第七話
「分かっておるよ。けれどだからといって放っておくわけにはいくまい。あんなもので争ったら、最悪この世界は全て焦土になってしまう」
マアトの言葉は最もである。誰かが何とかしなければ、きっとこの世界は、世界としての機能を果たさなくなるだろう。本来であればそれは他でもない、マアトの仕事だ。なんといったって、真理・調和・秩序の神なのだから。この場合調和をとって、秩序を正そうという事だろう。
けれどそれがどういう訳か、戦争の神・モンチュによって封じられてしまったという。そしてマアトは、自分の代わりとなる人物、八重をこの世界に呼び寄せた。つまるところ八重が如何にかするしかないのという訳だ。例えどれほど無力であったとしても。この世界と全く、無関係の人間であったとしても。
割り切れないし、マアトの代わりにやらねばならないなんていう責任感は、欠片も八重の中に芽生えていない。しかしそれは他でもない、八重の為にもなることなのだ。帰る為にはやはり、世界の秩序を正さねばならぬのだから。であれば――やるしかない。はっきりいって、未だに如何にかする方法なんて思いつかなかったが。
なにより、と八重はちらりとマアトと入れ替わったのかクロエの隣を歩いている、小さな蜂蜜色の頭を見た。ぴょこぴょこと頭についた耳が、楽しげに動いている。妹に全く似ていない、けれど雰囲気だけは随分と似ているように感じられる獣人の娘・リリィ。あの男達から助ける為にと自ら動いた事もあってか、情が全く湧いていないと言えば嘘になる。勿論リリィの方が如何かは知らないけれど。
世界を見捨てる事。それは八重自身の死も意味していたし、妹に似ても似つかない癖に妙に妹を感じさせる、リリィも死んでしまう事に繋がる。それは八重が妹を見捨ててしまうような錯覚すら起こさせた。だから、結局八重は何と言ったり、喚いたりしたところで世界を正す道を選ぶ他ない。
小さく舌打ちを零す。マアトが此処まで見越していたのか分からなかったが、そうでなかったとしてもマアトの掌の上で踊らされているような気がした。八重は物凄く癪に障ると言わんげな顔であったが、マアトは八重の決心でも見抜いたかのように、ニンマリと笑っている。それがまた八重を苛立たせるのだけれど。
わざわざ口にはしなかったが、八重は一つの決意を抱く。――何としてでもこの世界を正してやろうと。出来ればマアトをぎゃふんと言われられるような、方法で。そうしてとっとと、愛しい妹が待つ世界へと帰るのだ。そうだそれがいい。マアトの腹立たしいまでの笑みを見て八重はそう決めた。どうせ避けられぬのなら、相手の掌で踊っていてもあっと言わせて勝てばいいと言わんばかりに。
「うむ。ようやっと覚悟を決めたか。よきかなよきかな」
「うるせえよ腐れ神。別にお前の為でもこの世界の為でもねーならな、言っとくけど」
「知っておるか。そういうのを、ヤエの世界ではツンデレというんだぞ」
「知ってるけど違うっつの! 大体そーいうのは可愛い女の子が言うから良いんであって、俺やお前じゃ犬の餌にもならねえからな?」
「ヤエは兎も角私は可愛い女の子であろうが」
「ごめんちょっと鏡見直してくるか、ちょっと視線下げてから言ってもらえる? 何処からどう見てもお前は怪しい近寄りたくない系女子だから。それ以前に神だろ、お前」
「……お二人は本当に仲がよろしいんですね」
「ルードさんはちょっと眼科行く事オススメするよ……ってこの世界に眼科はねーか」
売り言葉に買い言葉で八重とマアトがやりとりしていれば、ルードが感嘆の声を漏らす。何処にそんな要素があるのかと思いながら、不快だと言わんげに眉間に皺を寄せる。マアトは満更でもなさそうで、それが更に八重の不機嫌を煽ることになるのだけれども。
八重の言葉に不思議そうな表情を浮かべて首を傾げたルードをみて、思い出したように呟く。そして眼科とは何か、と聞いたルードに掻い摘んで説明する。八重の世界は進んでいるのだなと、ルードは妙に感心したように呟いていた。
そんな風に道中進み、日が傾きかけた頃。漸く魔の森に続く草原が見え、一同は歩を緩める。というのも夜のうちに魔の森を抜けるのは流石に危険とマアトが進言した為だ。魔獣や魔族が活発化するのは夜であるというのもあったが――例え人間でなくとも見境なく襲われる可能性があるらしい――ただでさえ森は暗い。そんな中、突き進めば間違いなく遭難するだろうという見立てから。
例え神であったとしても、決して万能ではない。それに今は力を封じられている。神とは名ばかりに等しといっても過言ではないだろう。クロエはマアトとは違い、力を封じられいるわけではない。そこそこに力を使えるとはいっても、結局この場においては何の役にも立たない。
結局誰の反対もなく、全員同意してその場で野宿と相成った。テントの一つでもあれば良かったのだろうが、八重が聞いてみたところそんな立派なものはこの世界に存在しないと一刀両断。ついでのようにクロエの力もそれほど便利なものではなく、類似品を作るのは無理だと言われる。そこまで考えていなかった八重は、返す事もなく微妙な顔をするしか出来なかった。
まだ完全に日が降り切らないうちに燃料となりそうな、木の枝を拾いに行く。これはクロエを八重に任され、お互い終始無言で枝拾いをする。クロエの縄は枝を縛り上げるのには重宝した。持ち運びが楽になったので少しだけ感謝したが、八重である。決して口には出さなかったけれど。
クロエと八重が戻れば火を付け、適当に夕食を済ませて思い思いに横になる。ただリリィを除いた四人で順繰りに火の番だけは欠かさず行った。
二度ほど全員が火の番を務め終わった頃、朝日が昇り朝食を済ませればいざ魔の森へと踏み込む。朝も早い時間だった為に、森には夜の名残が残っている。静けさが不気味だ。八重は此処にきた最初の事を思い出し、一瞬だけその身を震わせる。
森の中は何も刺激しないようにと全員慎重に、無駄話をする事もなく進む。ただただ早く抜けてしまおうと言わんばかりであった。八重の腰ほどまである雑草や無駄に太い木の幹などに邪魔をされて、体力を削られてしまうが為に無駄な力を使おうとはしなかったというのもあるかもしれない。
「……ルードさん、代わりますよ。ずっと一人でってのは疲れるでしょ」
「いえ、そんな。ヤエ様のお手を煩わせる訳には」
「それ慣れないんで、普通でいいです。あのクソガミの代理人つっても、本当に何も出来ないんで。普通の人間と変わらないですし」
そんな中、八重はスピードを緩めて、後ろに下がる。ずんずんと先を進むマアト、クロエ、少し遅れて八重と並び、その後ろにリリィを背負うルード。とはいえ八重とルードの間はそれなりに空いており、だから八重は気を使った。
リリィは確かにルードの子であるが、だからといってずっと一人で背負うのは随分と骨が折れるだろう。疲労だって八重たちの倍以上溜まるのが早い。とはいえそれを八重が気にする必要はないだろう。然し一緒に行動するとなった以上気付いているのに気付かぬ振りをする、というのは居心地がいいものではない。
特に此処でルードたち親子が脱落すれば、八重の寝覚めはとても悪いものになる。とどのつまり簡単に言えば、この提案は他でもない八重自身の為であった。だというのに、ルードは申し訳なさそうにしながら八重の提案を断る。予想はしていたので、特に驚かない。ただルードの敬語や様付けが妙にむず痒く感じる。素直にそういえば、いや、でも、と言いながらも結局受け入れてくれた。八重の粘り勝ちともいうかもしれないが。
それを認めさせたのならば、後は簡単だった。八重は少しも特別なんかではないのだから、と説き伏せてリリィに八重の背中に移ってもらう。その間にもクロエとマアトはマイペースに進んでいたので、随分と距離が開いてしまっていた。急ぐように三人でマアトたちを追う。然し雑草が邪魔をして、思うように進まない。
「ったくあの二人は人を気遣うことをもうちょっと覚えろよ」
「……まあ、我らとは少々感覚が違うから仕方ないのではないかな」
「そういう問題ではないですよ。此処ではぐれたら確実に合流とか出来ないって、あいつら絶対わかってませんって」
「でもね、おにーちゃん。マアトさまとクロエさま、リリィたちが歩きやすいようにしてくれてるよ?」
「……言われてみればまあ、確かに。手でかき分ける必要はなくなってるから、な。とはいえそれはあいつらが前を歩いてるからであって……」
「だいじょーぶだって。お二人はおにーちゃんを頼りにしてるから。迷子になってもちゃんと探しだしてくれるだろうし!」
暗に八重は確実に助けられる、と言われたようで八重の表情が歪む。勿論リリィにそんな意図はないだろう。純粋な子供だ。分かっているから余計にずんと心に沈むものがある。とても複雑な気分だ。それっきり三人の間に会話が途切れてしまう。ルードはすこし居心地が悪そうだった。
リリィは特に気にした様子なく――というより気付いてない可能性が高い――八重の背中にしっかりと捕まって、辺りを見渡している。興味からというより、警戒してという方が正しいかもしれない。やはり何もない、とは完全に言い切れないからだろう。
実際、何もない訳がなかった。突然くん、と服の襟を掴まれて後ろに引っ張られる。同時に頬を掠める何か。じんわりと広がる痛みと、生暖かいそれが伝う感覚に八重は背筋を凍らせた。後少し引っ張られるのが遅ければ、最悪八重の頭が吹っ飛んでいただろう。その証拠に近くの大木が、嫌な音を立てながら周りの草木を巻き込んで倒れていく。
「……おにーちゃん、大丈夫だった?」
「ああ、なんとか。……ありがとう。助かった」
心配そうに八重の顔を覗き込もうと後ろで頑張るリリィに、八重は頬をひくつかせながら礼を言った。言葉では表せられないくらい感謝しているが、然し恐怖の方が格段に上回っている。当分この恐怖は取れそうにない。
二発目が来ないかとルードは警戒しているようだったが、然し如何やら相手の匂いはもう消えてしまったらしかった。八重は安堵すると同時に、内心でマアトを罵倒しまくる。やっぱり此処は魔の森以外の何者でもないだろう。とりわけ、八重にとっては。
「何やらすごい音がしたが、何かあったのか?」
「まあ、何かはあった。見たら分かる通りな」
「ふむ。やはりその程度では駄目だったか」
「………………ねえちょっと誰か本当こいつにザラキかなんかぶちかましてくれないかな」
距離が開いていたとはいえ、マアトたちにも今の音は聞こえたのだろう。いつの間にか八重の前に立っており、辺りを見渡しながらマアトは問い掛ける。とはいえ、聞かずとも大体は察せる筈だ。マアトのそれはポースだろう。だから八重も適当に返したのだけれど。
次の瞬間、八重は怒りなど通り越してしまう。虚ろな目で、ぽつりと呟く。紛れも無い本心だった。万が一それが叶った場合、八重が元の世界に戻れないとは分かっていても。そもそも誰も叶えられないという前提があるが。
「物騒だな。即死魔法とは。……まあやられても文句は言えん立場というか、それだけのことはしたというか……。簡単に言えば事実を伝えんですまんかった。そうでもしないとお前はこの森を通ろうとはしなかっただろうからな。止む無しだ」
如何やらマアトにも自覚はあったらしい。今回ばかりは八重が下手したら死んでいたかもしれないということで、責任感を感じているのだろう。何処か申し訳なさそうにしながら、然しそれでも自分の判断は間違ってないと押し通す。
強かだった。むしろそれ以外の感想を八重は抱く事が出来ない程に。もう良いよと言わんばかりの表情をしながら、先を急がせた。一秒でも長くこの森の中に止まっていたくないと言わんばかりに。
流石に危険性を痛感したばかりの今、マアトがそれを拒否する事もない。元よりこの森に長居するつもりがなかった、というのもあるかもしれないが。然しどちらにせよ、分かったと言う代わりに八重の催促に頷けば、マアトは八重に背を向けて歩き出す。
ルードと八重、そして八重に背負われたリリィはそんなマアトの背を無言で追った。なるべく物音が立たないようにとしながら歩いてしまっているのは、きっと無意識のうちだ。それがほぼほぼ無意味であるとはきっと誰もが分かっていただろう。然し誰もやめる事はなかった。
それから殆ど休憩も挟まず――挟めなかったともいう――ただ黙々と歩い進めてようやっと森を抜けた頃。もう辺りは暗く夜の帳が下りており、かつルードと八重は息も絶え絶え、といった様子だった。マアトとクロエは、少しも疲れた様子なんて見えなかったけれど。
半日以上を歩き通して、それでも飄々としている二人が八重には化け物に見えて仕方がなかった。同時に情けなさも少し感じたのだけれども、それはあえて気付かなかった振りをして。