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この話の舞台は、終始図書館である。
というのも、僕が彼女を見かけるのは決まってここ、松羽東部図書館だったし、
それ以外の場所で会うことは今もこれから先も決して無いことのように思われた。
この物語の主人公とやらは僕になるが、焦点を当てたいのはあくまで彼女の方だし、
僕の図書館以外の生活に触れること自体が無粋なことなのではないかと思っている。
僕の名前は覚えなくてもいいし、覚えてもらったところで何の役にも立たないので名乗らないでおく。
高校生で、趣味は読書。情報はこれくらいで充分だろう。
彼女の方は…プライバシーもあるのでこれは仮名になるが、納戸いる子とでもしておこう。
年は僕の母より少し上くらいだろうか。
実際、いる子さんには僕より少し年上の娘さんがいらっしゃるそうだ。
見た目も年の割りに老けているなどということは決して無く、
笑うと目元と口元に出来る小さな皺がキュートで、後姿などは僕より年下に見えるほど幼い。
はじめて喋ったのがいつ頃だったか、きっかけが何だったかは今となっては思い出せないが、
それよりも随分前から彼女のことは知っていた。
学校が休みの日にちょくちょく通っていただけの図書館とはいえ、
毎回といっていいほど同じ席に座っているのを見かける彼女のことは、意識しなくても覚えてしまっていた。
元々、あの人いつもあの席にいるなあ、くらいにしか思っていなかった彼女を意識し始めたこと…
これにはきっかけがあった。
いつもいる子さんが愛用している席に、別の男性が座っていたことがあり、その日彼女はそのはす向かいの席に座っていた。
いつ来てもここの図書館にはまばらにしか人がおらず、
いつもの彼女の席――それも、隅のほうの目立たない席――に誰かが座っているというのは珍しいことであった。
僕が本を選んで帰りしなにちらと目をやると、男の姿はもうそこには無かった。
代わりに、彼女が席を移してちょこんと本を読んでいるという、
いつもの場所のいつもの光景を見て、何だか可笑しくなってしまったのだ。
やはり定位置が落ち着くんだろうかとか、男が去るのをずっと待ってたのだろうかとか、
色んなことを考えてしまって、どんな人なんだろうと興味を持った、というわけだ。
ともかく今は、僕といる子さんとは近くの席で座って本を読んだり、読んだ本について話し合ったりする仲である。
学校や職場のように、友達や同僚ではなく、図書館という限られた空間での読書仲間だ。
一般的な場合と環境が大きく違うので、仲の深まり方も特殊なものだったと言えそうだ。
よって、プライベート――というよりは、読書以外のことについての話が出ることは滅多に無かったのだが、
派生的に話が飛んで、家族のことや学校・仕事のこと、ちょっとした昔話なんかが出るようにはなってきた。
それでも会話のメインは"本"。はじめ、僕は彼女のことは普通に読書が好きなおばさんくらいにしか思っていなかったのだが、
やがてこの考え方は後に二転三転することになる。
「あなたはあまり、童話や恋愛物は読まないんですね?」
いる子さんは年に不相応の、少年のようなくりくりした目で僕の顔を覗き込んだ。
「いつも、推理物や文学を読んでいるじゃないですか」
彼女の言うのは小説のジャンルのことだ。彼女は年下相手でも敬語を使う。
「はあ、そうですね。好きなんですよ。
――でも、他ジャンルが嫌いというわけは決して無いんですよ。有名なやつは結構読んでますし。面白ければ問題無いです」
「そうなんですか。私も、ジャンルは問わずに読みますけれど、推理物は難しそうであまり読みません」
それは、ジャンルを問うているのではないかと思ったがつっこむのはやめておいた。
「まああまり本格推理物ばかりだと肩がこりますけどね。逆にいる子さんはハートフルなファンタジーが好きそうなイメージですね」
「ええ、そうなんですよ。読んでいて楽しいじゃないですか」
そう言ってうふっと笑ういる子さん。
「はい」の代わりに「ええ」と返事したり、「うふふ」と笑ったりする女の子は同級生にはまずいない。
いる子さんは知り合った女性の中でも、誰より優雅で品のある人だったと今も思う。
「でも、もし面白い本を探しているのなら」
いる子さんが提案する。
「個人的に私の持っている本を、貸してあげましょうか?」
これは助かる提案だ。図書館で借りる本の冊数には限度があるし、
いい本を自分で探すというのも意外と手間である。図書館という同じ場所で二件の貸し借りが出来るとなれば、
ますます都合がいい。
素直に言えば嬉しかったのだが、同時に不安も覚えた。
他人の、それもあまり知らない、だいぶ年上の女性に物を借りるなんてことは普段なら有り得ない。
もし万が一、本を汚してしまったり失くしてしまうようなことがあったら…そう思うとぞっとした。
図書館の本でも、中には前に借りた人の扱いが悪かったのか、水濡れや汚れがひどいものがある。
本を読みすすめていて、読んでいる途中にそういった汚れなんかを見つけてしまったら、
はっと物語の中から現実世界に呼び戻されてしまう。
ちょっとしたことだが、どうせ読むなら僕は綺麗な本で物語の世界にどっぷりとつかっていたい。
僕の胸中を察して、というわけでは無いだろうが、いる子さんが付け加えた。
「結構古い本が多いので、元から汚れているので、雑に扱ってもらっても大丈夫ですよ。
いつまででもお貸ししますけど、きっと返してくださいね。中には、返さない人もいるんですよ」
それを聞いて少し安心した僕は、本を借りることにした。
「必ず返します。是非貸してください」
こうして、いる子さんと僕は読書仲間から本の貸し借り友達になったのであった。