第三話
そこはとてもこじんまりしていた。
日が暮れて始めた頃。既にボロボロだった八重の身体が言う事を聞かなくなってきて、いよいよ足が動かなくなるかもしれないという危惧をし始めて少し。それくらい結構な距離を歩いて漸く辿り着いたのは、マアト曰く皇国の隅にある獣人たちだけが住まう街。否。正しくは街というよりも村と言った方が良いかもしれない。
規模としてもそうであったし、何より街というには余りにも活気がなく、寂れていたからだ。時間帯のせいもあってか、人っ子一人いない村の通りに二人は降り立つ。一応村中の道はそれなりに舗装されていて、先程までの砂利や雑草だらけの道よりは歩きやすい。村の入り口から少し進んで、村の中の様子を伺う。けれどやはりしんと静まり返っている。それが酷く不気味で、八重は気味の悪さを覚えた。
「……なあ、ここ本当に人住んでんのかよ?」
「人は住んでおらんぞ。獣人ならば住んでる筈だが」
「いやそういう揚げ足取りは今いらねえんだって。……今、時間帯的には夕飯時だろ。家の中から声の一つでも聞こえてくるのが普通だってのに、全然聞こえて来ねえんだ。可笑しいと思わないか?」
「思わんな。人間の栄えている街でない限り、今はどこもこんな感じだ」
眉間に皺を寄せて、感じた事を素直に口にする。けれどマアトはあっさりとそれを否定した。代わりにマアトから差し出された情報に驚き一瞬足を止めてしまう。それもそうかもしれない。八重は現代日本の、とりわけ騒がしいところに住んでいた。観光地には行ったことがあるが、それらはやはり賑わっている。おまけに日本において、こんなにひっそりとした不気味な場所など早々存在しない――勿論夜となれば話は別だが――
おまけに、当たり前だがこの世界の情勢を八重はみたことも知ることもなかった。だからマアトがなんと言っていても程度が予想出来ず、楽観視していたのもある。予想していた以上にこの世界は荒廃しているのだと、現実を目の当たりにして背筋にひんやいりとしたものが伝う。
けれどマアトはそんな八重に御構い無しだ。どこか目的地でもあるのだろう。先々と進んで行く。それに気付けば、八重は止めていた足を動かして慌てて追い掛けて、距離を詰めた。置いていかれる訳にもいかない。なにせこの世界で八重が頼れるのは、かなり不本意であるが現状マアトだけなのだから。
八重がようやっと追い付いたちょうどその時。角を一つ曲がって、表通りより薄暗く、気味の悪さが増した裏路地に入る。代わり映えのしない長屋のような家が並ぶそこをずんずんと進み、そうして何個目かの扉に到達すれば、マアトはぴったりと足を止めた。
三度、そのあと少し置いて二度、更に少し置いて二度。何かの合図のようにマアトが扉をノックする。成る程と思った。きっと此処にはマアトの協力者の類が住んでいるに違いない。そうして敵の目を欺くため此処に住み、そして万が一の為に味方ですと知らせると同時に証明する為、そういうノックの仕方にしたのだろう。素晴らしい案だとは言い難かったが――敵に聞かれていた場合真似る事が出来るからだ――けれど確かに有用な手に違いなかった。
マアトがノックした後。一分程おいて今度は扉の内側から、二度、二度、四度のノックが返ってくる。それにマアトは三度、一度で返した。そうしてようやっと扉が開けば、どん、とマアトに黒い何かがぶつかる。
「マアト様! ご無事で何よりです! 代理人の召喚には成功致しましたか?」
「ああ。この通りな。何もかもお前のお陰だ。感謝するぞ、クロエ」
幾らか幼さの残る声。黒い何かは人間だった。八重の今の立ち位置からでは顔などは見えなかったが、声色と髪の長さから女であろうと判断する。そして案の定、マアトの知り合いであり協力者だったようだ。手で頭を撫でられない代わりと言わんばかりに、顎でぐりぐりとクロエと呼ばれた人間の頭を撫ぜている。ただそれは撫ぜているというより、顎を食い込ませているように見えた。痛そうだと八重は思ったが、やられている本人は嬉しそうに笑っている。何も言わない事にした。
然し八重はふと一つの疑問に襲われる。――何故二人の話の内容が分かるのだろうかと。マアトはあの時確かに言った、八重の言語はこの世界に通じないと。それはこの世界の言語が分からぬということ。であればこの状況は不可解である。騙されたのか、と一瞬頭の中を過ぎった。はっきり言ってそうすることでマアトの利点があるとは思わなかったが、それ以外に考えられない。
旧知の仲にある二人が、感動の再会をしているところであったが、なあ、と八重は二人に――主にマアトに対してあったが――向けて声を放つ。
「俺はこの世界の言語、通じないんじゃなかったっけか? はっきりきっぱりお前らの話してる内容、分かるだが」
「ああ、それはな――」
「マアト様、私が説明致します! ごほん。ええと、あなたがマアト様の呼ばれた代理人ですね? 私、マアト様のお付きを務めてますクロエと言います。要するに、マアト様と同じく神です。いや、神っていうより神見習い? 天使? ……うん、まあそんな存在なのです。だから、私が話す言葉があなたはわかるし、同様にあなたが話す言葉も私はわかります」
さっとマアトから離れ、態とらしく咳払いをした後。クロエは話し出した。確かにそうであるならばマアトの協力者である理由も、頷ける。然し新たに疑問か浮かび上がる。
「それはわかった。じゃあお前ならその拘束衣解くことも出来るんじゃないのか? というより、お前がいれば俺がなんとかする必要とかもないんじゃねーの。カミサマ……じゃなくても、そいつの仲間なんだろ、お前」
ぴっとマアトを指差しながら言う。相手に失礼な行為であるとは分かっていたが、然しマアト相手に失礼も何もない気がした。何せ相手は自称神で、人を自分の都合で勝手に異界に連れ込んだのだから。最初こそやはり少しもマアトの話など信じてなどいなかったが、然し化け物や穴のこともある。少なくとも此処が日本でも地球でもない、というのはこの村に降り立つ前から確信していた。
何にしても八重の指摘は最もだろう。マアトの代理人らしかったが、しかしそれが八重である必要がない。神に近しい存在がいるのならば、ただの人間である八重なんかよりよっぽど適任のように思える。もっと言えば数多いる人間の中から何故八重が選ばれたのか、と言うのも気になる点ではあるけれども。それは後から追い追い聞けば良い話だろう。今は最も差し迫った問題に時間を当てたい。
とはいえ、そもそも何故世界を正すまで、拘束衣を解く事が出来ぬのか。よくよく考えればそこに行き着く。人間が如何にかしたものであるならば、マアトの代理として召喚された八重は勿論。人より上の存在であるだろうクロエでも、如何にか出来るだろう。
ただ二人がその事に気付いていない訳がなかった。八重に言われた言葉に、揃って何処か苦々しい顔を浮かべ左右に首を振る。無理だと言わんばかりに。
「これは特別製でな。確かに人が私に着せたものだ。だが――作ったのは、私と同じ神なんだよ。だからクロエは勿論、現時点のヤエでは脱がす事は出来ぬ」
「はあ……現時点? 何ソレどーいうこと」
「まあ簡単に言いますと、貴方がマアト様の代理人となってこの世界を統治すれば、マアト様と同等の力を得る事が出来るので拘束衣を解く事が出来るようになるってことですよ」
目を瞬かせる。取り敢えず今言われたことは理解出来た。が、それはつまり考えを纏めれば、とても嫌な予感しかしない。いやいや、そんなまさかなと自分に言い聞かせて不安を他所へと投げる。けれど拭いきれない。恐る恐る、といった様子で八重は口を開く。
「……それってつまり、今の俺には何の力もねーってこと? で、その状態で世界を正せって言われてる訳じゃ、ねーよな……?」
「おお、よく分かったなヤエよ! 流石私の召喚術に反応しただけの事はある!」
「じゃねーよ! ふっざけんな! あれこれと山のようにチート寄越せとは言わねーよ? でもな、人に何か頼むってんなら一つぐらいなんか与えろよ。つうか、ただの男子高校生でしかなかった俺が、世界をどうのこうのなんて、何の力もねー状態で出来る訳がねっつうの!」
嫌な予感ほど良く当たるという。実際ぴったりとそれは当たり、八重は思わず頭を抱えて喚く。やらなければ帰れないと言われ、かといってやろうと思えば目の前にはどう足掻いても越えられぬ障害。無理難題過ぎて、叫ばなければやってられなかった。
然しマアトとクロエは一体何を言ってるんだと言わんばかりの目である。向けられる視線に正気に戻れば、なんだかものすごく恥ずかしい。とはいえ、決して先ほどの叫びに嘘偽りはなかった。大した力を持たぬ八重が、どうやって世界を正すのか。マアトとクロトに考えがないのであれば完全にお手上げ状態である。
「ヤエ、お前がこの世界を如何にも出来ぬというのならば他の誰にも出来まいよ。チートがなくとも、この私が渾身の力を振り絞って、召喚したのがお前だ。数多あり、それ以上にいる生物の中からお前が選ばれたということを自覚しろ」
「お前……」
「いや、まあ実際はチートをつけてやれるだけの力がなかっただけなんだがな。言語翻訳すらつけられなかったのだから、そのあたりはまあお察し、という奴だ」
「っくそ! わかってたよお前がそういう奴だって! ちくしょう俺の感動を返せ!」
真面目な顔をしていうマアトに八重は感動しかけた、のだが。その後の発言で全てぶち壊しである。前者の言葉だって一割くらいはその通りだろうと思えども、しかしやはりそれ以上に予想通り過ぎる反応に突っ込まざるを得ない。それほどにマアトが切迫した状態だったとも取れるが、はっきりいえば八重からしてみるとはた迷惑以外の何物でもなかった。
ぎっ、と奥歯を噛み締めて怒りの余り拳を握る。けれどそれをどうこうするつもりはなく、ただやり場のない怒りを逃がすための動作だ。ただ、それを分かっているかのように「おおこわ!」なんてわざとらしく笑いながらいうマアトを、本気で殴りたいと思ったとしても八重は悪くない。決して。
「……あのう。お楽しみのところ悪いんですけど」
「楽しんでない! お前の目は節穴か!」
「例えマアト様の代理人とはいえ聞き捨てなりませんね。私を罵っていいのはマアト様だけど決まってます。撤回してください」
「えっなにそれこわい。どこの狂信者だよ」
「れっきとしたマアト様の信者でありお付きですが何か問題でも?」
「もうやだなにこの主従。俺なんで本当に此処にいるの」
「間違いなく世界を正すためだな」
「うるせえよお前が元凶じゃねーか!」
八重の顔はげっそりとやつれている。誰の目から見ても明らかなくらい、疲れ切っていた。原因は間違いなく目の前の主従コンビであったが、きっと当の本人たちは全く気付いていないだろう。それが八重には妙に腹立たしかった。
最後に盛大なツッコミを一つかまして、ふかい、ふかい、溜息をつく。もうこれ以上付き合っていられないとばかりに。事実クロエやマアトがその後何かを言ってきても、完全に無視を決め込んでいた。八重の進退に一切関係ない話ばかりだったからである。
これから先の話をしようとしない限り、八重は反応するつもりはなかった。それを暫くして漸く悟っと二人は「つまらない男だな」と口をそろえて言っていたが、そちらも無視。そうすることが一番八重の心の平穏を保つことになるからだ。ずっとこの自由気ままな主従コンビに付き合っていれば、あっという間に八重の精神は多大な被害を被ることになるだろうから、ある意味賢明な判断といえよう。
「まあ、そろそろ本題に入ろう。此処に来たのは他でもない。お前の希望を叶えるためでもクロエと合流するためでもあるが、一番の目的はヤエの言語が通じない問題を解決するためだ」
「……入るのが遅えっていうのはおいといて、どうやって解決すんだよ?」
「マアト様が言うならそれは絶対です。どうにでもなるのです。ですから、あなたにはこれをお渡しします」
いっそ清々しいまでの盲目ぶりに、八重は突っ込む気が起きなかった。これからのことを思えば、いちいち突っ込んでいるだけ体力の無駄にしかならない気がしたからだ。
前振りの後、言葉とともにクロエが差し出してきたのは小さなピアス。ぶら下がり型の、赤い石がくすんだシルバーの台座に埋め込まれただけ、というシンプルなもの。予想もしなかったものに八重は思わず怪訝そうに眉間に皺を寄せて、クロエが持つそれを睨みつける。
「……それがなんだって言うんだよ? ただのピアスじゃねえの?」
「いいえ違います。これはマアト様の力の結晶石です。勿論台座も留め具も全てマアト様の力を固めたもので出来ています。それら全部合わせても、結局何万分の一、というレベルの代物でしかないですが。ないよりはマシです。そしてこれをあなたが身につけることによって、ちょっとした便利機能が使えるようになります。翻訳はその一部です」
「ふうん……なるほどねえ。ちなみに他にはどんな効果があるんだよ」
「そうですね。ちょっとくらいなら、マアト様の力を使うことが出来るかもしれません。それがどの程度のものであるのか、また他の効果までははっきりとは私には」
「分かった。とりあえずありがたく頂いとく」
いまいち信じ難かったが、しかし疑っていてもどうにもならない。それにもしこの話が本当なら、きっとそれはチート代わりの何かにもなるかもしれなかった。色々と試してみる価値はあるだろう。素直にそう思えば、手を伸ばしてクロエからピアスを受け取る。そして、さて身につけようとしてから、気が付いた。
「……俺、ピアス穴空いてねえじゃん」