十話「雨降り」
「そう、あの人も君によく似ていた。信じていた男に裏切られ、この崖へ来て、僕と知り合ったんだ。マリエとは違って……最期まで相手の男を信じ続けていたけどね」
岩場に腰掛け、過去に想いを馳せるような遠い目をして、夜の湖のように静かな声で語るジェネ。その姿はあまりにも儚げで。今にも消えてしまいそうだ。
「……傷つけられて、それでもなお、その男性を愛していたというの?」
私には理解できなかった。
彼女がどのような傷つけられ方をしたのかは知らないが、崖から身を投げたということは、かなり傷つくことをされたのだろう。
それなのに、信じ続けていたなんて。
一途と言えば聞こえは良いかもしれないけれど……裏切った男を信じ愛し続けるとは、なんて悲しい話なの。
少なくとも、私にはそんなことはできそうにない。
「そういうことだよ。だから、僕に出る幕はなかった」
「……そう」
「僕がどんなに恋い焦がれたところで、彼女の心が僕に向かうことはなくて。結局彼女は、自身を裏切った男を庇うことで、その生を終えたんだ」
そう話す彼の顔は曇っていた。
雨が降り始める直前のように。
今にも泣き出しそうに。
どんなに想っても叶わない恋ほど辛いことはない。叶わぬまま終わってしまった片思いは、今でもジェネに、深い悲しみを残しているのだろう。
「こう言ったら失礼かもしれないけど、崖から飛び降りるマリエを見た時……思い出したよ。君があの人によく似ていたから」
日頃は凄まじい目力を誇るジェネの瞳だが、今はとても大人しい色をしていた。
「だから助けてくれたの?」
尋ねるべきではないかもしれない、と思いながらも、私は尋ねた。
するとジェネは、目を伏せて曖昧に返してくる。
「そうかも……しれない。けど、そうではないかもしれない。僕にも……よく分からない」
少し空け、さらに続ける。
「けど、今は、あの時君に出会えて良かったと思うよ」
「ジェネ……」
「あの時出会ったから、こうして話せているんだからね」
そう。あの時出会わなかったなら、二人で過ごす今もなかった。そして、カイが婚約取り消しをしなかったなら、私は崖には来なかった。
少しずつ、心は変わってゆく。
私は婚約を取り消されたあの日から、ずっと、カイを憎んでいた。幸せになれると信じていた私を裏切ったことは絶対に許せない、と、そう思っていた。
だが、カイの婚約取り消しが、私とジェネを出会わせてくれたのだ。
そう捉えてみれば、案外、カイを恨み続ける気にはならないかもしれない。
カイに罪がないとは思わないが。ジェネが恋い焦がれた彼女のように、許し、慕い続けることはできないが。
ただ、恨みそのものを捨てることはできる。
時間と努力は必要だけれど。
婚約取り消しから数ヵ月が過ぎた、ある朝。
私はパンと姉が作ってくれたスープを食べながら、窓の外の、雨降りの景色をぼんやりと眺めていた。
「何を見てるの? マリエ」
料理を終え、片付けも終えた姉が、朝食を食べる私に話しかけてきた。
「え」
「窓の外を見てぼんやりしてたから。何か見つけでもしたのかなーって」
姉は美人だ。それに、髪は綺麗だし、スタイルもいい。私より、ずっと、女性としての魅力がある。
だから、「婚約者が姉だったら、カイは心変わりしなかったのかな?」なんて、少し考えてしまうこともある。「パッとしない私が相手だったから、カイは他の女性を好きになってしまったのかな」などと、思ってしまうこともあるのだ。
「ううん。何でもない」
「そうなの? マリエ」
「本当よ! ……嘘をつく必要がないでしょ」
「ま、そうね」
雨粒が窓枠に打ち付けられるのを眺めながら、姉と二人、穏やかな時を過ごしていた——そんな時。
唐突に、誰かが玄関の扉をノックした。
「……何かしら?」
「見てくるから、姉さんはここにいて」
私は玄関へ急行する。
そして、ゆっくりと扉を開けた。
——立っていたのはカイ。
しかし、様子がおかしい。
地区を治めるエッカルト家の息子というのもあり、カイはいつもそれなりに良い格好をしていた。
なのに、今日はみすぼらしい格好をしている。
布製の地味な上下に、焦げ茶色の羽織り。それ以外は何も身につけていない。
「マリエ……やり直してくれないか……」
カイは低い声で発する。
「何ですか。いきなり」
突然訪ねてきて、こんなことを言うなんて、一体どういうつもりなのか。私には理解できない。
そもそも、式前日に婚約取り消し、なんて卑怯な真似をしておいて、よくこんなにあっさりと私の目の前に現れられたものだ。