第271話 逃げ水
逃げる赤い個体を追う美那。
(追いつけない……?)
〈アストライヤー〉の覚醒装束〈レイディアント・ハート〉を纏って走り続けているけれども、一定の距離が保たれたまま一向に追いつける気配がない。
(ただの影……ただの負の念じゃない)
強大な妖気に触発されるように現れた黒い影。その正体はこの地に溜まった負の情念であることは緋織から聞いている。
発端である妖気は既に感じられなくなったものの、負の念が消える気配はない。赤い個体を追い続ける間にも黒い影が彼女の前に立ち塞がり、その度にその拳で、その蹴りで突破してきた。
それでも一歩間合いの外を保ち続ける赤い個体。
美那が止まると赤いのも止まる。美那が動けば赤いのもまた移動をはじめる。
「逃げ水ってこんな感じなのかな」
真夏の暑い日に、雨が降ったわけでもないのに道路の先の方に水たまりが見える。しかし近づいてみてもそこに水たまりはなく、更に先の方にそれが見える。
まるで水たまりが逃げているように見えるから〝逃げ水〟。
これは蜃気楼の一種で、熱せられたアスファルト付近の焼けるような空気と、その少し上にある空気、この二つには少々の温度差があり、その間を光が通ると屈折して見えるようになる。その時に道路の上の景色が反転、つまり空が映り込んで水たまりのように見える。
「逃げ水……?」
ざざざっと足下の枯れ葉をかき分けながら急停止する。
前方の赤いやつも例の如く止まる。
途端に黒い影が美那に襲いかかる。
「やぁぁぁぁぁっ!!」
群がる連中を一瞬で蹴散らす。
それが一段落したところで右手に集中する。そして頭上高く振り上げた。
「星剣ッ!」
赤い個体に向けて右腕を真っ直ぐ振り下ろした。
───キィィィンッ!
甲高い音がした。
「弾かれたっ?!」
それだけではなかった。
「音が聞こえたのが……」
前方に見える赤い影……よりも上の方。
「ホントに逃げ水だっていうの?」
美那は音の聞こえた辺りを睨みつける。
だが本体を見つけたところで、近づけば近づいた分だけまた距離を取るのは想像に難くない。
美那に残された攻撃手段はただ一つ。
右手に宿る〈星刃〉、〈アストライヤー〉のみ。
しかしその〈アストライヤー〉も、今しがた弾かれてしまっている。
「だけど今のボクにできるのことはこれしかない!」
そして再び右手を振り上げたその時、
「───っ!?」
ヒュッと風を切る音を美那の耳が捉えた。
咄嗟に右腕を振るうと、ガキィンッという激しい音が彼女のすぐ近くからした。
「〈アストライヤー〉の斬撃が何かを撃ち落とした……?」
その音からして硬い何かである可能性が高い。
しかも空間すら断つ〈アストライヤー〉をもってしても、斬り裂くことのできないほどの硬さを誇る何か。
「これは───」
だが美那にその正体を探る暇は与えられない。
先程のように風を切る音が四方八方から襲いかかる。だが夜の闇のせいかその正体は掴めない。
「なら……」
美那は静かに目を閉じる。そして耳を澄まして風を切る音に集中する。
「───ふっ!」
右側からした音に右腕を振るうと、何かを撃ち落とした手応えがあった。
更に後ろで聞こえた音を回し蹴りで撃ち払う。
(これはまさか……)
その後も、真下を除いた全方位から襲いかかる何かを悉く撃ち落としていく。
やがてその手応えからその正体に辿り着きつつあった。
(……まさか、斬撃───?)
刃を持つ武器による攻撃───つまり斬撃は、優希人との実戦形式の稽古で身をもって経験したことがある。彼女が今受けているのはそれに酷似していた。
(……それも実体が感じられない)
だが稽古の時と違い、刃による彼女への直接攻撃ではないように思えた。
(……似てるけど斬撃とも少し違う。となるとこれは───)
そうしてその正体に行き着く前に、不意に攻撃が止んだ。
「……?」
警戒と構えと解かずにジッと目を凝らし耳を澄ます。
聞こえてくるのはかすかに吹く風がかさかさと落ち葉を鳴らす音。そして感じられる例の赤い個体の気配だけ。
(気配……?)
気づけば黒い影の心を沈ませるような嫌な気配はなくなっていた。そのせいか赤いやつの気配が少しだけ顕著になっている。
(……悪意も害意も……殺気もない?)
あんなに攻撃してきたのにと美那は内心首を傾げる。
そんな静の膠着状態が数分続いて、やがて唐突に赤い個体の気配が消えた。
「───っ!?」
音も光も、匂いさえも逃すものかと五感を研ぎ澄ます。
心臓の音が耳元で聞こえるくらいに集中する。
「美那さん?」
上から声が降ってきた。
臨戦態勢だった美那は即座に上を見上げる。そしてそこに緋織の姿を見てほんの少し肩の力が抜けた。
「こんな所にいたんですか」
美那の目の前に降り立つとその背の輝く翼は光の粒となって消えた。
「……あの黒い影みたいなやつの赤いのがいたんで追いかけてきたんだ」
「赤いやつ?」
美那は頷く。
すると緋織は辺りを少し見回した。
「見たところ、この周囲に私達以外はいないようですね」
「……じゃあ本当にどこかいっちゃったんだ。急に気配が消えたからどこかからボクに狙いを定めてるんじゃないかって思ってたんだけど……」
「美那さんが手を焼くほどのモノだったと」
「手を焼くっていうか……、うん、そうだね。手強かったかも」
素直に相手の技量を認める美那。
「ホント、なんだったんだろアレは……」
緋織の言うことを信じないわけではなかったが、今でも夜の闇の中から見られているような気がしていた。
つづく




