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鉛の心臓は、残らなかった

 ――兄ちゃんの腎臓、この子にあげようと思うんだ


 兄さんの言葉には、裏も表もなかった。


「ど、どういう……意味……?」

「あん? ただの、臓器移植だよ。俺の腎臓、余ってるから、この子……従姉妹のアヤちゃんにあげようと思ってなァ」


 中腰。


 立ち上がりかけた私は、くらくらとする。目眩めまい。光源にたかった、哀れな羽虫になったみたいだった。


「従姉妹のアヤちゃんって……私、知らないよ……誰、それ……?」

「まぁなァ、親父と叔父さん、喧嘩しちまって絶縁状態だからよぉ。まァ、渚は知らなくて当然だろ」


 兄の差し出した写真に映る少女。


 微笑を浮かべる彼女は、あまりにも、か細い体つきをしていている。今にも、風に吹かれて、飛んでいってしまいそうだった。


「それって……手術、するんだよね……危ない、よね……なんで、そんなこと……会ったこともないような人に……」

「俺の将来の夢だからな」


 ――俺はァ!! 幸福な王子に出てくる王子様みたいにぃ!! みずからをかえりみずにぃ!! たくさんの人を助けたいでぇす!!


「誓ったんだ」


 兄さんは、心臓を押さえつけて微笑する。


「俺は、救われたから。救わないといけないんだ」


 ――絶対に、僕は、善い人間になってみせます


 兄さんは、脳死判定を受けた臓器提供者ドナーから心臓をもらって生きている。移植を望んだ男の子は、まだ小さな子供だった。彼はいつも戦隊ヒーローの人形を手に「正義の味方になりたい」と言っていたらしい。


 恐らく、いや絶対に、兄さんは未だにもっている。


 あの日、臓器提供者ドナーの母親から手渡された、大量の戦隊ヒーローの人形を。その手に抱いて、生きている。


「…………っ」


 やめて、とは言えなかった。


 兄の目に、穏やかな波が視えた。波音が聞こえてくる。どこまでも、静かで綺麗で、非の打ち所がない。


 正しいことは、いつも、反論をゆるさない。


「んな、泣きそうな面しなくても大丈夫だっての! なんか、あるわけでもねーんだしよぉ! 腎移植でドナー側が死ぬような事例は、今までに殆どねーんだから」

「べ、別に、心配なんか……」


 わかってる。わかってるよ。


 この世界に住む人たちは、奇跡を容易たやすく信じたりはしない。都合の良い救済は、間違いようもなく疑われる。嘘だと糾弾きゅうだんされる。そんなことが、なんの前触れもなく、起こったりするもんかと笑う。


 だが、その逆は? その逆は、どうだろう?


 当然のように、許容するのだ。簡単な手術が失敗してしまったとか、打ちどころが悪くて死んだとか、紛争で何万人も虐殺されたとか。この世で起きている理不尽を、誰もが我が物顔で受け入れている。


 この世界が、腐っている証左だ。


 誰もが気づいている。愛なんてない、希望なんてない、奇跡なんて起こるわけなんてないって。わかっているから、そうなっているんだ。


「渚」


 だから――


「将来の夢、きっと、叶えてくれよな」


 兄が、腎移植によって、合併症を発症したのは必然だった。




「兄さんっ!!」


 駆けつけた私の目に入ったのは、数多くの友人に囲まれている兄さんだった。


「よぉ」


 ベッドに横たわっている兄さんは、なんてこともないような顔つきで片手を上げる。


 汗だくの私は、唾を飲み込む。大勢の視線を浴びて、今更ながらに、恥ずかしさを覚え始めていた。


「オマエ、こんな可愛い妹さんが来てくれるなんて羨ましいじゃんか! 入院して、ラッキーだったな!!」


 耳にピアスを何十個もつけている学生が、兄の頭を片手で掻き回す。兄さんは、笑いながら、じゃれ合いを受け入れる。


「げ、元気……なの……合併症を発症したって……お母さんが……」

「ん? あぁ、大げさなんだよ。ピンピンしてるっての。抗生剤、ってもらってるから、明日にでも治っちまうわ」

「王子、倒れたって聞いてー、うちら本気で心配したんだかんねー?」

わりぃ、わりぃ、さっきから謝ってんだろ?」


 友人に囲まれて、笑っている兄を視てホッとする。何事もなかったのだと、自分を納得させて安堵する。


「そんじゃあ、妹さんに悪いから帰るわぁ。また、見舞いにくっから」

「おう、じゃあな」


 兄のことをからかいながら、彼らは退散していった。その中には、いかにも真面目そうな人や気弱そうな人もいた。誰も彼もが、過去に兄の手で救われて、恩義を感じているような人物だろう。


 ふたりきりになって、兄は、笑みを私に向ける。


「ありがとな、お見舞い。最愛の妹に来てもらえると、兄ちゃん、こう、ぶわーっと! 完治しちまった感じするわァ」

「……バカじゃないの」


 赤くなった顔を伏せながら、私は椅子に座る。本来であれば、もう、退院している筈の兄の腕には点滴の針が刺さっていた。


「どうよ、兄ちゃん、人望あんだろぉ?」

「私よりはね」

「ついさっき、モモも来てくれて桃をいて帰ってくれたんだぜ?」

「つまんない」


 沈黙が流れる。


 なぜ、私は、こんな時でも、兄に優しい言葉をかけてやれなかったのだろうか。勉強ばかりの日々を送っていて、兄の自由さにコンプレックスを感じていたから?


 違う。私には、なにもなかったからだ。


 ――(消去しました)


 私には、なにも。


「……アヤちゃん、来週、退院だって?」

「そうなんだよなァ! 術後の経過が、思ったよりも良かったみたいでよぉ! 術後の拒絶反応も感染症もなし! しばらくは免疫抑制薬やら飲み続けて、通院もしねぇといけねーけど、もう透析とはおさらばだ!」


 本当に嬉しそうに、顔を輝かせた兄は言った。


 私が頷くと、兄さんは、顔を伏せてささやく。


「週に3,4回、一回に4~5時間……あんな小さな子が、ずっと耐えてきたんだ……まともに学校だって行けもしねぇ……友だちだって、まともに作れない……ただ、痛くて辛い日々が続く……それが、永遠かもしれないだなんて信じられるか……」


 透析による患者の負担は、想像を絶している。その上、心不全や脳血管障害、感染症による死亡例は枚挙まいきょいとまがない。常に、死に怯える生活だ。


 だからこそ、兄は救おうと思ったのだ。両親の反対を押し切ってでも。


「実はな、アヤちゃんから、手紙をもらったんだ」


 兄の言葉で、意識が浮かび上がる。


「まだ、安静にしてなきゃいけない時期に……本当にわりぃよ……」


 母親に代筆してもらったのだろう。そこには、拙い文章で、感謝の言葉がつづられていた。文面だけでも、感情の波が、こちらにまで伝わってくるようだ。


「良かったね」


 私は、そっぽを向いてつぶやく。


「救えて」

「……あぁ」


 兄さんは、深く頷いて……ふと、思い出したかのように、枕元へと手を伸ばす。


「ん」


 そして、私に一冊の本を手渡した。


「『幸福な王子』……」


 それは、兄が大好きだった本。私が大嫌いな本。


 美しい表紙に見惚れていると、兄の手が、ゆっくりと、私の頭を撫でる。


「渚」


 私は、拒絶せずに、なすがままに任せている。この一時だけ、かつての仲良しだった頃に戻れた気がした。


 素直な私で、いられた気がした。


「がんばれよ」


 急に、力が抜け落ちる。


 兄が合併症を発症したと聞いて、居ても立っても居られなくて、がむしゃらに走ってきたから。張り詰めていた感情が、兄の温かさに触れて、ときほぐれて。


 涙が、こぼれ落ちる。


「なんで……そういうこと……言うの……わた……私……お兄ちゃん、死んじゃうとおもって……は、はしって……はしってきたのに……なんで……お、おなかきったのに、ひとのことばっかりなの……!」

「ごめんな」


 やさしく、やさしく、撫でられる。


「兄ちゃん、バカだから、ひとつのことしか考えられねーんだ」


 どんどん、どんどん、涙が流れ落ちる。


「渚と会っちまったから……今は、渚の幸せしか、考えられねーんだよ」


 ――渚


 夕暮れ。


 迷子になった私のことを、兄さんは、必死に探してくれた。見つけ出してくれた時には、汗まみれだった兄を思い出す。


 ――帰ろう


 あの時の、やさしい手のひらを――思い出す。


「ごめんな……渚……ごめんな……」


 いつも、謝ってばかりの兄に、私はなにも言えなかった。




 兄の症状が悪化した。


 両親と一緒に、私も先生から説明を聞いた。でも、話の内容はよくわからなかった。抗生物質の点滴治療がどうとか、生体腎移植の歴史は浅いから、未知の合併症が発症していてもおかしくはないとか。


 ともかく、兄は、高熱を出して面会謝絶となった。


 ようやく、面会が許されて、病室に入ると――


「……よぉ」


 そこには、もう、『王子様』はいなかった。


 真っ白いベッドの上で、くだに取り囲まれている兄は死人のようだった。かつての美しかった面影はまるでない。痩せこけた頬は髑髏の形を描き、枯れ枝のようになった腕は、ぷるぷると震えていた。


 そこには、明確なる“死”があった。


「…………」

「ごめんなぁ……渚……こえぇだろ……む、無理に会いに来なくていいから……に、兄ちゃん、オバケみてぇだろ……」


 言え、言え、言えっ!!


 怖くないと言え!! 怖くないと言えよ!! なぜ、言えないんだ!! どうして!? どうして、お前は、言えないんだよっ!! なぜ、兄の言って欲しい言葉を言えないっ!! なんで!?


「…………」


 なんで……お前は……言えないんだ……どうして……


「……なぎさ」


 ぼうっと、入り口で突っ立っていた私を、兄は哀しそうな目で視ていた。諦めきったかのように。仕方がないと笑いながら。


「食っても……吐いちまってな……胃に……はいっていかねーんだ……」


 私は、話題を探すかのように目をさまよわせる。


 そして、そこにいる筈の者がいないことに気づいた。


「……お、お友達は?」


 私は、兄には近づこうとせずに、引けた腰のままで立っている。私と一緒に、空いた椅子が、物悲しそうに立たされていた。


「……忙しいんだ」

「だ、だって!! い、今まで、お見舞いに来てくれてたのに!! な、なんで!? 面会日の初日だよ!? 急にどうして!?」

「…………」

「あ、アヤちゃんは!? 退院前に、わざわざ、挨拶に来たんでしょ!? あの子は!?」


 兄は、ただ、微笑を浮かべる。


「だいじょうぶだ……モモも……なぎさも来てくれた……」

「だ、大丈夫じゃないよ!! ぜんぜん、大丈夫じゃない!! なんで、みんな、来てくれないの!? どうして!?」


 症状の改善には、患者の気力が不可欠だ。


 先生の言葉を思い出し、私は、思わず声を張り上げている。みんなが兄の退院を心待ちにしていると知れば、病気が、どこかへ吹き飛んでしまうと信じていた。


 そう、くだらない――愛の力ってヤツだ。


「なぎさ……せ、せっかく来たんだ……モモがもって来てくれた果物でも食べ――」

「わ、私!! は、話してくる!! こんなのおかしいよ!!」

「な、なぎさ……」


 私は、病室を飛び出す。


 そう、バカだから。兄がなにを求めていたかも知らずに。


 バスを乗り継いで、私は、顔と名前をおぼえていた兄の友人に会いに行く。丁度、着いた頃には放課後で、門扉もんぴの前で捕まえることが出来た。


「はぁ? 王子の見舞いに行かない理由?」

「そ、そうです……な、なんで来てくれないんですか……ま、前は来てくれてたのに……!」

「いや、今日は平日だろ。行けねーよ、学校あるし」

「だ、だったら休日に!」


 彼は、迷惑そうにため息をく。


「無理だって! オレ、バイトあっから! それに、王子、ずっと入院してんだろ? いつまで、お見舞い行かなきゃなんねーわけ? 一生? たかが、一回、助けてもらったくれーで、そこまで出来るわけねーだろ」

「で、でも! 今、症状が悪化していて!!」

「わかったわかった!! 行く行く!! 気ぃ向いたら行くから!!」


 そう言って、逃げるように彼は去っていった。


 リストに記載しておいた、彼の名前に線を引く。めげずに、私は、次の人に会いに行った。


「え……お、王子くんの病院に行かない理由ですか……?」

「は、はい。なんでですか?」


 地味な風貌をした少女は、困ったように顔をしかめる。


「試験勉強がありますので」

「あ、兄は、今、死にかけてるんですよっ!? 試験勉強と人の命、どっちが大事なんですか!?」

「そ、そんなこと言われても……お、お母さんに怒られますし……それに、他の方はどうなんですか……?」


 言葉に詰まると、彼女は、勝ち誇ったかのように微笑んだ。


「私だけ責めるなんて、おかしいじゃないですか。みんな、王子くんのお見舞いに行ってるって言うなら考えますけど」

「そ、そんな! 他人ひとが行くから、貴女も行くんですか!? お兄ちゃんがいなかったら、今でも、貴女は虐められてたんでしょ!? 恩人だって、泣きながら、言ってたじゃないですか!!」


 彼女は、苦笑する。


「昔の話でしょ」


 唖然あぜんとする。


 目の前の存在が、いびつにゆがんで、ぐんにゃりとねじ曲がる。今まで、視えていた虚像が、景色にかすんで消え去った。


「それじゃ、私、塾の時間なので。王子くんによろしく」


 私の横を、早足で彼女がすり抜けていった。


 ただ、私は、呆然とその姿を見送った。




 アヤちゃんなら、アヤちゃんなら大丈夫だと自信があった。


 なにせ、今回の腎移植で救われたのは彼女だ。当本人が、お見舞いを拒否するわけがない。それに、あんな情熱的な手紙を書く人なのだから。


 私は、新幹線に乗って、彼女が住んでいる街にまで足を運ぶ。


「え? わたし?」


 そして、呆気なく、友人と遊んでいた彼女を見つけた。


「つうか……誰、あんた……?」


 制服姿のアヤちゃんは、まるで、以前は病人だったとは思えないくらいに回復していた。ピアスと腕輪をつけた彼女は、制服を着崩していて、愛らしい顔立ちだけはそのままに、別人になったかのようだった。


「雲谷渚です。妹の」

「あぁ! 腎臓くれたお人好しの!」


 なぜか、言葉が引っかかる。どこか小馬鹿にするようなニュアンス、私は、どうにか笑みを崩さずに済んだ。


「今日は、アヤさんにお願いがあって……」

「え、今、友だちと遊んでんだけど。明日じゃダメ? それ?」

「わ、わざわざ、新幹線に乗ってきたんですよ、わたし……?」

「は? だから?」


 威圧的な物言いに、私は、ぐっと力を入れてこらえる。


「兄の……お見舞いに来て欲しいんです……」

「え? 行った行った。ママがうっさいから、退院の時に一回、ちゃんと行って頭下げたよ。なに、腎臓代、それじゃ足りないの?」


 彼女は、スマホをいじりながら、こちらと目を合わせようともしない。うっとうしいハエを、払うかのようだった。


「そういう態度は……ないんじゃないですか……兄は、貴女に腎臓をあげたせいで苦しんでるんですよ……一回、行ったからどうだって言うんですか……あんな苦しい日々から救ってくれた人に報いたいとは思わないんですか……」

「最初は思ったよ。でも、もう、治っちゃったし」


 あっけらかんと、彼女は言った。


 その瞬間に、理解する。いや、理解させられる。この女に、なにを言ったところで、無駄だということに。


 ――いつまで、お見舞い行かなきゃなんねーわけ?


 もう。


 ――昔の話でしょ


 知っていたから。


「……せめて、手紙だけでも書いてもらえませんか」

「いーよ。“また”、ママに書いてもらうから」

「…………は?」


 信じがたい言葉に、私は、呆けた声を漏らす。


「え? なに? アレ、わたしが書いたとでも思ってんの?」


 彼女は、フリック操作を行いながら笑う。


「んなわけないじゃん。そんな、めんどくさいことしないって。ちっちゃい頃から、あたしが苦しいとか痛いって言ってれば、めんどくさいことは、みーんな周りがやってくれたんだから」


 せせら笑いながら、彼女は言った。


「だから、あんたのお兄ちゃん、あたしに腎臓くれたんでしょ? 顔、タイプだったから、び売っといたけどラッキーだったよねぇ」

「……ど、どういう」

「でも、ざ~んねん。ママから写真、送ってもらったけどさぁ、今の王子様、あーんな顔になってんだもん」


 笑みをたたえたまま、彼女は、私にスマホの画面を見せつける。


 そこには、彼女の母親と兄が映った写真があった。痩せこけて、死にかけている兄が、必死に笑顔を浮かべている。


 きっと、アヤに見せるからと聞いて、少しでも元気に視えるように頑張ったのだろう。苦しみの最中にあっても、兄は、彼女を想う心を忘れなかった。


「ほんと、キモいよねぇ」


 アヤは、ケラケラと笑いながら言った。


「クラスのみんなにも見せたけどさぁ、みんな、キモいキモいって言ってたよ。よく、こんな顔、見せる気になったよね。少しは隠せよ。やっぱ、他人に腎臓あげるような人って、どっかおかしいのかなぁ。

 まぁ、その妹が、わざわざ文句言いに来てる時点で、頭おかしいのは確定な――」


 私の拳が、彼女の顔面に突き刺さる。


 どしんと、尻もち。後ろに倒れた彼女は、自分の鼻から血が垂れ落ちているのを視て、ぽかんとした表情を浮かべている。私は、遠慮なく、その顔面に体重をせた蹴りをくれてやる。


「ぁ、ぁあ~! い、いだ!! いだぃ~!! ぁあ~!! は、歯ぁあ~!!」


 前歯がとれて、彼女の両手に転がった。


 泣きわめいているアヤの腹に乗って、腫れ上がっている右手を振りかぶる。


「ひっ!」


 アヤが頭を振ったせいで、打ち下ろした拳が外れて、コンクリに打ち付けられた。皮が破れて、骨がのぞく。痛みは感じない。ただ、凍てつくような怒りが、全身を支配している。


「もう、死ねよ……」


 私は、彼女を睥睨へいげいする。


「お前ら……もう、死ね……跡形もなく、消えろ……」


 再度、振りかぶって――押さえつけられる。


 騒ぎを聞きつけた大人たちに押さえ込まれ、私は、もがきながら泣きじゃくっていた。




「……渚」


 数日後、拳の皮が破れたくらいで済んだ私は、兄の病室を訪れていた。


 哀しそう顔で、兄は、私を見つめる。


「なんで……あんなことした……?」

「…………」

「渚」

「…………」

「なぎ――」

「間違ってるのは、アイツラでしょぉ!?」


 私は、泣き叫ぶ。


「なんで!? なんで、文句のひとつも言わないの!? あ、アイツらが!! アイツらが間違ってるのに!! あんなヤツら、死んで当然なのに!! どうして、お兄ちゃんが苦しむの!? どうしてっ!!」

「俺が、それを望んだからだ」


 しゃっくり声を上げながら、私は、ベッドの上の兄を見つめる。


「俺は……ただ、彼女たちを利用しただけだ……独善的な救済だよ……見返りなんて求めちゃいない……アヤちゃんが、どんな子だろうと……俺は、同じ道を選ぶ……救わないといけないんだ……」

「なんで……?」


 初雪が降る。


 その年、初めての雪が降っていた。どこまでも、続いている寒空は、なにかの終焉を思わせる。


 窓の外で、粉雪が舞い落ちて――兄は、笑っていた。


「誓ったから」

「心臓を、もらったからって……そんな……」

「それだけじゃねーよ」


 兄に、手招きされて、私はゆっくりと近づく。


「ただ、俺は、良いお兄ちゃんになりたかったんだ」


 笑顔の兄は、両手を広げる。私は、そこに吸い込まれる。


「お前にとっての……良いお兄ちゃんに……」


 抱きしめられる。


 兄の痩身は、骨が浮き上がっていて、ゴツゴツとしていた。でも、そこには確かにぬくもりがあって、久々の抱っこが嬉しかった。


「……お兄ちゃん」


 私は、笑いながら、彼に遊園地のチケットを手渡す。


「治ったら、一緒に行こ」


 余程、意外だったのか、兄は呆然としていた。だが、そのチケットを受け取った時には、笑っていた。


「あぁ……約束だ」


 そのぬくもりに身を預けて――いつの間にか、眠ってしまっていた。


 目が覚めた時、まだ、病院にいることに気づいた。


 ベッドの中にいたせいで、巡回の時にバレなかったのだろう。どさくさ紛れに泊まってしまえばいいやと思って、私は、兄に抱きついて――その熱に、ぞっとした。


「お兄ちゃん」


 起き上がった私は、高熱でうなされている兄を見つける。


「ごめんな……ごめんな、渚……ごめん……ごめんな……バカな兄ちゃんで……いやだ……渚を残して……し、死にたくない……たのむ……おねがいだ……たのむ、神様……渚が……渚が……」

「お兄ちゃん!! お兄ちゃんっ!!」


 ナースコールを押すことすら忘れて、私は、必死に兄を揺さぶる。


 目を覚ました兄さんは、うつろな瞳でこちらを見つめた。


「渚……」


 なにかを悟ったかのように、兄は微笑んだ。


「お、お兄ちゃんな……幸福な王子にも……正義の味方にも……なりたかったんじゃないんだ……そ、そんなものになるために、がんばったんじゃない……いつも……いつも、俺は……ようやく、気づいたんだ……」

「す、すぐに人を呼ぶから!! お兄ちゃん、大丈夫だから!! お兄ちゃん!!」

「お、俺は……」


 兄は、満面の笑みを浮かべる。


「渚の……格好良いお兄ちゃんでいたかったんだ……」

「い、いやだ……お兄ちゃん……い、いやだ……いやだいやだいやだ……」

「な、渚と違って……に、兄ちゃん、バカだから……そ、そんなこともわからずに……じ、腎臓あげて格好つけたんだ……そ、そんなことしなければ……ば、バカ、死ぬな……渚を置いて……た、たのむ……やめてくれ……し、死にたくない……お、俺は、ただ、渚のために……」

「お、お兄ちゃん!! だ、誰かぁあああああああああああ!! 誰か、たすけてぇええええええええ!! 誰か、誰か、たすけて!! だれかぁああああああああ!! たすけてぇえええええええええええええ!!」


 声を張り上げる。どこからか、足音が近づいてくる。


「渚と一緒に……遊園地に……か、観覧車……かんらんしゃにのろう……ふたりで……ふたりで、いっしょに、ゆうぐれを……なぎさ、さむいよ……どこに……どこにいるの……なぎさ……なぎさ……」

「お、おにいちゃん!! ココに!! ココにいるよ!! おにいちゃん!! こ、ココにぃ!! ココにいるから!! おにいちゃん!! おにいちゃん!!」

「あぁ……なぎさ……そんなところにいたのか……」


 兄の目が、宙空を捉える。


「なぎさ……」


 幸せそうに、兄は、空へと手を伸ばし――


「かえろう……」


 落ちた。


 駆け寄ってきた医師と看護師が、私を兄から引き離す。


「いやだぁああああああああああああああ!! いやだいやだいやだぁあああああああああああ!! いやだぁああああああああああああああ!!」


 泣き叫びながら、私は、必死に手を伸ばす。


 兄の手を。兄の手をとらなければなかった。ひとりで行かせるわけにはいかなかった。私は、一緒にいたかった。


「いやだぁああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 でも、私は、その手をとれなかった。




 臓器移植者ドナー登録を行っていた兄の臓器は、ほとんどが誰かの身体の中で、生きていくことになった。


 ただ、貰い受けた心臓だけは、胸の中に仕舞われたままで。


「…………」


 火葬炉の中に、鉛の心臓は残らなかった。


 ただ、燃えて、灰になっただけだ。その傍らには、ツバメもいなかった。


 ――渚


 ツバメは、王子と一緒に楽園には行けず、世界(ゴミ溜め)に取り残された。ただ、偽りの心を抱いて、生きていくことを強制される。


 葬儀には、アヤも参列していた。


 最初は、暇そうにあくびをしていたが、私の出で立ちを視てからは姿勢を正していた。葬儀の間、彼女は怯えきっていて、母親にくっついて離れなかった。


 誰もが、私を視ていた。


 短髪にして兄の制服を着た私のことを、哀れみの目線が貫いていた。


「  ちゃん」


 火葬場の外で、かつての私を呼ぶ声がする。


 もくもくと、青空にたなびく煙が、目にしみる気がした。胸ポケットに入れたタバコを取り出し、私は口に咥える。


「渚」

「……え?」

「私の名前は、渚だよ。モモ姉。最初からそうだった。モモ姉と会う前から、私は、“渚”だったよ」

「……そういうことにするのね」

「そういうことじゃない。最初から、そうだったんだ」

「自分の記憶を改ざんしても、貴女は、彼にはなれな――」

「雲谷渚は死んだ」


 ポケットに両手を突っ込んで、私は、突き抜けるような蒼穹そうきゅうを見上げる。その蒼さに目が痛くなって、涙がこぼれ落ちる。


「愛なんて、この世にはない……誰も救ってはくれなかった……このゴミ溜めの中で、どうやって生きろって言うんだ……ただ、兄のあかしを……お兄ちゃんが生きてた証拠が欲しい……アイツらは、一度も、兄の名前を……『渚』なんて呼ばなかった……鉛の心臓は残らなかった……」


 髪の隙間から、涙が流れ落ちる。


「私は……ツバメになれなかった……」


 風が、吹き抜ける。


 モモ姉の掠れた泣き声が、どこか、遠くから聞こえてくる。


 いつまでも、どこまでも。


 消えかけの鎮魂歌レクイエムが、響き渡っていた。

別作品の宣伝となってしまい申し訳ありませんが、拙作の『外面だけは完璧なコミュ障冒険者、Sランクパーティーでリーダーになる』が書籍化いたします。


もし興味がある方がいれば、作者とまとすぱげてぃページの活動報告にて、詳細情報を公開しておりますのでご確認ください。


よろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 実際馬鹿だろ。ていうか止めてやれよ。諸悪の根源モモさんだろ……
[一言] 重い・・・あまりにも重い・・・ 読んでてうひゃあ…と声が出そうでした。 王子の理解者であるツバメという存在がお兄さんにいなかったのが辛い・・・
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