冬狼の遠吠えと、雪解けの焦土
真冬の吹雪は、人の視界と感覚を奪い、そして「音」を殺す。
エルムフォードの北に位置するオック村。
領地内で最も多くの「耐寒性麦」を備蓄しているこの村の鐘楼が、深夜に三度、不規則に鳴った。
『敵襲。しかも、正面からの軍勢ではない』という意味の合図だ。
「——来たな。帝国の『冬狼』どもが」
俺は領主館の作戦室で、リラが運んできたばかりの急報を暖炉の火に翳しながら呟いた。
泣き岩での大敗後、帝国は重装歩兵による正面突破を諦め、少人数の精鋭によるゲリラ戦術へと切り替えてきた。
白装束を纏い、カンジキとスキーで雪原を疾走し、村を焼き、備蓄を奪い、そして雪の中に消える。
正規軍の誇りを捨てた「殺戮者」たちだ。
「カイル兄上。準備は?」
「いつでもいい。……だが、アルデン。本当にあの備蓄庫でいいのか? あそこには村の冬の命である麦が山積みになっているぞ」
カイルは鎧の上に白いマントを羽織り、苛立ちを滲ませた。
「あの備蓄庫の麦は、すでに『腐らせて』あります。表面だけ本物で、中身は水を含ませて発酵させた『毒麦』と、泥を混ぜただけの偽物です。
帝国兵が飢えてそれを食えば、三日は動けなくなる。そして、備蓄庫の周囲の雪の下には——」
「ああ、分かっている。お前の嫌らしい『贈り物』がな」
カイルはニヤリと笑い、吹雪の夜へと駆け出していった。
***
オック村の備蓄庫。
帝国の特殊部隊「冬狼」の二十名は、音もなく村の外壁を乗り越え、備蓄庫の扉を破壊しようとしていた。
「手早くやれ。辺境の愚民どもが目を覚ます前に麦を奪い、火を放って撤退する」
冬狼の隊長が、白い息と共に囁く。
彼らは泣き岩の復讐に燃える精鋭中の精鋭だ。だが、彼らが扉を蹴り破り、中へ飛び込んだ瞬間——
「……なんだ、これは? 麦の匂いがしない!」
隊長が袋を切り裂くと、中からドロドロの黒い泥と、刺鼻な腐敗臭が噴き出した。
「罠だ! 撤退しろ!」
隊長が叫んだ時、備蓄庫の周囲の雪原が、突如として「崩落」した。
俺が事前に掘らせておいた「隠し壕」の蓋が外れ、そこから八十名の民兵たちが、石炭と獣脂を塗った「焼夷矢」を構えて立ち上がったのだ。
「放て!」
カイルの号令と共に、火の矢が吹雪を赤く染めながら、冬狼たちの退路を塞ぐように降り注いだ。
白装束は雪の中では完璧なカモフラージュになるが、火と煙の前ではただの「的」だ。
「くそっ、囲まれたか! だが、我々は帝国の精鋭だ! 農民ごときの包囲、突破するぞ!」
隊長が彎刀を抜き、火の壁に向かって突撃しようとしたその時、足元で「咔嚓(咔嚓)」と嫌な音がした。
「……氷?」
雪の下は、ただの土ではない。
俺が秋のうちに村の周囲に水を撒き、わざと凍らせておいた「リンク(氷の堀)」だ。
カンジキを履いていても、傾斜のついた氷の上ではまともに走れない。冬狼たちは次々と滑り、転倒し、そこに民兵たちの木槍が容赦なく突き刺さる。
「ぐああ!」「隊長、足場が悪すぎる!」
「……貴様ら、騎士の誇りはないのか! 正面からかかってこい!」
隊長が血走った目で、馬に乗って現れたカイルを睨みつけた。
カイルは馬上から、泥と血にまみれた農民たちが、必死に氷の堀を守っている姿を見下ろし、静かに剣を抜いた。
「誇り? 勘違いするな、帝国の犬。
ここにいるのは、お前たちを倒すための『泥の中の杭』だ。
杭に誇りなどない。あるのは、お前たちの足をへし折るための『硬さ』だけだ!」
カイルは馬から飛び降り、氷の上を滑るようにして隊長の懐へ飛び込んだ。
騎士の剣技ではない。森の猟師や、泥濘の中で生きる農民たちの「足払い」と「重心を崩す技術」を取り入れた、辺境の殺法だ。
隊長の彎刀がカイルの頬を掠めるが、カイルは構わず氷ごと隊長の膝を砕き、その喉笛を剣で貫いた。
「……がっ、く……」
「地獄で、泣き岩の仲間たちに詫びるがいい」
冬狼の部隊は、隊長を失い、氷と火と毒麦に囲まれて、一人残らず殲滅された。
***
翌朝。
作戦室には、捕らえた冬狼の副官と、彼らが持っていた「暗号化された進軍計画書」が置かれていた。
「……吐け。春の雪解けと共に、帝国の本隊がどう動くつもりだ」
俺は副官の顎を掴み、冷たく問いかけた。
「ふざけるな……小僧。皇太子殿下は、お前たち如きの罠をすでに見抜かれている。
春になれば、五万の本隊が国境を越える。そして、お前たちの『泥沼』を埋め立てるための『一万の工兵』と、お前の領主館を瓦礫に変える『攻城砲』を連れてくるのだ……! お前たちに勝機などない……!」
副官は血を吐きながら嘲笑し、そして guards(衛兵)に連行されていった。
カイルが、机の上の進軍計画書を見て顔を強張らせた。
「……一万の工兵だと? 奴らは、泣き岩の泥沼を『土嚢』と『丸太』で埋め立てて進むつもりか。
そして攻城砲……あれが領地に撃ち込まれれば、俺たちの『罠』など意味をなさん。正面から押し潰される」
「ええ。敵は学びました。だから、我々も『次のフェーズ』へ移ります」
俺は立ち上がり、地図の「銀の街道」からさらに南、王都へと続く平野部を指差した。
「泥沼が通用しないなら、泥沼での戦いはやめます。
我々が次の戦場とするのは——『焦土』です」
***
その時、モリッツが血相を変えて飛び込んできた。
「アルデン様! 王都から……セラフィナ殿下の『密使』が参りました! 殿下ご自身の手紙です!」
俺は封を切り、そこに書かれた文字を追った。
セラフィナの筆跡は、いつもの冷静さを失い、わずかに震えていた。
『アルデン。王都の貴族たちは、オルヴァーネの商会と結託し、春の侵攻に合わせて南の港から「国外逃亡」する計画を立てている。
彼らは王都の金庫を空にし、民衆を見捨てるつもりだ。
父様(国王)は王都に残り、三千の近衛兵と共に玉砕する覚悟を決めた。だが、それでは国が終わる。
私は、王都の「城門」を貴族たちに対して「閉鎖」する。彼らの財産と食料を武力で没収し、傭兵を雇う。
だが、そのためには「時間」が必要だ。
アルデン、貴方の八百の兵で、五万の帝国軍の足を「一ヶ月」止めなさい。
貴方が時間を稼げば、私はこの国を「貴族のもの」から「民衆のもの」へと作り変える。
——これは命令ではない。共犯者への、最後の賭けだ。S』
俺は手紙を暖炉にくべ、燃え上がる炎を見つめた。
「……王都の貴族たちが逃げ出すだと? ふざけるな!」
カイルが机を殴りつけた。
「俺たちが泥を啜り、血を流している間に、奴らは金を持って逃げると言うのか!
アルデン、王都へ援軍を送れと言うのか? だが、領地を空ければ、ここに残った民が帝国に虐殺されるぞ!」
「王都へは行きません、兄上。そして、領地も『空』にします」
俺はカイルの目を真っ直ぐに見据えた。
「全領民に『南への疎開』を命じます。そして、我々が去った後の村々、畑、そしてこの領主館——すべてに火を放ちます」
「……焦土作戦、か」
「ええ。帝国の五万の軍勢が、一万の工兵で泥沼を埋め立て、やっとの思いで辿り着いた先にあるのは、灰になった村と、毒が撒かれた井戸だけ。
食料も、薪も、隠れる家もない。
雪解けの春嵐の中、五万の兵士は飢えと寒さで次々と倒れていく。
我々は、自分たちの手で、自分たちの家を焼く。これが、大国の軍隊を殺す唯一の方法です」
カイルは言葉を失った。
領民たちにとって、家と畑は命そのものだ。それを「焼け」と命令することは、領主として最も忌避される行為だ。
「……民が、承知すると思うか?」
「承知させます。それが、私の『参謀』としての最後の仕事です」
***
三日後。領地の広場。
雪が降りしきる中、全領民が集められた。
俺はバルコニーに立ち、王家の短剣を抜き、そして自分の頬に、自ら剣の刃を当てて血を流した。
「聴け、辺境の民よ!」
俺の声は、吹雪を切り裂いて響いた。
「春が来れば、帝国の五万の怪物が、お前たちの家を踏み潰し、娘を攫い、息子を奴隷にするためにやってくる!
我々の兵力は八百。正面からぶつかれば、全滅し、お前たちの家族も皆殺しにされる!
だが、奴らに『食うもの』を与えなければ、奴らは必ず飢えて死ぬ!」
民衆がざわめき、恐怖と困惑の目で俺を見上げている。
「私は、非情な命令を下す!
春の雪解けと共に、全領民は南の森の隠し砦へ疎開する。そして——我々の家、畑、そしてこの領主館に、自らの手で火を放て!」
「……ば、馬鹿な……!」
「俺たちの麦を……家を……!」
「アルデン様、それだけは……!」
悲鳴と怒号が広場に渦巻いた。
カイルが、俺を庇うように剣に手をかける。だが、俺はそれを手で制した。
「恨むなら、私を恨め! 私を臆病者、狂人と呼べ!
だが、お前たちの命と、お前たちの子供たちの未来は、私が必ず守る!
家など、私が必ず取り戻してみせる! だから今は、生き延びるために、すべてを灰にしろ!」
俺は叫び、そして深く頭を下げた。
十二歳の少年が、血を流しながら民に「破壊」を懇願している。
広場は、水を打ったように静まり返った。
やがて、一人の老人——オック村の長老が、杖をついて前に出た。
「……アルデン様。あんたが、泥まみれになって俺たちを守ってくれたことは、この目に焼き付いている。
あんたが『焼け』と言うなら、俺は自分で屋根に火を放とう。
だが、約束してくれ。春が過ぎ、雪が溶けたら、必ず俺たちを『家』へ帰してくれると」
「……約束します。私の命に代えても」
長老が頷くと、民衆たちは互いに顔を見合わせ、そして静かに、しかし力強く拳を握りしめた。
春は、もうすぐそこだ。
雪解けの水は、灰となった大地を潤し、そして帝国の五万の兵士を、底なしの「飢餓」という地獄へといざなうだろう。
俺たちの「焦土の戦争」が、今、始まる。




