俺には、愛が視えた
雲谷先生の部屋の壁。
一面に書かれた『アキラ参上!!』に二重線が引かれて、『マリア参上!!』に書き直されているのを確認して頷く。
「完璧だ……」
準備は整った。迷いはもうない。
アパートの外に出ると、水無月さんたちが待っていた。立ち尽くしている三人は、一様に俺を見つめている。ココにはいないひとりを加えて、八つの目が俺を見つめている。
彼女たちは、俺を信じながらも、俺を疑っているのだとわかった。
俺は、彼女たちを見つめ返す。
水無月結――かつて、さくら組に在籍し、俺に囚われた哀れな女性。彼女は、ただ、幸せを求めていて、そのためには俺が必要不可欠だと信じて疑わない。
その妄執は、愛とも呼ばれる。
桐谷淑蓮――俺の義妹。俺と同じタイミングで、実の父を亡くした。出会ったばかりの頃は、俺のことを疎んじていたが、依存を深めるにつれて離れられなくなった。
その縁故は、愛とも呼ばれる。
衣笠由羅――俺と出会ったばかりに、己の片割れを失った女の子。愛によって愛を失って、この現実に、新しい愛を抱いている。俺を介して、彼女は、きっと美しい世界を視ている。
その信仰は、愛とも呼ばれる。
フィーネ・アルムホルト――実の父親と俺を重ねて、取り戻せないものを取り戻そうとした。幼い頃から完璧を奏で続け、完璧で塗り固められ、完璧に演じ続けた彼女は、ようやく本来の恋心を取り戻した。
その回顧は、愛とも呼ばれる。
「…………」
俺と出会ったことで、この四人は狂った。
雷。雷だ。
俺との邂逅によって、彼女たちは雷に打たれた。美しき人生を歩む筈だった彼女たちは、その歩んできた半生に死を告げて、沼男として再生した。
愛おしくも美しき、愛に誑かされている。
狂愛の果実。女を唆したのは、男だった。狂わされたことで、愛を知ったことで、彼女たちの人生は破滅へと向かっている。
それは、繋がりだった。
ヒモのように伸びた細い繋がりが、地獄へと続いている。
俺から伸びている縁によって、結びつきが生まれ、誘蛾灯に群がる蛾のようにして愛をもたらされている。それは病的な毒だ。彼女たちは、普通ではない。このままでは、いずれ、“愛”で俺を殺すだろう。
――みんなの幸せが、私の幸せなの
目の前に、光り輝く糸が視えた。
撚り糸のように細く分かれたヒモが、俺から彼女たちへと伸びている。そのヒモは、ありとあらゆる場所へと結ばれ、きらきらと輝きながら、まだ俺が視たこともない誰かへと繋がっている。
俺は、ただ、誰かと繋がっているだけのヒモだった。
――なぜ、人は、愛なんて不定形なモノに縁を覚えるんだろうか
愛は不定形なモノだ。目には視えない。だから、証明出来ない。
だが、俺には、愛が視えた。
人間は、誰しもが、母親と臍帯で繋がって生まれてくる。それこそが、この世に愛があることの証左だ。誰も、ひとりでは生まれてこれない。誰かと繋がらなければ、生きてはいけない。
そして――産声を上げる前に、愛は断ち切られる。
だから。だからこそ。
――アキラくんを信じてるよ
この愛を、断ち切らなければならない。そこから、始める必要がある。
俺たちは、まだ、始まってもいない。
誰もが繋がって、誰もが断ち切られてから始まる。
だから、もう一度、雷を落とそう。
そして。
――しょーらい、せんせーに、しんじつのあいをささげます!
約束を果たそう。
誰も幸せには、ならないかもしれない。
誰も求めては、いないのかもしれない。
誰も信じては、くれないかもしれない。
それでも、俺は、この愛を掴もう。地獄の底に垂れた蜘蛛の糸に手を伸ばし、誰かを足蹴にしながら登ろう。落ちた先には、絶望しかなかったとしても、その手の中には愛が残る。
――みんな、私の子供たちだよ……私と渚くんの子供たち……
先生。
――みんなの笑顔が、永遠でありますようにって……
貴女が、教えてくれたんだ。
――先生、いつも、神様に祈ってるから……
だから、祈る必要なんてない。
――全員、しあわせになれるって
俺は、悪人だから祈れないけれど。
――みんなの幸せが、私の幸せなの
貴女の幸せは、俺の幸せだった。
――私は、私の意思で、アキラくんを愛していたよ
だから、ありがとう、母さん。
貴女の愛は、俺が証明するよ。
きっと、もう、貴女とは逢えない。俺が行くのは地獄で、貴女は天国で幸せそうに笑っている。
だから、伝言を頼む相手は決めている。
アイツなら、きっと、俺と同じ場所には行かない筈だ。俺の願った通りに、断ち切った縁を繋ぎ直すことはないだろう。だから、俺と一緒に地獄へと落ちることはなく、いつかは天国に行くだろう。
これから、俺は、らしくないことをする。
詳細は、アイツに聞いてくれ。たぶん、端役の婆さんになって、孫たちに囲まれながら死んで、笑顔でいやみったらしく語ってくれる筈だ。俺の隣に並べる普通は、アイツくらいのものだから。
だいじょうぶ、でもいつか、無理を承知で逢いに行くよ。
地獄に垂れた蜘蛛の糸を辿って、貴女に逢いに行く。
そしたら、貴女は、きっと笑いながら出迎えてくれる。
その時の俺は、地獄の亡者だ。腹を空かせているんだから、美味いものを食わせてくれるんだろ?
そうだな、例えば。
「オムライスが良い」
俺は、前を向いて踏み出す。
待ち合わせ場所には、雲谷渚の亡霊が立っていた。
彼女は、無表情で、俺を出迎える。愛想笑いひとつせずに、すべての縁を断ち切って、独り、孤独に立っている。
「愛なんてない」
「愛はある」
俺たちは、見つめ合う。
そこには、一筋の繋がりが視えた。
「桐谷彰」
「雲谷渚」
俺たちは、同時にささやく。
「「お前に、愛を教えてやる」」
そろそろ……幕を下ろそう。