38話
「殿ォ!! 右翼が! 右翼が総崩れにございまする!!」
「撤退のご沙汰を!!」
蒲生定秀の元では家臣が口々に声を上げていた。
それを聞いて定秀は声を上げた。
「どこへ退けというのだ!!」
その声に家臣たちは静まり返った。
「星ヶ崎か?! 水茎岡山城か?! 鎌掛城か?!」
定秀はそう声を上げる。
彼がいった城はいずれも三好の手に渡っている。
「それとも観音寺城か?! 答えよ! 何処へ退くというのだ!」
その言葉に、家臣たちは答えようがなかった。
彼らに、退くべき城などなかった。
「良いか! 我らは六角定頼様が山道を抜けるまで刻を稼ぐのが役目である!」
動揺する家臣たちに定秀はそう声を上げる。
彼の言葉を聞き、家臣たちは落着きを取り戻しつつある。
「解ったか! 我らには死ぬか! 勝かしかない! 逃げるなどあり得ぬ!!」
「応!」
定秀の喝に家臣たちは決心した。
定頼より1字を受け、信頼あついこの殿をなんとしても勝たせようと。
「陣を密集させよ! 魚鱗の陣をくめぇ!!」
「立場が、入れ替わったな」
その頃、長逸は敵陣を見降ろしてそう呟いた。
敵は魚の鱗のような陣形を取り、密集し守りを固めている。
対してこちらは鶴翼の陣形を取り敵を包み込まんとしている。
「だが、下らないか」
敵はまだ降伏する気配すら見えない。
それどころか、死兵と化し決死の覚悟抵抗する構えすら見える。
「しかしながら、時間の問題でしょう」
すると安吉が現れた。
「見事な戦働きにござった」
そう言って長逸が頭を垂れると安吉は「拙者は何もしておりませぬ」と笑った。
すると彼は三好の陣の一部を見つめた。
「長虎殿は良い武士ですな」
「安吉殿もそう思われるか」
安吉の言葉に長逸は嬉しそうに笑った。
「良い嫡男をもったものだ」
長逸がそう笑みを浮かべると、安吉は微笑ましそうに彼を眺めた。
父とはこういう物なのだな、と少しばかりうらやむ気持ちもある。
「これで、決着はつきましたな」
安吉の言葉に長逸は首を振った。
「六角定頼の本隊が見えぬ。8000の兵がどこかにいるはずなのだ」
長逸は少し焦っていた。
目の前にいる2000の兵に苦戦し、敵の8000の所在はつかめない。
「じきに、一存殿の8000と久秀殿の6000が援軍に参るが、それも間に合うか……」
そう思案する長逸。
その直後、背後から歓声が響き渡った。
「なんだ……?」
突然の事態に困惑する長逸と安吉。
背後と言えば御所や京の町が広がる。
まさかそこで戦が起きようはずもない。
「まさか……!」
「どうなされたのですか?!」
長逸が何かに気が付いた。
その直後、京から馬に乗った者が一人駆けこんで来た。
「殿ォ!! 花の御所にて将軍が蜂起!!」
ようやく、安吉も事態を把握した。
花の御所。それは足利将軍家が住まい、政務を行う場所である。
今は形骸化した執政組織であるものの、未だに将軍家は花の御所にいる。
そしてその将軍は三好家と関係があまりよろしくない。
「六角定頼が即座に花の御所に入りもうした!」
「……やられたな」
長逸はそう言って安吉に諦めたような笑みを浮かべた。
結果的に、定秀と長逸の関係は再度ひっくり返った。
「さて、安吉殿。どうする?」
定秀はそう安吉に尋ねた。
長逸の陣は敵中で孤立した。
前方には蒲生定秀率いる士気旺盛な2000。
背後には8000の六角定頼隊と将軍家の隊。
対してこちらは7000余り、何が出来ようか。
「将軍家はどれだけの兵を集めているのです?」
安吉の問いに使者は「5000ばかりと聞き及んでいまする」と答える。
総じて1万と5000。
「2倍、ですか」
安吉はそう自虐的な笑みを浮かべた。
十河一存の援軍が間に合ってようやく同数。
松永久秀が来て、なんとか5000の差が生まれる。
「いっそのこと、和泉まで逃げまするか?」
そう笑った安吉に長逸は「できることならそうしたいものだな」と笑った。
だが、長逸にはそうできない理由があった。
ここで退けば定頼は伊賀に攻め入り、松永久秀と三好政康の1200の軍勢を蹴散らし、近江に攻め入っている長慶らを攻撃するだろう。
伊賀に攻め入っている隊も、近江を攻めている隊も。
いずれも背後から攻撃を受けることになる。
それに六角家には将軍家が付いた。
三好に不満を持つ豪族たちが次々に陣へと参加するだろう。
「ここで定頼を打ちのめさなければならない」
長逸はそう決意を固めた。
「相手もこちらも、退けぬというわけですな」
安吉はそう言って笑った。
相手にも引けない事情があり、こちらにも引けない理由がある。
どちらかが壊滅するまでの地獄の戦がすぐ目の前に迫っていた。
「できることなら、一兵でも多くの兵が欲しいものだ」
長逸は静かにそう呟いた。
何か策を講じなければならなかった。
それから少し遡る。
安吉と紀忠を降ろした船団は、赤松門右衛門を指揮官とし大三島へと舞い戻った。
「門右衛門殿! よく戻られました」
疲れ切った顔で安正に帰還の報告を告げた門右衛門に小春がそう声をかけた。
「これは、奥方様」
そう言って跪く門右衛門に小春は困ったような表情を浮かべると、こう尋ねた。
「台湾は如何でしたか?」
「殿が、随分と楽しそうにしておられました」
門右衛門の言葉に小春はクスリと微笑むと「それは良かったです」と笑った。
そして、彼女は真剣な眼差しを門右衛門に向けるとこう告げた。
「再度、京に行ってください」
彼女の言葉に門右衛門は驚いた。
「京へ?」
「戦になっているのは知っていますか?」
小春の問いに門右衛門は頷く。
紀伊水道での軍勢は彼も見ていた。
「旦那様はわずか60ばかりの手勢のみで京へ向かわれた」
それを聞いて門右衛門はハッとした。
「戦になっておるやもしれませぬな」
彼の言葉に小春は頷いた。
優秀な家臣がいるとなんと心強いことか。
「手筈は整えています。海鳴丸の定期便に紅衆340と共に京へと向かってください」
小春の言葉に門右衛門は平伏した。
「よろしいのですか。紅衆を勝手に動かして」
門右衛門の問いに小春は小首をかしげた。
そして、自信満々にこう答えた。
「旦那様が望んでおられましょう」




