53話
「父上、これは予想外でしたな」
その頃、毛利家では元久が京都より舞い戻っていた。
「こんな展開誰が予想できるものか」
つまらなそうにそういう元就に元久は苦笑いを浮かべた。
大祝家が朝鮮や対馬に手を伸ばすと信じて関門海峡での影響力を伸ばしていたが、彼らは予想を反して豊後水道を南下していった。
「三好がこれほど強いとも思っていなかった」
元就はそう悔しそうにつぶやいた。
六角と北畠がこれほどまでに容易く敗れるとは。
「次は、こっちに来るかもしれんぞ」
元就の言葉に元久は息を呑んだ。
「公方様が降ろされた。三好は一気に天下へ王手をかけるだろう」
その言葉に元久は何も答えられなかった。
彼は未来の知識を有している。
だが、歴史は変わりつつある。
「ですが、これは好機でもあります」
元久はようやく口を開いた。
怪訝そうな表情をする元就に元久は言葉を続ける。
「三好は尼子を攻めるでしょう。漁夫の利と獲るまでです」
「ふむ、なるほど」
彼の言葉に元就は納得したように声を出した。
三好に抵抗するとなれば尼子はその全兵力を用いなければならないだろう。
そして空になった後方地域を瞬く間に占領する。
「三好に下れと?」
元就は元久にそう尋ねた。
「下らずとも盟友となれば」
「無理だな」
元久の言葉を元就はそう断じた。
「三好からすれば我らなど、同盟を結ぶよりも尼子ともども踏みつぶしたほうが早い」
彼の言葉に元久は言葉を詰まらせた。
確かにその通りだ。
尼子を潰せるのなら、その片手間に毛利を潰すのだって手間ではない。
「要は、尼子よりも大きくなればよいのですね?」
元久はそう声を発した。
「その通りだ」
元就はニイッと笑うと地図を広げた。
そして、安芸秋の西を指さす。
「大内から領土を獲る」
彼の言葉に元久は目を見開いた。
「大内は遠からず崩れる」
元就の言葉は現実となった。
1551年9月1日。
大内家家臣、陶晴賢が謀反を起こした。
当主、大内義隆は自害。
謀反人、陶晴賢がその実権を握った。
主を失った大内家は義隆の養子である、義長が当主に就任。
彼は大友宗麟の弟でもあり、大友家と大内家の対立関係は解消された。
かに、思えた。
「豊前、筑前を制圧よ!」
当主交代で混乱している大内領に大友家の軍勢が大挙して攻め入ったのである。
慌てた義長は抗議の文を送るが、宗麟からの返答は文を届けた使者の死をもって伝えられた。
晴賢を筆頭に大友家を追い返そうと2万の軍勢を集めるが、そこで異変が起きた。
「今こそ大内の圧政から解放されるべき時である!」
11月、もうしばらくで雪が降ろうかという頃。
毛利家が挙兵した。
安芸国内にあった大内の城3つほどが同時に攻撃され、2日と経たぬうちに陥落。
大内家は東西から攻められる形となった。
安芸を平定した毛利元就はすぐに兵を退き、防御の構えを取った。
大友討伐のために用意されていた2万の兵から1万程が安芸に向かったものの、寒波が到来。
大内家は諦め、所領へと戻っていった。
結果的に大内家は大量の領土を喪失した。
9月には豊前、筑前、周防、長門の全土に加え石見と安芸に僅かな領土を持っていたのが、今や周防と長門の二カ国のみとなっていた。
陶晴賢は急速に求心力を失い、家臣の中では不満が募りつつあった。
「安吉はいいものを譲ってくれたな。なぁ?」
能島城では武吉が虎視眈々と機会をうかがっていた。
「この戦で瀬戸内の治安は乱れていまする」
そう言ったのは叔父の村上隆重。
彼の言葉に「如何にも」と貞道が続く。
「瀬戸内守として、これを座視しているわけにはいかぬ。冬が明ければ行動に移す」
武吉の言葉に二人は「応!」と応じる。
「ようやく、所領が増えそうな戦だぞ」
彼はそう言って苦笑いを浮かべた。
先の六角、北畠への加勢で村上家は大勢の軍勢を出したものの、手柄は余りあげられなかった。
というのも、敵の水軍が湾内に籠り海戦が小規模な物しか発生しなかったためである。
それでもある程度の手柄は揚げたが、労力に見合うものではなかった。
家臣たちの中には戦に従事したのにも関わらず、褒美が満足いかないと不満を募らせている者たちもいる。
「さて、安吉。どう動く?」
「歴史が随分と変わってますねぇ」
報告を聞いた小春は安吉へ呑気に笑った。
「どうしたものか。兄上は動くだろうな」
安吉の言葉に小春は頷いた。
彼は大きくため息を吐くと小春の横に腰を下ろす。
「できることと言えば、毛利への物資供給くらいか」
「帆船は動かさないのですか?」
小春の問いに安吉は諦めたような笑みを浮かべた。
「無理だな、台湾から返って来てすぐに京で戦があったんだ。水夫たちはともかく紅衆が疲弊している」
安吉はそう呟くと、ため息を吐いた。
その言葉を聞いて小春は「みんな、元気ですねぇ」と呆れたように笑った。
「ついていけない」
彼は諦めたようにそう言うと天井を見上げた。
兵を減らし、その質を高めた。
だが、それが裏目に出つつある。
今の大祝家ならば1万程度の兵は用意できたであろう。
安吉はそれを棄て、紅衆と帆船を主体に来島の5000程度の兵でその全てを賄っていた。
「ここにきて、手ごま不足になるとはな」
全くの誤算だった。
翌年4月。
まず大友家が動いた。
無数の軍船を集めると、関門海峡を越え長門に陣を引いた。
それに呼応して毛利勢が安芸国境から周防に侵攻。
さらに諸島を因島水軍とともに能島村上家が攻撃。
厳島をはじめ、大内家の持っていた島々が陥落した。
この状況を打開しようと、尼子家に大内家は援軍を求めたが尼子も動けずにいた。
三好家が、兵を集めていたのである。
これは地方豪族を平定するためであったが、尼子家は侵攻準備と捕えた。
結果的に西へと裂く兵力が無く、大内家は見捨てられるという形になった。




