誰かに して生きていきなさい
「渚を助けて欲しい」
懐かしい声がする。
電話口から、聞こえてきた郷愁……モモ先生の呼びかけに、俺は、ちらりと雲谷先生を瞥見する。
「……繋がってきましたよ」
俺は、つぶやく。
「渚って、男じゃなかったんですね。
時々、なぜか、雲谷先生が俺のことを弟みたいな目で視るから……それに、フィーネの別荘で、一度、俺のことを『アキラ』と呼びましたしね」
「アキラくん」
「別に怒っちゃいませんよ」
俺は、外に出る。
雲谷先生が追いかけて来ないのを確認し、階段を下りていった。
「逮捕された後、俺への接近禁止令が出ていたんでしょう? 週刊誌におもしろおかしく書かれたせいで、俺が貴女の自宅を訪ねた頃には、既に罵詈雑言の落書きだらけで、まともに人が住める状態じゃなかった」
「急にいなくなって、ごめんなさい」
「迎えに行きます」
俺は、スマホで時間を確かめる。
「今、どこに?
俺は、貴女には恩がある。それを返す必要があるんです。いや、返さなきゃ気が済まない。借りは十倍にして返す主義なんでね」
「ごめんね、アキラくん」
本当に申し訳無さそうに、先生は言った。
「先生、病気なの。だから、アキラくんとは、もう逢えなくなると思う」
まるで、子供に言い聞かせるみたいに、先生は言った。
「……なんで、今なんですか?」
「もう、私では救えないから」
最下段に腰を下ろして、俺はこめかみを擦る。
「産みの母は、俺を産んで直ぐに死にました……その後、俺は、なぜか一部の女性から異様なまでの執着を受けるようになって……便宜的にヤンデレと呼んでますが……貴女は、そういう類の人間とは違った……そういった女たちから、俺を保護するために、“監禁”という手段を選んだんじゃないですか……?」
「…………」
「フィーネ・アルムホルトは、雲谷先生を知っていた。渚が先生だとしたら、俺を監禁していた時に起こった、“小競り合い”の相手は、フィーネだったんじゃないですか? 朧げにしか覚えてないが、貴女は、なにかと敵対して俺を守っていた。
そうでしょう?」
答えはない。らしくもなく、俺は焦燥感を覚える。
「先生。俺は、大概、ふざけたヤツだが、受けた恩だけは忘れない。貴女がもうすぐ死ぬというのなら、その前に、貴女の願いを叶えてやる必要がある。
だから、教えてください。貴女は、あの時、なにを考えていたんですか? なぜ、もう一度、逢いに来てくれなかったんですか?」
「25人」
「……え?」
「私の担当していた『さくら組』の子供たちの中で、今後の人生を、幸せに生きられると“確定”した子たちの人数よ」
静かな語り口を前に、俺は、おふざけなしに黙り込む。
「でも、あと3人……あと3人、幸せにしてあげたい子たちがいる」
脳裏に閃光が瞬いて、すっと、すべてが明らかになった。あたかも、最初から、そうであったかのように胸に染み込み理解する。
「水無月さんとフィーネ」
俺は、ささやく。
「そして、俺ですか」
「うん、そうよ。
でも、フィーネちゃんは、もうだいじょうぶ。渚の計画通りにアキラくんが、救ってくれたから……私が演じていた、偽物の父親はもういらない。彼女が、自死を選ぶ可能性は、ほぼ0になったと言ってもいい」
「貴女は」
強烈な頭痛と吐き気に苛まれながら、電話口にささやく。
「貴女は……あの幼稚園に通っていた……貴女が面倒を視ていた28人を、全員、幸せにするつもりですか……」
「だから、アキラくんを監禁した。
あの頃のフィーネちゃんは不安定で、あのままアキラくんを渡していたら、ふたりとも壊れてしまっていたから」
バカげてる。
なにをもって、この女性は、俺たちが幸せに生きていけると判断しているんだ。ひとりひとり、不安要素をすべて潰しきって、その可能性を限りなく高めようとでも言うのだろうか。
たかだか、一年間、面倒をみていた子供を救うために……牢屋にぶち込まれて、周囲の人間から蔑まれ、孤独に死に絶えようとしていると言うのか。
この女性は……狂しい。
「貴女に面倒を見てもらわなくても、俺は勝手に幸せになりますよ」
「22,000,000,000,000,000,000,000,000分の1なの」
意味不明な回答に対して、俺は沈黙を返す。
「生きている間に、七回も落雷に遭う人間もいる。その確率は、22,000,000,000,000,000,000,000,000分の1」
「どういう、意味ですか?」
「目線、匂い、身体つき、癖、嗜好、容姿、産毛の本数……人間は誰しも、存在するだけで、外部に誘引情報を垂れ流す」
――アキラくん、あなたは
頭が。
――誰かに して生きていきなさい
痛い。
「アキラくん、あなたの発している特殊な誘引情報は、特定の女性の受容体を刺激してオキシトシンを誘発させる。脳内ホルモンを分泌させる、個々人の受容体の数は遺伝によって決まるけれど、あなたのその特殊な誘引情報は、受容体の数に関わらず愛情ホルモンの過剰分泌を促すの」
「……つまり?」
「あなたは、存在しているだけで――」
彼女は、ささやく。
「生涯、狂愛を創り続ける。
アキラくん、あなたは22,000,000,000,000,000,000,000,000分の1の特殊例よ」
ジドウヤンデレセイセイキ、アキラクンダヨ! シヌマデ、ヤンデレヲツクリツヅケルヨ!
「だから。だからね。
アキラくん、あなたは」
彼女は、聞き覚えのある、セリフを言った。
「誰かに恋着して生きていきなさい」
なるほど。
――誰も選べなかったら、私のことを選べ
そういうことか。