第二部 第11話 鋼とインクの契約
王都ルンデルの春は、石炭の煙と議会からの「催促状」の山と共にやってきた。
ヴェラム王国の王宮、謁見の間。
二十一歳になったセラフィナ女王は、机に積み上げられた貴族や大使たちからの書簡を、苛立ちを隠さずに暖炉へと放り込んでいた。
「……いい加減にしてちょうだい。『王女の安寧のため』ですって? 要するに、私をどこかの馬の骨のような他国の王子に売り飛ばして、自分たちの『古い利権』を復活させたいだけでしょう」
「陛下、しかし……」
老いた宰相が、汗を拭いながら進言する。
「オルヴァーネが崩壊し、帝国が我が国の経済圏に組み込まれた今、大陸の勢力図は歪んでおります。
他国は、我が国の『産業技術』を恐れております。このままでは、大陸中の国々が連合を組んで、我が国を『孤立した怪物』として包囲しかねません。
……そのための『政略結婚』です。西の大国の王子を迎え入れれば、他国も手出しはできませぬ」
セラフィナは冷ややかに笑い、そして窓の外を見下ろした。
そこには、大陸中から黒煙を上げて走る列車と、規格化された工場群が広がっている。
「あの煙を、誰かに譲れと? あの鉄の軌道を、他国の王族の『庭』にしろと?
……ふざけるな。私が泥の中で掴んだこの国を、血統などという古い呪いで縛る気はないわ」
***
その時、謁見の間の重い扉が、衛兵の制止も振り切って開かれた。
「——失礼します、陛下。ですが、その『包囲網』を破るための『設計図』を持ってきました」
煤の匂いと、インクの匂いを纏った十七歳の青年——アルデン・ヴェラムが、一卷の羊皮紙を抱えて入室してきた。
彼はすでに、辺境伯というよりは、大陸の「産業規格」を握る独裁者のような威圧感を放っている。
「アルデン。また議会の連中を怒らせるような発明品でも持ってきたの?」
「いいえ、陛下。今回は『発明』ではなく、『制度』です」
アルデンは机の上に、羊皮紙を広げた。
そこに書かれていたのは、蒸気機関の図面ではなく、複雑な法律の条文と、二つの署名欄だった。
「……これは?」
「『王配および産業保護に関する特別条約』です。
通称、我々の『結婚契約書』ですよ、セラフィナ陛下」
謁見の間が、水を打ったように静まり返った。
老宰相が蒼白な顔で叫んだ。
「ば、馬鹿な! 辺境伯、貴様は自分が何者か分かっているのか!? たかが平民上がりの伯爵が、王家の血統に——」
「黙れ、老いぼれ。これは『恋愛』の話ではない。『特許と防諜』の話だ」
アルデンは宰相を一喝し、そしてセラフィナを真っ直ぐに見据えた。
「陛下。西の大国の王子と結婚すれば、彼を通して我が国の『蒸気タービン』や『ライフル銃の施条規格』が、簡単に他国へ流出します。
彼らは『家族』という名のスパイです。
ですが、私と結婚すれば、技術のブラックボックスは王家の内部に留まります。
私は王配として宮廷に入り、裏から『産業防衛省』を立ち上げます。
表向きは陛下が政治と外交を、裏では私が技術と経済の『鍵』を握る。
……これが、大陸の包囲網を破るための、最も合理的な『合併』です」
セラフィナは、机の上の契約書と、アルデンの煤けた瞳を交互に見つめた。
十七歳の少年。だが、その瞳には、大陸を支配する怪物たちの欲望よりも、ずっと冷徹で、ずっと深い「覚悟」が宿っていた。
「……アルデン。貴方は自分が何を差し出そうとしているのか分かっているの?
この契約を結べば、貴方は一生、『女王の飾り』あるいは『煙突の管理人』として、宮廷という牢獄に閉じ込められるのよ。
貴方が愛した自由な辺境の風も、泥にまみれる自由も、すべて奪われるの」
「ええ。ですが、陛下」
アルデンは小さく、しかし確かに笑った。
「四年前、泥の中であなたが私に言ったでしょう。
『この国を、誰も飢えない場所に変えてほしい』と。
……私の自由など、そのための『燃料』に過ぎません。
あなたが王冠の重さを背負うなら、私はその王冠が錆びつかぬよう、油を差し続けましょう。
これは、求婚ではありません。『共犯者』としての、最後の契約です」
セラフィナの瞳が、微かに震えた。
彼女はインクの瓶を取り、そして羽根ペンを掴んだ。
「……分かったわ、私の共犯者。
だが、条件が一つ。宮廷のしきたりなど無視してちょうだい。貴方は貴方のやり方で、この国の『歯車』を回しなさい。
そして、もし貴方が私を裏切り、この国の民を犠牲にするようなことがあれば——」
「その時は、あなたのその手で、私の喉を掻き切ってください。
ですが、それまでは、私はあなたの『盾』であり、『剣』であり続けます」
セラフィナは、契約書の署名欄に、力強くその名を刻んだ。
『セラフィナ・ヴェラム』
そして、ペンをアルデンへと差し出す。
アルデンもまた、迷うことなく署名をした。
『アルデン・ヴェラム』
それは、恋や愛などという曖昧な感情ではなく、二つの「意志」と「規格」が完全に噛み合った瞬間だった。
インクが羊皮紙に染み込み、新しい時代の「礎」となる。
***
その夜。
王宮のバルコニーで、アルデンとセラフィナは、王都の夜景を見下ろしていた。
形式だけの結婚式を明日に控え、二人の間には、奇妙なほど落ち着いた空気が流れていた。
「……本当に、私たちは結婚するのね」
セラフィナが、夜空の星を見上げながら呟いた。
「ええ。書類上は」
「貴方、本当に愛想がないわね。普通の男なら、もう少しときめくようなことを言うものじゃないの?」
「ときめきなど、ボイラーの圧力計が振り切れる時だけで十分ですよ、陛下。
……ですが」
アルデンは、自分の煤けた手と、セラフィナの華奢な手を並べた。
「この手が、あなたの王冠を守る。それ以上の『愛の言葉』など、私には思いつきません」
セラフィナは小さく笑い、そしてアルデンの肩に、そっと頭を預けた。
それは、王者としての仮面を脱ぎ捨てた、ただの二十一歳の少女の、最初の「休息」だった。
「……ありがとう、アルデン。
明日からは、地獄のような宮廷生活が始まるわよ。覚悟してね」
「ええ。ですが、泥沼を抜けてきた私です。宮廷の罠など、ただの『設計ミス』に過ぎませんよ」
王都の空に、工場の煙が静かに昇っていく。
それはもはや、貧しさの象徴ではない。
二人の「共犯者」が、この世界を根底から作り変えるための、永久機関の煙だった。




