盤面の重量を、彼はまだ知らない
「……どういうつもりですか?」
「ひゃぁん!!」
突然、背後から声をかけられて、セクシーボイスを発してしまった。
振り向くと、衣笠由羅が、淀んだ瞳を俺へと向けている。ちょっと煽ったら、臨界点を超えてしまいそうでドキドキした。
「フィーネ・アルムホルトに……『俺たち、結婚しよう』と言いましたよね……どういう……つもりですか……どういう……?」
「座れよ、説明してやるから」
近くにあったレコードプレーヤーを動かし、適当な洋楽(男性歌手のレコードしかないのが怖い)をかける。
フィーネの目(執事たち)がないのを確認してから、由羅を隣に座らせた。剣呑な殺気を放っている彼女に、納豆パックを差し出す。
「まぁ、一服しろよ。ほら」
「え……それ……な、納豆、ですよ……?」
日本人は、休憩時間に納豆で一服するんだが……? 大半の会社には、喫豆室があるのを知らんのかコイツ……?
「朝から、執事連中と過ごして気づかなかったか?」
「な、なにが……ですか……?」
「別荘の様子だよ」
通りかかった執事の背中に、納豆のフィルムを貼り付ける。
「今まで、一度も見かけたことのない連中が、別荘内に立ち入ってただろ? アイツらは、俺の名前を知ってて『主役だ』と呼んだ。しかも服の採寸までした挙げ句、花束やドレスを手配して、料理の品評までしていた。
どういう意味か、わかるか?」
答えようとした由羅を制し、俺は正答を提示する。
「フィーネは、俺との、結婚式の手配をしていた。以前に、式場をハワイにしたいと言っていたし、十中八九、間違いない。
無理矢理にでも、俺を手篭めにするつもりだ」
「いや、あの……で、でも……」
「お前の言いたいことはわかる。なぜ、俺のほうから、わざわざ罠にはまりにいくような真似をしたんだってことだろ?
盤面をひっくり返すには、必要な一手だからだ。フィーネは、既に俺の術中にいる。予想外の手を繰り出し続ければ、アイツの支配している遊戯は根本から崩れ落ちるからな」
「あ、あの……で、でも……」
「動揺だ」
俺は、口端を曲げて言う。
「今のフィーネは、機械に近い。感情を排して最善手を打つだけの、遊戯機械だ。だが、ヤツの動揺を引き出し続けられれば、いずれは失敗を吐いて、勝手に人間へと戻る。
その時、その機、その瞬間――俺が勝つ」
決まった。見事なまでの勝利宣言。今の俺、きっと、勝利者の顔してる。
間違いなく、歴史に残るわ、コ――
「でも、フィーネ・アルムホルトは、結婚式の準備なんてしてませんよ……?」
「えっ」
俺と由羅の時間が、凍てついた。
部屋の中には、人を小馬鹿にするかのような、ポップなメロディーが流れている。楽しげなのは音楽だけで、凍りついた俺たちは、互いに見つめ合ったまま止まっていた。
この部屋にだけ、氷河期が訪れたかのようだ。
「し、執事たちには、ホームパーティーの催しがあると連絡が……た、立ち入っている人たちも……その関係者だと言ってました……」
由羅の口からまろび出た、予想外にも程がある情報。
真か嘘か、はたまた、お茶目な冗談なのか……どちらにせよ、俺は、一旦、落ち着かなければいけない。イケている男は、常にクールなのだ。
「……い、一服、一服させてくれ」
俺は、震える手で、納豆のパックを開ける。
「く、クソッ……ち、ちきしょう……あ、あかねぇ……」
小刻みに揺れる両手、どうしても、醤油の袋を開けられない。マジックカットなのに。どこからでも、袋に切り込みを入れられる、不思議なマジックカットなのに。
「しょうゆを……しょうゆをくれないか……」
「ど、どうぞ……」
口元に納豆パックを当ててると、丁寧な手付きで、由羅はしょうゆをかけてくれる。
震えながら、俺は納豆をずるずると吸って、ようやく落ち着きを取り戻した。
「んじゃ! 俺、逃げっから!!」
「ダメよ、パ~パ♡」
窓枠に足をかけた瞬間、窓からフィーネが入ってくる。
フィーネの視界にこの部屋が入る時には、日本人・忍者・由羅は、ものの見事に姿を消していた。
侵入してきたフィーネは、満面の笑顔で俺に抱きつく。
「パパったら、本当にUseless……女の甘い顔には強いのかなと思ったけど、そうでもないのね。
捕まえちゃった♡」
「あの……どこから、罠だったんでしょうか……?」
フィーネは、指先を唇に当てて小首を傾げる。
「全部、かな?
日本にいる間、パパの行動はミリ秒単位で、クラウド上にアップロードされてたの。行動履歴は、スパコンで最適化《Optimization》して、結果として残してた。人の思考はランダム性が強そうに視えて、環境を操作すれば、ある程度は択を絞れるから、それだけの情報があれば先読みくらいはできるかな。
人間も突き詰めれば、粒子群最適化の範疇におさまるから」
……?
今、納豆の話してる……?
「パパ、言った、よね」
フィーネは、一定のリズムで俺に尋ねる。
「フィーに、結婚、しよう、って、言った、よね。自らの、意思、で、フィー、に、言った、よね。
つまり、それって」
彼女は、月の瞳を傾ける。
「アキラくんが、フィーを、選んだってことだよ?」
俺のことを覗き込むフィーネの両目には――
「When are you going to walk down the aisle?」
なんの感情も、浮かんではいなかった。