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断罪の鐘が鳴る前に、悪役令嬢は王国を見限りました

作者: シオン
掲載日:2026/10/25


第一章 断罪の夜


「セレスティア・アルヴェイン! 貴様との婚約を、今この場で破棄する!」


王立学園の卒業記念舞踏会。


王太子レオンハルトの声が響くと、華やかな大広間は水を打ったように静まり返った。


名指しされたセレスティアは、広間の中央で静かに顔を上げた。


公爵令嬢として非の打ちどころのない装いだった。銀糸の刺繍が施された濃紺のドレス。夜空を思わせる黒髪には、アルヴェイン公爵家の象徴である青い宝石が飾られている。


対するレオンハルトは、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。その腕には、桃色の髪をした男爵令嬢ミレイユ・クロッカスがしがみついている。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか、殿下」


セレスティアは尋ねた。


声は震えていない。


その冷静さが気に入らなかったのか、レオンハルトは眉をつり上げた。


「まだ白を切るつもりか! お前は嫉妬に狂い、ミレイユを階段から突き落とし、教科書を破り、さらには毒を盛ろうとした!」


周囲の生徒たちがざわめく。


セレスティアはミレイユを見た。


ミレイユは怯えたように肩を震わせ、王太子の胸元に顔を伏せた。


「わ、わたし……セレスティア様を責めたいわけではありません。ただ、婚約者を奪われると思ったセレスティア様のお気持ちも、分かるつもりです」


「なんと慈悲深い……」


「それに比べて公爵令嬢は……」


そんな囁きが聞こえる。


セレスティアは小さく息を吐いた。


「殿下。いくつか確認してもよろしいですか」


「何だ」


「わたくしがミレイユ様を階段から突き落としたのは、いつのことでしょう」


「先月の十三日だ!」


「その日、わたくしは王妃陛下の名代として、西部救護院の視察に出ておりました。王妃陛下と救護院長の署名がございます」


レオンハルトの顔がわずかに引きつった。


「で、では、教科書を破いた件はどう説明する!」


「学園の図書室で起きた事件ですね。当時、わたくしは外交官試験を受けておりました。試験官十名が証人となります」


「部下に命じたのだろう!」


「それを証明する命令書や証言はございますか」


「き、貴様……!」


レオンハルトの背後にいた取り巻きたちが、露骨に目をそらした。


セレスティアは続ける。


「最後に毒を盛った件ですが、その毒とは何でしょう」


「月影草から抽出した毒だ!」


「月影草に毒性はございません。鎮静薬の原料です」


「嘘をつくな!」


「薬草学の教本、第三巻百二十八頁をご覧くださいませ」


学園長が青ざめながら近くの教師を見る。


薬草学教師は気まずそうにうなずいた。


「セレスティア嬢の言うとおりです。月影草に毒性はありません」


「そ、それなら別の毒だ!」


レオンハルトの叫びに、広間の空気が凍りつく。


毒を盛った証拠どころか、毒の種類さえ定まっていない。王太子自ら、告発が虚偽であると認めたも同然だった。


それでもレオンハルトは止まらなかった。


「とにかく、お前はミレイユを苦しめた! 私は心優しい彼女を妃に迎える! これは王太子としての決定だ!」


セレスティアは彼を見つめた。


十歳のときに婚約してから八年間、彼女は未来の王妃となるためにすべてを捧げた。


帝王学、政治、外交、歴史、法律、財政、語学。


レオンハルトが授業を抜け出して狩りに興じていた日も、彼女は机に向かった。


レオンハルトが夜会で令嬢たちと遊んでいた夜も、彼女は王国の収支報告書を読んでいた。


国王が病に伏してからは、王太子が放棄した公務すら肩代わりした。


だが、その努力は愛のためではない。


国を守るためだった。


だからこそ、最後に一度だけ確かめた。


「殿下。本当に婚約を破棄なさるのですね」


「ああ!」


「国王陛下と王妃陛下の許可は」


「私が次代の国王だ! 許可など必要ない!」


「承知いたしました」


セレスティアは微笑んだ。


それは、この場で初めて見せた笑顔だった。


「王太子殿下のご意思、確かに承りました。わたくし、セレスティア・アルヴェインは、婚約破棄を謹んでお受けいたします」


レオンハルトは満足げに笑った。


「ようやく自分の罪を認めたか」


「いいえ。認めたのは婚約破棄のみです」


セレスティアは手袋を外し、左手の指輪を抜いた。


王家の紋章が刻まれた婚約指輪。


それを給仕の持つ銀盆に置く。


澄んだ音が広間に響いた。


「また、婚約締結時の誓約に従い、これまでアルヴェイン公爵家が王太子殿下に提供していた支援のすべてを、本日をもって終了いたします」


レオンハルトの笑顔が消えた。


「支援だと?」


「ご存じではなかったのですか」


セレスティアは軽く首を傾げた。


「殿下の近衛騎士団の給与、王太子宮の維持費、国外留学費、夜会費、衣装費。そして殿下が独自に進めておられる北部開拓事業。その七割は、アルヴェイン公爵家が立て替えております」


「な……」


「婚約が解消された以上、我が家が支援を継続する理由はございません」


公爵家の侍従が、一歩前へ出た。


彼が差し出したのは、分厚い帳簿だった。


「こちらが明細です。返済期限は三十日後。総額は金貨八十七万四千枚となります」


広間にどよめきが走った。


王国の年間税収にも迫る額だった。


「ふざけるな! 王家が公爵家に借金など!」


「正式な契約書がございます。すべて殿下の署名入りです」


「私は読んでいない!」


「署名された事実は変わりません」


「お、お前が勝手に用意したのだろう!」


「契約締結時には王国法務官が同席しております」


レオンハルトは言葉を失った。


彼は書類を読まない。


セレスティアが重要な部分に印をつけ、説明しても、面倒そうに署名するだけだった。


その報いが今、目の前に現れたのだ。


「まだございます」


「まだ、だと?」


「アルヴェイン公爵領より王都に供給している小麦、塩、薬草、魔石についても、婚約者価格を終了いたします。来月から通常価格でのお取引となります」


「待て!」


「わたくしはもう殿下の婚約者ではございませんので」


セレスティアは優雅に一礼した。


「それでは皆様、ごきげんよう」


彼女が背を向ける。


誰も呼び止められなかった。


大広間の扉が開き、黒衣の護衛たちが左右に並ぶ。


その先では、アルヴェイン公爵家の紋章を掲げた馬車が待っていた。


馬車に乗り込む直前、セレスティアは一度だけ振り返った。


レオンハルトは、まだ自分が何を失ったのか理解していない。


だが、いずれ思い知ることになる。


断罪されたのは自分ではない。


今夜、この国は自らの未来を断罪したのだ。


第二章 公爵家の撤退


翌朝。


王都のアルヴェイン公爵邸では、すでに撤退の準備が始まっていた。


「本当に、よろしいのですな」


執事長が尋ねる。


「ええ。予定どおり進めてください」


セレスティアの前には、王都の地図と大量の書類が並んでいた。


一見すれば突然の婚約破棄だった。


しかし、兆候は半年前からあった。


レオンハルトがミレイユを王太子宮へ出入りさせ、国家機密に関わる会議にまで同席させ始めたころ、セレスティアは最悪の事態を想定した。


証拠を集め、公爵家の資産と人員を少しずつ領地へ移した。


婚約破棄を予想していたからこそ、昨夜すぐに動けたのだ。


「公爵家が所有する商会、工房、倉庫は本日中に営業を停止。従業員には希望に応じて三年分の給与か、領地での雇用を用意してください」


「かしこまりました」


「救護院と孤児院への支援は継続します。ただし資金は王都の役人を通さず、直接届けるように」


「承知いたしました」


扉が乱暴に開いた。


父であるアルヴェイン公爵が入ってくる。


「セレスティア!」


いつも冷静な父が、今朝ばかりは顔を真っ赤にしていた。


「お父様。お戻りになったのですね」


「すまなかった!」


公爵は娘を強く抱きしめた。


西部国境の視察から戻ったばかりで、まだ旅装のままだ。


「お前が辱められたというのに、私はそばにいてやれなかった」


「お父様のせいではありません」


「王宮へ抗議する。王太子を廃嫡させ、あの男爵令嬢も……」


「必要ありません」


公爵が目を見開く。


セレスティアは父をまっすぐ見た。


「わたくしは王太子妃の座に未練はございません。王国そのものにも」


「まさか」


「アルヴェイン公爵領を独立させます」


部屋が静まり返った。


公爵領は王国北西部の広大な地域を占める。


穀倉地帯、鉱山、港湾都市を持ち、人口も小国に匹敵する。王国が豊かさを保てたのは、アルヴェイン公爵領の税収と物資があったからだ。


だが、独立は反逆と見なされかねない。


「セレスティア。それは戦争になるぞ」


「王国に戦争をする余力はありません」


彼女は財務報告書を差し出した。


「国庫は三年前から赤字です。昨年度の不足分は、公爵家からの借入金で埋められています。正規軍の食料と武器も、半分以上を我が領地に依存しています」


「しかし、王都に残る貴族たちが黙ってはおるまい」


「その貴族たちも、多くが公爵家に借金をしています」


セレスティアは別の名簿を広げた。


「すでに北部、西部の主要諸侯とは秘密裏に協定を結びました。王国が我が領地に侵攻した場合、彼らは中立を宣言します」


公爵はしばらく名簿を見つめた。


やがて、低い声で笑った。


「いつから準備していた」


「半年前からです」


「父親の私にも黙って?」


「お父様は顔に出やすいので」


「誰に似たのだか」


「亡きお母様でしょう」


公爵は天を仰いだ。


それから娘の肩に手を置いた。


「分かった。お前がこの国を見限ったのなら、私も見限ろう」


「お父様……」


「お前は八年も王国のために尽くした。それを踏みにじったのは、あちらだ。アルヴェイン家は、お前とともにある」


セレスティアは目を伏せた。


昨夜、どれほど罵倒されても涙は出なかった。


だが父の言葉を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、ほんの少しだけほどけた。


「ありがとうございます」


「ただし、一つ約束しろ」


「何でしょう」


「今度こそ、自分の幸せも考えなさい」


その問いに、セレスティアはすぐには答えられなかった。


王妃になることだけを求められてきた人生で、自分の幸せなど考えたことがなかったからだ。


第三章 愚かな王太子


一方、王太子宮ではレオンハルトが怒り狂っていた。


「なぜ食事がこれだけなのだ!」


朝食のテーブルに並んでいるのは、黒パン、豆のスープ、薄い肉が一切れ。


以前ならば、十種類以上の料理が用意されていた。


侍従長が青ざめながら答える。


「食材を納入していた商会が、今朝から取引を停止いたしました」


「別の商会から買え!」


「その……王太子宮には未払い金がございまして」


「いくらだ」


「金貨二万枚ほど」


「たったそれだけか。国庫から払え」


「財務大臣より、王太子殿下の私的な支出に国庫金は使えないと返答が……」


「私が次の国王だぞ!」


レオンハルトが杯を床へ投げつける。


ミレイユはその隣で、不満そうに黒パンをつついていた。


「レオン様。わたし、こんな硬いパンは食べられません」


「すぐに菓子を用意させよう」


「南通りの店の果実菓子がいいです」


「聞いたか。買ってこい」


しかし、侍従は動かなかった。


「何をしている!」


「南通りの菓子店は、アルヴェイン公爵家の商会が経営しております。今朝、閉店いたしました」


ミレイユの顔が曇る。


「じゃあ、宝石を見に行きましょう。婚約祝いに首飾りが欲しいです」


「もちろんだ」


「それも難しいかと」


「今度は何だ!」


「王都の宝石店の多くはアルヴェイン領の鉱山から仕入れております。先ほど、一斉に休業するとの連絡がございました」


王太子宮に気まずい沈黙が流れた。


そこへ宰相が駆け込んでくる。


「殿下! 大変です!」


「朝からうるさいぞ」


「公爵家の商会が王都から撤退を始めました! 小麦市場では価格が三倍に跳ね上がり、市民が商店へ押しかけております!」


「たかが商人の問題ではないか」


「違います! 王都の食料の四割はアルヴェイン領から供給されているのです!」


「ならば命じて出荷させろ」


「公爵領からの返答は、今後は通常価格でのみ販売する、とのことでした」


「そんなもの、王命で奪えばよい!」


宰相の顔から血の気が引いた。


「それは略奪です!」


「王家が臣下の物を使って何が悪い!」


「そのような命令を出せば、公爵領は完全に離反します!」


レオンハルトは鼻で笑った。


「公爵ごときに何ができる」


その日の午後、父である国王に呼び出されるまで、彼は本気でそう思っていた。


謁見の間に入った瞬間、国王の杖が飛んできた。


杖はレオンハルトの肩に当たり、床へ転がった。


「この愚か者が!」


「父上!?」


「何ということをしてくれた!」


病で痩せた国王が、玉座から立ち上がっていた。


「婚約破棄には王家とアルヴェイン家、双方の同意が必要だった! お前が勝手に決めてよいことではない!」


「しかしセレスティアはミレイユを……」


「調査報告書を読め!」


投げつけられた書類が床に散らばる。


そこには、ミレイユが訴えた事件のすべてについて、セレスティアには実行不可能だったと記されていた。


「これはセレスティアが証人を買収したのです!」


「では月影草が毒だという話はどう説明する!」


「それは……」


国王は激しく咳き込んだ。


王妃が背中をさすりながら、冷たい目を息子に向ける。


「レオンハルト。あなたは自分が次の国王だと言ったそうですね」


「事実です」


「まだ即位してもいないのに?」


王妃の声は静かだった。


それゆえに、怒りの深さが伝わった。


「王とは、好き勝手に命令できる者ではありません。国と民への責任を負う者です。それを理解できないあなたに、王位を継ぐ資格はありません」


「母上まで!」


「ミレイユ嬢を王太子宮から退去させなさい。そしてセレスティアに謝罪し、婚約を結び直すのです」


「嫌です!」


「これは王命です!」


国王の声が響いた。


それでも、レオンハルトは引かなかった。


「セレスティアは冷たい女です! 微笑みもせず、私を立てようともしない! ミレイユは違う。私を愛し、私を褒め、私のすべてを受け入れてくれる!」


王妃は悲しそうに息子を見た。


「セレスティアが笑わなくなった理由を、考えたことがありますか」


「何?」


「幼いころ、あの子はよく笑う少女でした。けれどあなたは、彼女が笑えば『公爵令嬢らしくない』と言い、意見を述べれば『女のくせに生意気だ』と言い、失敗すれば人前で侮辱した」


「教育してやったのです」


「あなたが壊したのですよ」


レオンハルトは顔を歪めた。


「もうよい。セレスティアを連れ戻せば済む話でしょう」


「それができれば苦労はせぬ!」


国王が机をたたく。


「アルヴェイン公爵家は、王国からの独立を宣言した」


「……は?」


「今朝、正式な文書が届いた。公爵領は今後、アルヴェイン公国を名乗るそうだ」


レオンハルトは口を開けたまま固まった。


「反逆ではありませんか! 軍を送るべきです!」


「その軍が動かぬ!」


国王は叫んだ。


「兵糧がない。馬に食わせる飼料もない。将軍たちの半数はアルヴェイン家と親族関係にあり、残る半数も出兵に反対している!」


「ならば他国に援軍を!」


「東の帝国はすでに公国の独立を承認した。南方連合もだ!」


セレスティアは、すべて先回りしていた。


外交交渉も、諸侯への根回しも、物資の移動も。


レオンハルトがミレイユと恋に溺れている間に。


「三十日以内に借金を返せなければ、王太子宮と直轄地の一部が差し押さえられる」


「王家の土地を差し押さえるなど、許されるはずがない!」


「お前が署名した契約書に、そのように定められている!」


レオンハルトの膝が震えた。


「私は……読んでいません」


「それが言い訳になると思うか!」


即日、レオンハルトは王太子としての権限を停止された。


だが、それは転落の始まりにすぎなかった。


第四章 新しき国


アルヴェイン公国の独立から一か月。


セレスティアは公都ルミナリアの城で、多忙な日々を送っていた。


父が公王となり、彼女は公太女となった。


婚約破棄された令嬢ではない。


次代の統治者である。


「北部三都市からの請願書です」


「こちらは港湾税の改正案です」


「帝国との通商条約について、使節団が面会を求めています」


次々と書類が運ばれてくる。


セレスティアは驚くほど生き生きとしていた。


これまでも同じように政務をしてきた。


ただし王国では、どれほど働いても成果はすべてレオンハルトのものとされた。意見を出せば出過ぎた真似だと責められ、失敗だけは彼女の責任になった。


今は違う。


彼女の意見を皆が聞き、議論し、より良いものへ作り替える。


努力が国と民の暮らしに結びついている。


「公太女殿下」


執務室へ入ってきたのは、赤褐色の髪をした青年だった。


エルディア帝国の第二皇子、クロード・ヴァレンシュタイン。


帝国から派遣された外交使節であり、セレスティアとは学園時代からの知り合いだった。


「クロード殿下。いかがなさいましたか」


「休憩を勧めに来た」


「今は忙しいので」


「三日前も同じことを言っていた」


「三日前とは状況が違います」


「昨日も一昨日も聞いた」


クロードは机から書類を取り上げた。


「返してください」


「断る」


「外交問題になりますよ」


「公太女を過労で倒れさせるほうが外交問題だ」


彼は向かいの椅子に座り、侍女が運んできた茶をセレスティアの前に置いた。


「十分だけでいい」


セレスティアは観念してカップを手に取った。


「昔から強引な方ですね」


「君にだけは言われたくない」


「わたくしは強引ではありません」


「半年で独立準備を整えた人間の発言とは思えないな」


クロードが笑う。


セレスティアも、つられて口元を緩めた。


その表情を見て、彼は目を細める。


「君が笑うところを、久しぶりに見た」


セレスティアの笑みが消えた。


「失礼いたしました」


「なぜ謝る?」


「公太女として、軽率な振る舞いを……」


「笑うことの何が軽率なんだ」


セレスティアは答えられない。


クロードは冗談めかした表情を消した。


「レオンハルトに、そう言われたのか」


「関係ありません」


「関係ある。君は八年間、あの男が求める王太子妃を演じ続けた。その癖が残っている」


「演じてなど……」


「十歳の君は、木登りをして枝から落ちた」


セレスティアは目を見開いた。


「なぜ、そのことを」


「十二歳の君は、宮廷晩餐会を抜け出して厨房で焼き菓子を盗み食いした」


「盗んではいません。料理長からいただいたのです」


「十三歳の君は、私との剣術勝負で負けて、悔し泣きした」


「覚えておりません」


「私は覚えている」


クロードの声は優しかった。


「君は最初から、冷たい人間ではなかった」


「……今のわたくしがお嫌いですか」


「まさか」


彼は即座に答えた。


「今の君も、昔の君も、どちらもセレスティアだ。ただ、もう誰かに認めてもらうために、自分を削らなくていい」


胸の奥が痛んだ。


八年間、ずっと欲しかった言葉だった。


けれど、それを口にしたのは婚約者だった男ではない。


セレスティアはカップを置いた。


「クロード殿下は、なぜ独立を支援してくださったのですか」


「帝国にとって利益があるからだ」


「それだけですか」


「外交官としては、それだけだ」


クロードは微笑む。


「個人的な理由は、いつか君が聞く準備をできたときに話す」


急かさず、踏み込みすぎず、それでも見捨てない。


その距離が心地よかった。


「では、いつか伺います」


「ああ。気長に待つよ」


クロードは立ち上がる。


「十分たった。仕事に戻っていい」


「命令されなくても戻ります」


「夕食は一緒にどうだ?」


「それは外交ですか」


「個人的な誘いだ」


「でしたら……予定を空けておきます」


クロードがうれしそうに笑った。


扉が閉じたあと、セレスティアは自分の頬に触れた。


少し熱い。


そのことが、なぜか嫌ではなかった。


第五章 偽りの聖女


王国の混乱は深まっていた。


食料価格は高騰し、工房は材料不足で閉鎖。職を失った民が王都の外へ流出した。


国王はレオンハルトに代わる後継者として、十二歳の第二王子を立てようとした。


だが、その矢先、国王が倒れた。


病状は急速に悪化した。


王太子の権限を停止されていたレオンハルトは、混乱に乗じて王宮の一部を掌握した。


そして、自らを摂政と宣言した。


「レオン様。これで、わたしが王妃になれるんですね」


豪華な寝台の上で、ミレイユが微笑む。


「ああ。父上が崩御すれば、私が王位を継ぐ」


「でも、王妃様や宰相たちは反対しています」


「すぐに黙らせる」


レオンハルトは、ミレイユだけは自分を裏切らないと信じていた。


王太子宮にあった美術品や宝石のほとんどは、借金返済のため売却された。使用人も大幅に減った。


それでもミレイユは彼と一緒にいた。


真実の愛の証だと、彼は思っていた。


「ところでレオン様」


ミレイユが甘い声を出す。


「わたしのお部屋に置いてあった宝石箱を知りませんか」


「あれなら売った」


「……売った?」


「即位式の費用が必要だからな」


「どうして、わたしの物を勝手に!」


ミレイユの表情が変わる。


「王妃になれば、もっと良い物を買ってやる」


「いつですか」


「父上が崩御したあとだ」


「それまで、こんな貧しい暮らしをしろっていうんですか?」


「貧しいだと? ここは王太子宮だぞ!」


「使用人は少ないし、お菓子もドレスも買えない。暖炉の薪だって節約しろって言われました!」


「国が苦しいのだ。我慢しろ」


「セレスティア様がいたときは、何でも買ってくれたのに」


その一言で、レオンハルトの顔が歪んだ。


「私の前で、あの女の名前を出すな!」


「だって本当でしょう!」


ミレイユは立ち上がった。


「あなた、何も持ってないじゃない!」


「何だと」


「王太子だから近づいたのに、権限もお金もなくなって! こんなはずじゃなかった!」


レオンハルトは耳を疑った。


「私を愛していると言ったではないか」


「王太子のあなたを愛していたの!」


ミレイユは叫んだ。


「王様になれないなら、一緒にいる意味なんてない!」


彼女は荷物をまとめ、部屋を出ていった。


レオンハルトは追いかけようとした。


そのとき、廊下から悲鳴が上がった。


「捕らえろ!」


衛兵たちがミレイユを取り囲んでいた。


「何をしている! 彼女を放せ!」


「摂政殿下。ミレイユ・クロッカス嬢には、国王陛下毒害未遂の疑いがかけられております」


先頭に立っていたのは、王妃だった。


その手には小瓶がある。


「国王陛下の薬に、遅効性の毒が混ぜられていました。同じ毒が、ミレイユ嬢の部屋から発見されています」


「違います!」


ミレイユは激しく首を振った。


「わたしじゃありません! レオン様に命令されたんです!」


「何を言っている!」


「レオン様が、国王陛下が死ねば王様になれるって!」


「嘘だ!」


二人は互いを指さし、罵り合った。


真実の愛。


その言葉が、あまりにも空虚に響いた。


王妃は疲れ切った顔で二人を眺めていた。


「二人とも拘束しなさい」


衛兵が動く。


レオンハルトは剣を抜いた。


「私は王太子だ! 私に触れるな!」


しかし、彼に従う者はいなかった。


剣はたやすくたたき落とされた。


床に押さえつけられながら、レオンハルトは叫ぶ。


「セレスティアだ! セレスティアが仕組んだに違いない!」


王妃は足を止めた。


「セレスティアは何もしていません」


「嘘だ!」


「あの子はもう、あなたになど関心がないのです」


その言葉だけが、レオンハルトの胸を深く突き刺した。


憎まれているほうが、まだよかった。


復讐の対象であるなら、自分は彼女の心に残っている。


だがセレスティアは、もう振り返ってすらいない。


それこそが、彼にとって最大の罰だった。


第六章 王国最後の日


国王毒害事件をきっかけに、王国各地で反乱が起きた。


税を納めても、その金は王都の贅沢に使われる。飢饉が起きても支援は来ない。


民の不満は限界に達していた。


北部と西部の諸侯が相次いでアルヴェイン公国への合流を宣言。南部の港湾都市は自治都市連合を結成した。


かつて王国と呼ばれた国は、急速に崩壊していった。


王妃は事態を収拾するため、一通の書状をセレスティアへ送った。


そこに記されていたのは、王国の降伏だった。


セレスティアは公国軍を率い、王都へ入った。


戦闘は起きなかった。


王都の門は開かれ、市民たちは路上に並んで彼女を迎えた。


かつて悪役令嬢と罵った者たちも、今は助けを求めて手を伸ばしている。


「公太女殿下!」


「どうか、子どもたちに食べ物を!」


「病人に薬を!」


セレスティアは馬車を止めた。


「持ってきた食料と薬を、すべて開放してください」


側近が驚く。


「しかし、これは兵士たちのための物資です」


「軍には三日分を残せば十分です。公都から追加の輸送隊が来ます」


「承知いたしました」


護衛兵たちが荷馬車を開く。


パンと干し肉が配られ始めると、市民たちから歓声が上がった。


セレスティアは王宮へ向かった。


玉座の間で待っていたのは、やつれた王妃だった。


国王は事件後、一度も意識を取り戻さず亡くなったという。


「お久しぶりです、セレスティア」


「王妃陛下におかれましては……」


「もう陛下ではありません」


王妃は首を振った。


「王国は、本日をもって滅びます」


彼女は王冠を外し、セレスティアへ差し出した。


「どうか、この土地と民をお救いください」


セレスティアはすぐには受け取らなかった。


「王妃様。わたくしは、王国を滅ぼすために独立したのではありません」


「分かっています。滅ぼしたのは私たちです」


王妃の目に涙が浮かぶ。


「あなたに国を支えさせながら、その功績を認めなかった。息子の愚行を止められず、あなたが傷つくのを見て見ぬふりをした」


「王妃様……」


「許してほしいとは言いません。けれど、民に罪はありません」


セレスティアは王冠を見つめた。


かつて、これを戴くために生きてきた。


だが今は、何の魅力も感じない。


王冠は名誉ではない。


数え切れない命を背負う責任の象徴だ。


「王国をそのまま公国に併合すれば、反発が起きます」


「では……」


「各地域に自治権を認めた連邦国家を設立します。アルヴェイン公国、北部諸侯領、南部自治都市、旧王家直轄領。それぞれが代表者を出し、議会を作ります」


王妃は驚いたように顔を上げた。


「あなたが女王になるのではないのですか」


「わたくしは、連邦の初代代表となります。ただし任期を定め、議会によって選出される立場とします」


「王位を望まないのですか」


「望んだ時期もございました」


セレスティアは穏やかに笑った。


「ですが王位を得ることと、民を幸せにすることは、必ずしも同じではありません」


王妃は深く頭を下げた。


「あなたこそ、王になるべき人でした」


「いいえ」


セレスティアは答えた。


「王国には、王が必要なかったのです」


こうして、四百年以上続いたルグラン王国は滅びた。


その土地には、アルヴェイン連邦が誕生した。


身分にかかわらず代表者を選び、法律と税の使い道を議会で決める新しい国。


完全な制度ではない。


争いも起きるだろう。


だが少なくとも、一人の愚かな王子によって国のすべてが左右されることはなくなった。


第七章 断罪された者たち


レオンハルトとミレイユの裁判は、公開で行われた。


ミレイユがでっち上げたセレスティアへの嫌がらせ事件についても、改めて調査された。


階段から落ちた事件では、ミレイユが自ら足を滑らせていた。


教科書は借金返済のために本人が売却していた。


毒を盛られたという話も、注目を集めるための自作自演だった。


さらに彼女は、王太子の寵愛を得るため、学園の生徒たちを脅迫し、偽の証言をさせていた。


国王への毒については、ミレイユが入手し、レオンハルトが侍医に混入を命じたことが判明した。


二人は最後まで互いに罪を押しつけた。


「わたしは命令されただけです!」


「この女に誘惑されたのだ!」


「あなたが国王になれば、王妃にしてやると言ったんでしょう!」


「お前が父上を殺せばよいと!」


傍聴人から軽蔑の声が上がった。


判決の日、セレスティアも法廷にいた。


裁判長が立ち上がる。


「レオンハルト・ルグラン。王位簒奪および国王毒害の罪により、すべての身分と財産を剥奪。北部鉱山での終身労働刑に処す」


「私を誰だと思っている!」


レオンハルトが叫ぶ。


「元王太子です」


裁判長は冷たく答えた。


「現在は、一人の罪人にすぎません」


衛兵に連行される直前、レオンハルトはセレスティアを見つけた。


「セレスティア!」


彼は必死に手を伸ばした。


「私は間違っていた! 君こそ私の妃にふさわしい! もう一度やり直そう!」


法廷中が静まり返った。


セレスティアは席を立ち、彼の前へ進んだ。


「レオンハルト様」


「そうだ。君なら私を救える! 昔のように、すべてうまく処理してくれ!」


「まだ、お分かりにならないのですね」


セレスティアの目には、怒りも憎しみもなかった。


「わたくしがあなたのもとへ戻ることは、決してありません」


「なぜだ! 私を愛していたはずだ!」


「いいえ」


その返答は、驚くほど簡潔だった。


「わたくしが愛していたのは、あなたではありません。未来の国王を支えれば民を守れるという、幼い日の理想です」


「では、今からでも……」


「あなたを支えることで民を不幸にすると分かった以上、わたくしがあなたを選ぶ理由は一つもございません」


「頼む。鉱山へ行きたくない!」


「それは、あなたが罪を犯す前に考えるべきことでした」


セレスティアは背を向けた。


レオンハルトの絶叫が法廷に響く。


だが彼女は、一度も振り返らなかった。


ミレイユは身分と財産を剥奪され、十年間の強制労働刑となった。


彼女は最後まで泣き叫び、セレスティアに助けを求めた。


「セレスティア様! わたし、まだ若いんです! 人生をやり直す機会をください!」


セレスティアは静かに答えた。


「刑期を終えたあとに、やり直せばよいでしょう」


「十年も働けっていうんですか!」


「あなたが偽証によって奪おうとした、他者の人生の重さに比べれば、短いものです」


「悪役! あなたはやっぱり悪役よ!」


ミレイユが叫ぶ。


セレスティアは足を止めた。


そして、ほんの少しだけ笑った。


「そうかもしれませんね」


自分を傷つけた相手に都合のよい慈悲を与えない。


それを悪と呼ぶのなら、悪役で構わなかった。


「ですが、あなたの物語における悪役であっても、わたくしの人生の主役はわたくしです」


扉が閉まり、二人の姿が見えなくなった。


セレスティアの長い八年間は、そこでようやく終わった。


終章 悪役令嬢の幸福


それから三年。


アルヴェイン連邦は、周辺諸国でもっとも豊かな国の一つとなった。


街道が整備され、学校と救護院が各地に建てられた。農民の税は軽くなり、商人は身分を問わず議員になれるようになった。


もちろん、すべてが順調だったわけではない。


議会はたびたび紛糾し、地域間の対立も起きた。


だがセレスティアは、異なる意見を持つ者を排除しなかった。


議論し、譲り合い、時間をかけて答えを探した。


それこそが、彼女が望んだ国の形だった。


春のある日。


公都の丘には、白い花が咲き乱れていた。


セレスティアは政庁の庭園で、クロードと向かい合っていた。


「三年待った」


クロードが言う。


「数えていたのですか」


「毎日な」


「帝国の皇子とは思えないほど暇なのですね」


「外交官として公国に滞在し、通商条約をまとめ、防衛協定を結び、君の仕事を手伝った。そのうえで数えていた」


彼は小さな箱を差し出した。


中には、華美ではない銀の指輪が入っている。


青い石の周囲に、小さな白い石が配されていた。


「セレスティア」


クロードは彼女の前にひざまずいた。


「政略ではない。国同士の利益のためでもない。一人の人間として、君に結婚を申し込みたい」


セレスティアは指輪を見つめた。


かつてレオンハルトから与えられた指輪は、鎖のように重かった。


この指輪には、彼女の自由を奪う力はない。


「一つ、条件があります」


「聞こう」


「結婚後も、わたくしは連邦代表として働き続けます」


「もちろんだ」


「公務を放棄して、あなたを優先することはできません」


「私も自分の仕事を放棄するつもりはない」


「意見が対立したとき、わたくしはあなたに従わないかもしれません」


「そのときは話し合おう」


「わたくしは、理想的な妻にはなれません」


クロードは立ち上がった。


「私が望んでいるのは理想の妻ではない。君だ」


その言葉に、セレスティアの目から涙がこぼれた。


悲しいからではない。


ようやく、自分自身を選んでもらえた。


王太子妃でも、公爵令嬢でも、公太女でも、連邦代表でもない。


ただのセレスティアとして。


「お返事を聞いても?」


彼女は涙を拭い、微笑んだ。


「お受けいたします」


クロードが指輪をはめる。


温かな春風が吹き、白い花びらが空へ舞い上がった。


二人の結婚式は、同年の秋に行われた。


セレスティアは純白ではなく、連邦を象徴する青と銀の衣装を選んだ。


父は式の最中ずっと泣いていた。


クロードは帝国の継承権を放棄し、連邦の一市民としてセレスティアの隣に立った。皇帝は弟の決断に激怒したが、最終的には大量の祝い品を送ってきたという。


結婚後も二人は対等だった。


意見がぶつかることもあった。


セレスティアが働きすぎればクロードが書類を取り上げ、クロードが危険な外交交渉へ向かおうとすればセレスティアが護衛を倍にした。


互いを縛るのではなく、支え合う。


それが二人の選んだ関係だった。


後世の歴史書は、セレスティアをさまざまな名で記した。


王国を滅ぼした悪女。


市民に自由を与えた聖女。


連邦を築いた賢女。


時代を変えた改革者。


だが本人は、どの呼び名も好まなかったという。


晩年、歴史家から何と記録されたいか尋ねられた彼女は、こう答えた。


「わたくしは、誰かが決めた役を演じることをやめただけです」


悪役と呼ばれた令嬢は、運命に従わなかった。


自分を踏みにじった者へ、都合のよい赦しを与えなかった。


奪われたものを取り戻し、自らの手で新しい居場所を築いた。


そして彼女は、王子に選ばれたから幸せになったのではない。


自分自身を選んだからこそ、幸せになったのである。


断罪の鐘は、もう鳴らない。


古い物語は終わった。


その先に広がる未来を、セレスティアは愛する者と肩を並べ、自分の足で歩いていった。


完

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