衣笠由羅の追憶
衣笠真理亜が〝誕生〟したのは、衣笠由羅が9歳の時だった。
「……だれ?」
「衣笠真理亜。アナタのお友達だよ」
内向的な性格で、友人のいなかった由羅にだけ視える友人は、彼女が年を経るにつれて同じように歳をとった。
「ね、由羅」
「な、なに、真理亜?」
人見知りの由羅は、真理亜に寄る辺を求め、そして彼女の孤立は加速していくこととなる。
衣笠由羅の不幸はそれだけではなく、幼少時代に誰もが抱いた〝生物への残虐さ〟が、友人のいない彼女にとって〝最高の一人遊び〟として定着してしまったことだった。
「いい加減さ、あたし以外の友達を作ろうよ」
「ぼ、ボクの友だちは、ま、真理亜だよ」
真っ暗な部屋の中、捕まえてきたカエルを解剖しながら、中学生になった由羅は口の端を歪めてつぶやく。
「み、みんな、ぼ、ボクのことを、き、気味悪がるんだ……ど、どうして、は、腸の綺麗な赤色を、怖がるのかな……?」
「……ね、由羅」
「な、なに?」
鏡に映っている由羅の姿は、微かに姿を変えて、誰からも愛される〝真理亜〟としての偶像を投影していた。
「あたしはさ、きっと、アナタの理想の姿なんだよ」
「う、うん。ぼ、ボクも、真理亜が、せ、世界で一番、き、綺麗だと思うよ」
「でも、あたしたちの顔貌は同じ」
鏡の中の真理亜は、愛らしく微笑んだ。
「〝由羅〟は〝真理亜〟になれるよ。
あたしは理想のアナタなんだから、絶対に大切な友だちが作れる」
「そ、そんなの、要らない!!」
カエルの腹にメスを突き刺し、由羅は勢い良く立ち上がる。
「ぼ、ボクに、友だちなんて必要ない!! 真理亜さえいればいい!! ぼ、ボクを救える人間なんていない!! そ、そんな存在がいたら、それこそ〝神様〟だ!!」
「……由羅」
哀しそうな友人から顔を背け、彼女は息絶えようとしている一匹へと意識を戻す。
腹を裂かれ、ぐったりとして死を待つだけのカエルは、まるで彼女の人生をなぞっているかのようだった。
このまま自分は孤独に死んでいくのだと、由羅は信じ込んでいた……桐谷彰の気まぐれに巻き込まれるまでは。
「カツアゲだ。金を寄越せ」
「……ぇ?」
中学校から帰宅し、解剖用のカエルを調達しに出かけた由羅の前で、視るも無残な姿をした男子が片手を突き出していた。
「聞こえなかったのか? カツアゲだ。とっとと金を出せ。
ようやくあの女の牢屋から抜け出して、ココまで戻ってこれたんだ。捕捉されないうちに、警察まで行きたいからバス代をくれ」
上から下まで衣服をズタボロに破き、顔と腕、足に擦り傷を残した彼は、そんな状態が普通だと言わんばかりに仁王立ちしている。
「か、カツアゲは、は、犯罪で――」
「当たり前だろ、バカかお前は? 人が道を歩き始めたら、『それは、歩行です』とでも抜かすつもりか?
百も承知だ、オラ、金を出せ」
乱暴な口調の彼に気圧されて由羅が財布を開くと、彼は真上から中身を覗き込んでニッコリと笑った。
「お前、金持ちだな」
「え……よ、よくわかりません……」
由羅が一万円札を差し出すと、少年は財布から勝手に千円を抜き取り「コレだけ借りる」と言って尻ポケットに仕舞った。
「ギャンブル依存症だったあの女よりは、俺に相応しいな……鞍替えするか」
「く、鞍替え?」
「お前、名前は?」
「き、衣笠、ゆ、由羅です」
「衣笠由羅、衣笠由羅……よし、憶えた」
どこからか、悲鳴に近い女性の叫び声が聞こえてくると、笑顔の少年は由羅の手を握ってささやく。
「俺は人の顔じゃなく、人の名前を憶えるタイプだ。今、お前の名前は記憶した。
また会おうぜ、金づる」
信じ難い速度で走り出し、あっという間に見えなくなった彼を見送った由羅は、呆けて立ち尽くし――次の日、彼女と同じ学校に所属していた桐谷彰は、たった一日だけで、彼女の抱えていた問題を全て解決して見せた。
「ど、どういうことですか……?」
無人の理科実験室の中で、自分に土下座する男子生徒と女子生徒の群れを眺め、由羅は唖然として携帯ゲームで遊ぶ彰を仰ぎ見る。
「お前、イジメられてるんだろ? その首謀者共だ。見ればわかると思うが、お前に謝罪してる」
「な、なぜ? ど、どうやって?」
由羅の教科書を破り捨てトイレに流した女子生徒、彼女の机に卑猥な言葉を刻み込んだ男子生徒、ありとあらゆる肉体的暴行を行ってきた複数の生徒たち……全員が震えながら、彼女に対して平伏していた。
「知らん」
「えっ?」
「俺が望んだら、〝誰か〟が勝手にやった。理科実験室の鍵は、下駄箱に入ってただけだ。俺は何もやってない。
こんな光景、優等生の水無月さんに見られたら、先生にチクられて大目玉食らいそうだけどな」
携帯ゲームの電源を切り、桐谷彰はニヤリと笑った。
「俺はランプの魔人だ」
理科実験室の机上に堂々と座っていた彼は、学校にいる誰もが決して触ろうとしなかった彼女の手をさも大切そうに握る。
「お前の願い――あとふたつ、叶えてやるよ」
その瞬間、確かに衣笠由羅の心は鼓動していた。




