雲谷 くん
「……降ってきたな」
曇天の空から、雨粒が落ちてくる。
澄み渡っていた晴天は、脈絡のない悲劇を気取り、空模様を変えて泣き始めた。その泣き顔は、灰色の分厚い雲で隠されている。
人間は無力で、明日の天気すらもままならない。たったひとりの個人が、世界を変えようたってそうはいかない。幸福な王子は、自己も他者も犠牲にした挙げ句、なにもしなかった傍観者に救われた。
俺の住む世界に、優しい傍観者はいない。
――私は……いったい、なにを……なにをしたいんだろうな……桐谷……私は……いったい、なにを……
遺されるのは、ゴミ溜めに沈んだ心臓と死骸だけだ。
あっという間に、俺の頭から足先まで、ぐっしょりと濡れる。Tシャツが、グレー色に染まってゆく。冷え切った全身が、熱を求めていても、今更ながらに引き返すわけにもいかなかった。
そして、俺の足が止まる。
どしゃ降りの中、突っ立っている人がいた。
「……お前」
雲谷先生の隣人、俺を尾けてきていた女。
長い黒髪で顔を隠している彼女は、片手にビニール袋をぶら下げている。雨に濡れた袋の底から、ぴちょぴちょと、赤色の液体が漏れている。漏れ出している赤色は、水たまりに溶け込んで、薄色ににじんでゆく。
そのビニール袋は、ちょうど、人の頭くらいに膨らんでいた。
「…………」
俺は、無言でスマートフォンを取り出し――
「雲谷てんてー!! やばい!! やばい人が目の前にいる!! たしゅけて!! ウーウー!! ウーウー!! エマージェンシエマジェンシ!! ヤンデレ警報が、頭の中に鳴り響いてて止められないの!!」
「はぁ? 桐谷、お前、トイレに行――」
目の前に、女が立っていた。
吐息がかかる距離。腹に、なにか突き立てられている。
「ぐわぁああああああああああああああああああああああ!! さ、刺されたぁあああああああああああああああああああ!! いやぁあああああああああああああ!! 俺殺しぃいいいいいいいいいいいいいい!!」
「き、桐谷!? おい、桐谷!? 今、どこにいる!?」
俺は、今いる場所とは見当違い、適当な住所を言って電話を切る。
「で、なんの用?」
刃を仕舞っているカッターナイフ。俺の腹に対して、垂直に立てられているソレを見つめる。
彼女は、無言で、ビニール袋を開き――そこには、俺の首が入っていた。
「……に、兄さん」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
双子の兄がいる設定で、攻めてみたものの、俺には双子の兄がいなかった。
とりあえず、ビニール袋を蹴り飛ばしてみる。宙に袋が浮き上がった拍子に、俺の首がこぼれ落ちる。
「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
俺は、自分の首をドリブルして、その場からの離脱を図る。無言を貫いている女は、我が物顔で俺の首を拾い上げて、ディフェンスをした。
「…………」
ピピーッ!!(イエローカード)
冷静になって、よくよく見てみると、それは俺の首を模した作り物だった。血に視えるソレも、血糊の類だろう。あまりにもよく出来ていて、パット見では、ホンモノと見間違うようなレベルだ。
「警告のつもりか?」
「…………」
「お前、一体、何者な――」
ふわりと、制汗剤の香りがする。
抱き締められている。柔らかな膨らみが胸元に当たり、心地の良い暖かさが俺の全身を包み込む。
その瞬間――俺は、気づいてしまった。
「お前……なんで……」
そっと、耳打ちされる。
数分の邂逅を経て、俺は、彼女を突き放すようにして離れた。
「そう簡単に、俺を殺せると思うなよ? 覚悟は、出来てるのか?」
「…………」
「……お前のつもりじゃなかったんだがな」
俺は、彼女の手からメモを受け取る。
「殺せるもんなら殺してみろよ」
返事はない。
ビニール袋に俺の首を入れ直して、彼女は立ち去っていく。
ゆっくりと、歩き去る彼女を見送って、俺は降りしきる雨を見上げた。
「……悪いな、先生」
俺は、つぶやく。
「たぶん、俺、卒業出来ないよ」
目的地に向けて、俺は走り出した。
「あらぁ、アキラくん!」
老人ホームに戻った俺を、介護職員の方々は笑顔で出迎えてくれた。
中年女性と老年女性に囲まれて、タオルで頭を拭かれる。見舞いの品らしいジュースを受け取り、足を組んで椅子に座ると、お菓子をダース単位でもらえた。
「なんだか、警報が鳴っちゃって、災難だったわねぇ……それで、どうしたの?」
「貴女を口説きに舞い戻ったんですよ、ミセス」
「やだぁ~!!」
適当なジョークで、ココまで歓待される。若いって素晴らしい。
「すみません、冗談です。
警報機を鳴らしてしまった謝罪ついでに、ちょっと、お話を伺わせて頂きたいことがありまして」
「スリーサイズは、上から、88-62-89よ」
最近のドラム缶って、偽称までするんだ……
「『雲谷』って名字に、聞き覚えがあったりしませんか?」
「あぁ、アキラくんの彼女さんも聞いてたわねぇ……彼氏のためなのか、張り切ってて可愛らしかったわぁ……」
よし、録音完了! マリアが生意気言ったら、コレをヤンデレ共に流せばイチコロだね!
「いや、実はね、さっきの警報! さっきの警報で、思い出したのよぉ! そう言えば、『雲谷』って名字の男の子が、アキラくんみたいにボランティアで来てくれてたって! みんなで、思い出話をしてたんだから!」
――AFC記憶
AFC記憶……音に対する恐怖と記憶の、関連付けのことをそう呼ぶらしい(きちんと調べた、桐谷彰くんは偉い)。
今回で言えば、警報音によって引き起こされた恐怖が、介護職員たちの脳を刺激し、過去の記憶を呼び覚ました。水無月さんとフィーネは、それを狙って(本当の狙いは、俺を連れ去ることだが)、警報機をわざと鳴らしたんだ。
「前に、ココで、ボヤ騒ぎがあってねぇ。ボランティアに来てた彼が、おじいちゃんおばあちゃんを背負って、避難誘導してくれたのよぉ」
介護職員のおばさんは、興奮で顔を赤らめる。
「煙がもくもく~って、すんごく出てる中で。ボヤかどうかもわからない時に、何往復もしてんたんだから。汗だくで必死に、逃げ遅れた人がいないか、全員の顔を確認するまで、何度も煙の中に突っ込んでったのよぉ」
そりゃすごい。赤の他人のために命を懸けるなんて、正気とは思えない。
「みんな、下の名前で呼んでたから、『雲谷』って名字に聞き覚えがなかったのよねぇ……前のボヤ騒ぎの話になって、ようやく、名字を思い出した人が出てきたのよぉ。ごめんなさいねぇ」
「いえ、別に。
出来れば、彼と連絡をとりたいんですが、連絡先を知っている方は――」
全員、静まり返る。
申し訳無さそうに、顔を伏せている彼女たちを見て、俺はなにが起こったのかを知った。言外に、雲谷先生もモモ先生も、その事実を示していた。今更、おどろくようなことでもない。
「詳細を知っている方はいますか?」
「よく出来た妹さんが、事の次第を話してくれたからねぇ。大体は」
「教えて頂けませんか? 俺がまだ小さい頃に、彼にはお世話になったので、どうしても知りたくて」
俺の嘘に、彼女たちは顔を曇らせる。
「妹さんの連絡先も知らないし……わかったわ。教えてあげる」
「ありがとうございます。
では、彼の――」
「えぇ、“渚くん”の話よね」
俺は、息を呑む。
「……今、なんて?」
「え?」
顔を見合わせて、彼女たちは同じ言葉を吐いた。
「雲谷……渚くんでしょう? 名前、間違えてたかしら?」
――雲谷渚は、既に死んでいる
俺は、ただ、呆然として――ポケットの中の、レシートを握り締めた。
活動報告にて、雲谷先生の簡単なプロフィールを公開致しましたので、興味のある方は是非読んでみて下さい。よろしくお願いします。