寓意は、寓意でしかない
「……なんで、私のことを助けたんですか?」
フィーネ・アルムホルトの所有する別荘。その地下に存在していた簡易的な一室に、淑蓮と由羅は閉じ込められていた。
見張りは二人。
体格や身のこなしからして、確実に素人ではない。耳の潰れ方からして何かしらの柔術、組技を会得していると考えていいだろう。立ち方ひとつだけでも、重心のとり方が常人とは異なっている。
「あ、アキラ様の妹だから……」
ネット上から得た知識を総動員させて、見張りの二人を観察し続けていた淑蓮は、体育座りしている由羅に目線を移す。
「血が繋がっていないことくらい、さすがにわかってますよね? お兄ちゃんの信奉者なら、それくらい判断つくと思いますけど」
拘束されてはいないが、武器も道具もない現状、人質に徹する以外に方法はないな。アラーム付きの腕時計も没収されたし、実質“ゲームオーバー”ってことだろう。
「に、匂いが違うから……あ、アキラ様が嘘をつくとは思ってないけど……た、たぶん、『血が繋がってる』って明言するくらいには、あなたのこと大事なんだなって……そ、そう思ったら、あ、あなたが傷つくの……アキラ様は嫌だろうなって……」
「当たり前でしょ。お兄ちゃんは、私を愛してるんだから」
そう。お兄ちゃんは、私のことを愛している。愛しているから、私は生きていける。愛してなかったら、私は死ぬしかないんだから。私が生きているっていうことは、お兄ちゃんが私を愛してるってことだ。
なのに――どうして、お兄ちゃんは、いつまでも私を選ぼうとしないんだろう?
「も、もし……」
潜考していた淑蓮を浮かせたのは、目の前から発せられた美声だった。
人差し指と人差し指を突き合わせ、もじもじとしながら、衣笠由羅はキレイな瞳を覗かせる。
「も、もし……アキラ様が自分を選んでくれたら……ど、どうする……?」
え、この人、この状況下で恋バナしようとしてる? 死ぬか生きるかの瀬戸際で? 恋敵である私相手に?
「どうするもなにも、壮大な式を挙げて、全世界からの祝福を浴びますよ。義妹の特権ですからね。子供は男の子が二人に女の子が一人、三人ともお兄ちゃんそっくりなんですけど、ところどころに私の特徴が現れて、子供の顔を見る度に征服欲が満ちに満ちる予定です」
「な、なら……“選ばれなかった”ら……?」
私が、お兄ちゃんに、選ばれない?
想像しただけでも、苦渋が舌の上で跳ね回り、絶望が臓腑に沈み込んで、激痛が足先まで犯していくようだった。
「え、選ばれた人を……殺すの……?」
単純明快な実行策。恐らく、フィーネ・アルムホルトが望んでいることは、そういうことだろう。
この世界から、自分以外の女が消えれば――愛する人は、確実に己を選ぶ。
快活さすら覚える、明朗とした論理性。狂気を狂気と読むのは、月の魔力で人が狂うと大昔には信じられていたからだ。
月を思わせる女は、正当に狂っている。
部屋の壁にかけられた、アーニョロ・ブロンズィーノの『愛の寓意』……輝かしいヴィーナスの奥、その暗がりで老婆が頭を掻きむしっている。
「あの女は、自分を愛の女神だと勘違いしてる」
「え?」
「でも、実際は、ただの嫉妬に狂う老婆だ。私はそんな風にはなりたくない。お兄ちゃんが愛した女を殺しても、きっと、お兄ちゃんはまた別の女を好きになる。幾ら殺し続けても、お兄ちゃんは私を愛したりはしない」
淑蓮の目線に釣られて、由羅は絵画を見つめた。
「嫉妬で人は愛せない」
「なら……どうするの……?」
「死ぬ」
桐谷淑蓮は――憂いひとつない、満面の笑顔で言った。
「お兄ちゃんの目の前で、むごたらしく死ぬ。一生、お兄ちゃんが忘れないように、私という存在を瞳に刻み込むようにして死ぬ。そうすれば、お兄ちゃんの裡で私は生き続けるし、お兄ちゃんは死ぬまで私を忘れ去ることはできない。そうしたら、お兄ちゃんはずっと私のことを想い続けるし、もしかしたら一瞬だけでも私のことを好きだと思うかもしれない。そしたら大成功だし、死んだかいもあるよ。お兄ちゃんが私を想ってくれない世界なんて失敗作だし、死んだほうがずーっとマシだもん。死後の世界なんて信じてないから、心中なんて考えたりはしないよ。だって、お兄ちゃんに痛い思いなんてして欲しくないもん。それよりも、私がいなくなった世界で、お兄ちゃんがどういう風に生きるのかが知りたいの。お兄ちゃんに悲しんでもらえたら、私はそれでいいよ。私のことを想ってくれるだけでも、私の命を捧げただけの価値になるの。ずっと前に誓ったんだもん。お兄ちゃんに桐谷淑蓮を捧げるって。約束だから守るんだよ。お兄ちゃんが選んでくれないなら、私自身を捧げてそれで終わりにする。お兄ちゃんなら私の愛を受け取っても生きてくれると思うし、もし後追いしてくれるなら本当に嬉しい。だって、それは、お兄ちゃんが私に命を捧げたってことでしょ? そんな素敵でロマンチックなこと、そうそうないもん。お兄ちゃんはロマンチストだから、きっと、私の愛に応えてくれると思うな」
衣笠由羅は、うんうんと頷いてから笑った。
「だ、大丈夫だよ……ぼ、ボクがアキラ様を“増やす”から……そ、そのための研究をしてるから心配しないでね……」
ダメだコイツ、狂ってる。
淑蓮は呆れてから咳払い、思考をニュートラルに戻し、改めて部屋の細部にまで視線を走らせる。
「お喋りは終わりにしましょう。
どこか、脱出路を探して――見張りの二人は?」
電波の通らない地下室から、定期連絡を入れるために、二人組の片方がこの部屋から出ていくことはあった。
だが、ふたりとも外に出ていき、戻ってこないのははじめてのケースだ。
「……どこに」
コンコンとノックの音がして――ゆっくりと、扉が開いた。




