好きな人のパンツは、ジップロックで保存しましょう
「桐谷くん、34ページだよ」
水無月結は、二年生にして副生徒会長を務めるくらいに、優秀な人物だった。
授業中の彼女は眼鏡をかけていて、常に真面目で怜悧な面立ちを崩そうとはしない。同クラスの男子生徒は、そんな彼女を盗み見ては、幸せそうに恋心を膨らませていたようだ。
先日の席替えで俺の隣に席を移した彼女は、度々授業についていけなくなった(ついていく気がないとも言える)俺にも優しく接してくれた。
「あっ」
身じろぎをした彼女の机から、消しゴムが落ちて床に転がる。
「おっと……はい、水無月さん」
落ちた消しゴムを手渡すと、彼女は真剣味を帯びた眼差しのまま「ありがとう」とだけ短い礼を言ってくれた。
「桐谷くん、授業中は、あんまり眠ったりしないほうが良いよ」
消しゴムを受け取った後、非難するかのように、彼女はそう言っていた。
「あぁ、うん。ごめん」
「あまり怠けると、将来、困ることになるからね。気をつけて」
そして、直ぐに黒板へと向き直る。
あの時の彼女は、俺みたいな虫けらに、興味なんてないと思っていたし、俺もまた高嶺の花に手を伸ばす気はなかった。
だが、今の彼女は――
「つまり、監禁してもいいの!? 彰くんのこと、独り占めしてもいいのかな!? ね!? そういうこと!?」
こうである。がっかりってレベルじゃないよ。
「えぇ、もちろんで御座います」
勝手に失望しながらも、土下座したまま宣言すると、水無月さんは身震いをして「あはぁ」と熱い吐息を漏らした。
「や、やっぱり、両想いだったんだね!? ゆいのこと、好きだったんだね!? そうでしょ!? ねっ!?」
妄想力、とんでもねぇなこの人……今まで、俺と大した絡みなかったよね?
とか思いつつも、俺は満面の笑みで「もちろん、好きでした!」と叫んだ。告白するのは初めてである。
「あ、あ、あぁ、しゅ、しゅごい……彰くんが、しゅ、しゅきって……ゆ、ゆいのこと、しゅきって……」
恍惚とした表情を浮かべ、とろけきった声を出す彼女は、どう考えても薬をキメているようにしか視えない。
「あ、彰くん、お願いがあるんだけど……」
「なんでございましょうか?」
三大ヒモ原則の一――ヒモは、決して、歯向かうことなかれ。
よっぽどの命令でなければ、俺は水無月さんに逆らうつもりは欠片もなかった。そもそも、こんな美少女から命令を受けるなんて、とんでもない栄誉でありご褒美である。
美少女なら、何をしても許され――
「パンツ脱いで」
さすがに、犯罪は許されないよ?
「……アメリカで言うところのズボンではなくてですか?」
「ううん、違う。ぜんっぜん、ちがうっ!」
慎ましい胸を上下させながら、水無月さんは、著しい興奮を露わにしていた。
「パンツ! 彰くんのパンツが欲しいの!!」
「かしこまりました」
ここで断れば、ヒモの名が廃る。
俺は男子トイレに行きパンツを脱いできて、脱ぎたてホカホカのそれを手渡す。瞬間、俺の手から奪われたソレは彼女の鼻へと吸い込まれる。
「ぁあ! スゴイ!! 怖い!! 怖いくらい効く!!」
俺は、お前が怖いよ。
「消しゴムとは段違いだね……コレは危険だよ……危険物取扱者免状が必要だよ……」
水無月さんは、いそいそと自分の鞄から『彰くんコレクション』と書かれたジップロックを取り出し、至って真剣な顔で俺のパンツを丁重に保存した。
「というか、彰くん。明日から、授業中に寝ないでね。顔が視えなくて、ゆい、彰くん成分が足りなくなるから」
あぁ、そういう意味で、授業中に寝るなって言ってたのね。
「そ、それじゃ、家、行く? ゆいの家、行く?」
「え、いや、構わないんですけど……ご両親は?」
「大丈夫、殆ど、家にいないから。
だから、ね、早く行こ――」
「なんだ、桐谷。まだ、残ってたのか?
ん……水無月? お前もか?」
教室の扉を開けて雲谷先生が入ってくると、水無月さんは、すぅっと何時もの優等生面に戻る。
「はい。生徒会の活動があったので」
「そうか。ソイツは、ご苦労さん。
ところで、桐谷。今から、時間あるか?」
「え? あぁ、はい。なんですか?」
雲谷先生は、学級日誌でトントンと肩を叩きながら言った。
「例のストーカーの件でちょっとな。
時間が大丈夫なら、今から、職員室で――」
「ありませんよ」
俺が「良いですよ」と答えようとした矢先、背後にいた水無月さんが、笑顔で返答を言い放った。
「先生、桐谷くんに、そんな時間はありませんよ。これから、一緒に〝お勉強〟をするつもりだったんですから。
ね、桐谷くん?」
おーい! 俺の背中に突きつけてるの、スタンガンやないかーい! コレ、直接的な脅しやないかーい!
「……ね?」
目が怖いよ、目が!! 人殺しの目だよ、ソレ!!
「そ、そういうことになりますね。あ、ハイ」
「なんだ、おかしなヤツだな。いつの間に、水無月とそんなに仲が良くなったんだ?」
「隣の席ですから……永遠に、ね」
『永遠に、ね』の部分を俺の耳元でささやき、水無月さんは熱に浮かされたような顔つきで俺を睨めつける。
ヤンデレって、もしかして、俺の手に負えないのでは?
「まぁ、別に明日でも良い。気をつけて帰れよ」
「はい。さようなら、先生」
ニコニコとしながら水無月さんは挨拶し、先生の足音が遠ざかっていくと、彼女はスタンガンをポケットに仕舞った。
「そ、それじゃ、行こっか、彰くん」
頬を染めて、気恥ずかしそうな彼女は、この上なく可愛かったが、俺が答えずにいると怖気が奔るような声音を出し始める。
「……ゆいと行きたくないの?」
「行きたい行きたい!! どこへだって行きたい!!」
「良かったぁ。
あ、そうだ」
振り返った水無月さんは、愛らしい笑顔で言った。
「彰くんって、首周りは何センチ?」
その質問って、犬にするものだよね――とは、言えなかった。
「……なんで?」
桐谷彰の部屋で、一人の少女が彼の寝床に潜り込み、苦しげに蠢いていた。
「なんで、お兄ちゃん、電話に出ないの!? なんで!? なんで、私の電話に出ないの!? オカシイよ!? ちゃんと、約束したのに!? お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんがいないと、お兄ちゃんがいないと、私ダメになっちゃうのにダメになるダメになるダメになるダメになる……」
桐谷淑蓮――彰の義妹である彼女は、彼の衣服で布団を作って、自らを守るようにして己の身を包み込んでいた。
「お兄ちゃんは裏切らないよね裏切らないよね裏切らないよ……大丈夫大丈夫大丈夫……お兄ちゃんが一番好きなのは私だ私だ私だ私だ……お兄ちゃんは大丈夫大丈夫大丈夫……なんで、電話にでないのぉおおおおおおおおおおお!!」
ワンコールも待たずにスマートフォンを放り投げ、顔立ちに幼さを残す彼女は、自分宛のラブレターをハサミで細かく刻みだす。
「私はお兄ちゃんのもの私はお兄ちゃんのもの私はお兄ちゃんのもの……こんな汚いの要らない要らない要らない……」
ハサミが紙を切断する音が部屋に響き渡り、フッと淑蓮は顔を上げた。
「……迎えに行かなきゃ」
ふらつきながら立ち上がり、淑蓮は覚束ない足取りで外へと向かう。
「お兄ちゃんが、待ってるもん……行かなきゃ行かなきゃ……」
その行く先は、ひとつしかなかった。