつぶつ漏らしていた。
「……あの女には騙された……病弱というのは、俺の気を引くための……ただの演技で……」
ここまで落ち込んでいるカイを見るのは初めてだ。
なかなか衝撃的な光景である。
「思わなかった……まさか、本当は俺の家柄だけが……目的だった……なんて……」
気の毒だと、少しは思う。
だがそれはすべてを許す理由にはならない。
騙されていたのだから、自分も被害者なのだから、許してほしいと、カイはそう思っているのかもしれない。けれど、そんな単純な話ではない。たとえどんな理由があったとしても、私の心を傷つけたという罪は確かにあり続けるのだから。