巫女と護衛後日談~遠くて近い~
目の前に広がる光景に視線は釘付けでした。
小高い丘の上から見渡す限り、青い海が広がっている。
穏やかな波は日差しを受けて、キラキラと光り、遠くにはいくつもの島々が見えた。
馬車に揺られ続け、うんざりとしていた時だったから余計に、その広々とした解放感は新鮮だった。
「うわあ……これが、海ですか……」
広いですねえと思わず感嘆まじりに呟けば、彼もまたわたしの隣に立ち目を眇めるようにしていた。
「そうだ。海は初めてだと言っていたな」
「はい!近くに行くのが楽しみですよ!」
わたしが住んでいたのは平原の街で、神殿に入っても、仕事で山や森に行く事はあったけど、海の近くに行く機会はなかった。
そうであるから、“そのこと”を聞いた時、一も二もなく頷いたのだ。
何かを企むような笑顔が、気になっては、いたのだけど。
ともあれ、今わたしは彼と馬車に揺られ、海を見下ろせる場所までやって来た。これほど長い時間馬車に乗るのは初めてのことで、すっかり腰やお尻が痛くなってしまった。当分馬車には乗りたくない。
うう、腰痛いお尻痛い。早く着かないかなあとそればかりで頭がいっぱいになっていたが、小高い丘で馬車が止められ、外へ出た時にその気持ちは一変した。
眼下には真っ青な海。陽光を反射して、きらきらと輝いている。
視線を投げた遠くには水平線が見え、頭上には海の青とはまた違う、空の青が広がっている。点在する島々は白い岩肌を覗かせながらも、瑞々しい緑で覆われていた。
今まで見たこともない光景に、ついつい見入っていると、ひょいと抱き上げられてしまった。
ひゃあっと色気のない声が零れた。犯人が誰かなどわかっている。
「エルさん?何するんですかっ」
抗議してみても、彼はわたしを抱えたまま苦も無く馬車に乗り込むと、御者に出発するよう告げる。
すぐに馬車は動き出した。丘の天辺から今度は丘を下り、海岸線の方へと向かって。
まだ海を眺めていたかったのに。
そうわたしを抱えたままの彼に訴えてみると、まあ拗ねるなと苦笑しながら首の後ろに触れてきた。唇で。
「ちょっとエルさんっ」
慌てて腕を振りほどこうとしても、がっちりとわたしの腹の前で組まれている腕は、とてもじゃないが外せそうにない。
ええ、力じゃ敵いませんよ。
それにしても……なんですか、最近のこのくっつきぶりは。ああ、結婚したんでした。
でもちょっとまだ慣れませんよ……!
うろたえるわたしを余所に、彼はそれ以上悪戯を仕掛けて来ることはなかった。
その代わりわたしの首筋に額を押しあてて、くつくつと笑っている。彼の髪の毛が首筋に触れ、何やら背筋がぞわぞわする。
体を震わせてしまったのを気付かれたのか、彼は顔をあげてわざわざわたしの顔を覗きこんでくる。
にやり、としか表現のしようのない、笑みをたたえて。
「……うわ、エルさんその笑い方しない方がいいですよ。見た人が、今にも土の中に埋められるんじゃないか、って思いますからね」
「ふん、どう思われても構わんさ。ところで逃げようとしても無駄だぞ?」
「……逃げてなんか、いませんよ?」
「ふ、まあいいさ。覚悟しておけよ」
「……善処します……」
にっこりと笑顔を浮かべてみせながら、着いてから、の事を考えると落ち着かなくて仕方なかった。
あんな予告をわざわざしなくてもいいのに……!
つい先日、彼が告げた言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
結婚したんですし?いずれはそういう時が来るとわかっていますよ。ただ出来たら、もう少し時間が欲しいだけなのに。
そうしたら……。
うっかり具体的なあれこれを想像しかけて、慌てて頭を振る。
折角一時でも忘れていられたのにと、八つ当たり気味に思いきり、彼に凭れかかってやったのだった。
「別荘、ですか」
そうだ、と彼は頷いた。結婚式の打ち合わせのさなか、ふと思い出したように言われたのだ。
式が済んだらこの屋敷を出て、二人で旅に出よう、と。
まず初めには、のんびり過ごすために別荘に行くのはどうだろうかと。
わたしに異論はない。この屋敷……彼の実家が居心地が悪いとかではなく、それどころか良くしてもらって申し訳ないくらいで。本は沢山読めるしご飯は美味しいし、彼のお父さまお母さまやお姉さまもいい方たちだけど、それでもここは、自分がずっといる場所じゃないと思っていたから。
「わかりました、そのつもりでいますね。ところでその別荘って、どこにあるんですか」
結婚式のあと、とりあえずわたしの予定は何もありませんし。
神殿を出た後も、結局色々と慌ただしい日が続いていますしね。確かに少しゆっくりしたい気分です。
そう尋ねると彼は、質問で返してきた。
「お前、海を見たことがないと言っていただろう?」
「ええそうですけど……?」
「別荘は海の傍にあってな、うまい魚料理も食べられるぞ」
「うわ、それは楽しみです」
「海と料理と、どっちが楽しみなんだ?」
「うう……それは、両方ですよ!」
彼はそこでにやりと笑って(だからその笑い方しない方がいいですってば。後ろ暗い何かを企んでいるようにしか見えません)俺も楽しみだと言った。
はて、エルさんはこれまでに行った事があるんですよ、ね?
それとも、魚料理がそんなに好きだったのかしら。
それにしても、あの笑顔はどうも引っかかるんですけど?
その疑問は、結婚式後に判明しました。
身内と近しいものしか呼ばれていないと知らされていましたよ。
それでも、着なれない衣装は肩が凝ります……というか、体中が凝った気がします。幾ら気兼ねない間柄の人たちばかりだと言われても、何の緊張もしないほど、神経太くありません。
式が終わって、会食が終わって……ようやく楽な格好になった後は、ぐったりと寝台に体を投げだしてしまった。
出来るならこのまま眠ってしまいたい。
目を閉じればすぐさま眠れる自信がありますとも。
けれど……横たわったまま、ちらりと自分の体を見下ろして、居たたまれなくて目をそらす。
こんな格好……っ、恥ずかしいって言ったのにっ。
婚礼装は一人で脱ぎ着など出来ないから、この屋敷の侍女に手伝ってもらった。
式が終わり会食も終わり、やれやれとほっとしたのも束の間、今度は浴室へと連れていかれ、あれよあれよという間に体中磨きあげられ、何やらいい香りのするオイルを塗りこまれ、最後にひらひらして薄くて何とも心もとない衣装を着せられて……この部屋に案内された。
というか、有無を言わさず放り込まれたって感じでしたねとため息をつく。
おそらく、お母さまあたりが手配したんだろう。
脳裏に、ほほほと優雅に微笑む女性の姿が浮かび、再びため息をこぼしかけて飲み下す。
結婚したとなれば、これは想定されてしかるべきもの、ではある。
あるのだけど……。
「うわ~……逃げ出したくなったかも……」
忘れていたわけでは、ないのだけど。
うつ伏せに寝転んで、部屋のあちこちに視線をやる。
溢れるほどに飾られた華やかな花や、仄かに焚かれた香。
一人で……いや、二人で眠ったとしても、まだ余る広い寝台。
これでもかと準備されたものが目に入るたび、どうにも居たたまれなくて仕方がないのだ。
「だって仕方ないよね、あれよあれよと話が進んで、ついていくだけで精いっぱいだしっ」
頭を抱えて唸っていると、間近で笑い声が聞こえてきた。
はっと体を起こそうとして、大きな体に抱きこまれ身動きが取れなくなる。気付けば後ろから抱きこまれるような格好で、寝台に横たわっていた。
「……エルさん、気配殺して来ないで下さいよ。ここ、自分のお家でしょう」
笑い声を聞いた瞬間、誰かなんてわかっていたけど、心臓に悪いですよ。
出来るだけ平静な声を装ってみたものの、こうもぴったりくっついていると、速くなっている鼓動も伝わってしまうんじゃないかと思う。
着ているものが互いに薄いせいで、体温や肌の感触もよくわかる。
彼のしっかり筋肉のついた腕や、引き締まったお腹や、広い胸。
触れられた所から感じるぬくもり。
ちょっと、熱が出そうですよ。
「どうした、顔が赤いぞ」
いつもと変わらない声を出す彼に、半ば八つ当たりと思いながら答える。
「状況についていくだけで精いっぱいなもので、目が回りそうなんですっ。何でエルさんはそうも落ち着いて……」
声は尻すぼみになった。つと視線を下げた先には、自分の体を抱えるように回された逞しい腕。それが。
「いませんね。腕がこうも赤いってことは、顔はどうなんでしょうか」
気になります、と後ろを振り向こうとしたのだけど、それは叶わなかった。
彼もまた平静でいられないと知って、妙に安心したのに。
ふう、と耳の後ろでため息が聞こえ、濡れた感触が首筋を伝う。時折、ちくりと小さな痛みが走る。
これはもしかしなくても。思わずぎゅうっと彼の腕にとりすがると、彼は唇を離して低く笑った。
「俺の顔なぞ見なくていい。もう、寝ろ」
「・・・・・・・・は?」
「疲れているんだろう?」
「それはそうですけど、ええと……」
何もしないんですか、なんて自分から聞けませんよ。内心を読んだかのように、彼はまた笑う。
「お膳立てはもったいない気もするがな、今日の所は何もするつもりはない。わかったならもう眠れ」
「……はい」
色々突っ込んで聞きたい単語がちらほらあったものの、聞けば藪蛇になりそうで、大人しく返事をしておく。
こう抱きかかえられていては、眠れるかどうか疑問だけれど。
今日は何もないと聞いて、正直なところを言えば胸を撫で下ろしているわたしがいる。
ほんの少し前まで、信頼出来る仕事仲間で、怖い顔をしているけど、怖くない人で、安心できる人で……そんな認識の相手とどうこうなんて、その覚悟なんてそうそう出来るものじゃない。
結婚式まで挙げておいて、何を言うんだと呆れらるかもしれないけど。
温かな腕の中で目を閉じる。眠れるわけないと思っていたのに、疲れのせいか次第に眠気がやってきた。
おやすみなさいと呟いたわたしの声は彼に聞こえただろうか。
「今日は何もせんがな、別荘に行ったら覚悟しておくんだな」
両親が居る屋敷でなぞ、落ち着かんし。あちらに行った方が気兼ねなく色々出来そうだしなと低い声で笑う彼に、力いっぱい問いただしたかった。 出来る事なら。
ちょっと、“今何もしない”の理由ってそれなんですか、と。
けれど、大きな眠りの波に浚われて……何も言う事が出来なかった。
彼の家の別荘は、海のすぐ傍に建っていた。白い壁が青い海と空に映えている。別荘と言うだけあって、彼の実家のような、見るからに“お屋敷”といった仰々しさはないし、風がよく通る作りのためか開けっぴろげで親しみやすかった。
室内にいても波の音が聞こえてくる。
わたしたちが行くとの連絡を受けていた別荘の管理人さんにより、部屋はきちんと整えられていたし、彼から聞いて楽しみにしていた魚料理も感動するほど美味しかった。
到着した日は、時間も遅かったため、食事をとった後は早々に就寝。
多分そうかもと予想していた通り、同じ寝台で休みましたよ。
覚悟を今決めなきゃいけないのかと落ち着かなかったものの……特に何もありませんでした。
拍子抜けしたというか、とりあえずほっとしたというか微妙な気分でした。
次の日は波打ち際を散策したり、小舟に乗って魚を釣ってみたりと、至極のんびり過ごした。
そういえば、これほどゆっくりと過ごすのは初めてだ。神殿に居た頃はあれこれと仕事もあったし、神殿を出てからは、まるで怒涛のような日々だったから。彼の家の人たちに構われるのは嬉しかったし、楽しかったけれど、それでも慣れない環境に気を張っていたのだろう。
こうして二人だけで居るという事に、他愛ない事を言いあえる事に、とても安心していた。
日も海面に落ちかかる頃。茜色に染まる海を見ながら、波打ち際を裸足で歩く。海から吹きつける風が髪の毛やスカートの裾を揺らす。
さくりと砂を踏む感触が面白くて、わざと踏みしめて歩けば、子どものようだと笑われた。
「いいでしょう、楽しんですから」
「悪いとは言ってない」
彼は手を繋いでない方の手を口元に当てている。
今日……いや、昨日から、本当に首を傾げる思いです。歩くときには必ず手を繋いでいるし、腰をおろせばぴったりくっついて来るし。
ほんの少し落ち着かないような、変な気分です。
それでも手を振りほどこうとは思わないし、傍から離れようとは思いませんが。
手を繋いだまま、またさくり、と砂浜を踏みしめたところで、不意に体を引き寄せられた。
「ちょっと、急に何するんですっ」
抱え込まれ、広い胸の中に収まるわたし。頭上でわざとらしいため息が聞こえた。
「一つ聞きたいんだが、何故俺たちはここに来ているんだ?」
「何故って……のんびりするためでしょう?」
それ以外の何がと問えば、更に大きくなったため息がまた一つ。
「……慰安旅行じゃないぞ。俺としては新婚旅行のつもりなんだが?」
「……あ、ははは、そうでした、ね……」
ここは笑って誤魔化しておきましょうか。
そう思っていたわたしの耳に、彼は低く囁いた。
「覚悟は決まったのか?」
それをこの場で言われても……!ぴたりと動きを止めたわたしを見下ろし、彼はくつくつと笑い声をあげた。
「からかったんですね、もうっ」
むくれて力任せに腕の囲いから逃れようとしても、緩む気配はない。
「そう拗ねるな。言ってみただけだ、お前の反応が面白くてな。俺の言った事は気にしなくていい。お前の覚悟が決まるまで待つさ」
なにせ急に決まった事だし、お前の戸惑いもわかっているつもりだと彼は言う。
でも、と呟くわたしに、彼は呆れたような声で言った。
「人の前で何度も寝落ちしてくれたのは誰だ?勝手に寝台に放り込んでおけと言ったのは?挙句に人の服の裾掴んで放さなかったのは?抱き上げて運んでも嫌がらなかったのは?」
「……わたし、ですね」
「俺が我慢の出来ない男だったら、とっくに喰われていたぞ。まあ、ここまで来たんだ、もう少し待つくらいなんでもない」
そう言って、彼は喉の奥で笑う。
わたしの覚悟が決まるまで、彼は待っていてくれるのだろう。
覚悟ね、と心の中で呟く。
自分の事なのに……いつ決められるかさっぱりわからない。
それなら、今決めても同じ、だろう。
彼に抱きしめられる、触れられるのは安心するし、気持ちがいいと知っているから。
それだけで十分かもしれない、と。
もう少し歩いていくかと、彼は腕を解き、歩きだそうとする。
わたしは言葉にする代わりに、自分から彼に抱きついた。
「どうした?」
「……決めました」
その言葉だけで彼には伝わったのだろう。
そうか、とどこか嬉しさを滲ませた声が聞こえ、わたしはこみあげる恥ずかしさに顔を赤くしていたのだった。




