第11話:俺の名前は高橋健太。三十二歳のおっさんでした
朝が来た。
いつものように目を覚まし、いつものように枕を抱えた横向きの姿勢から体を起こす。いつものように胸の重さを感じ、いつものように銀髪が顔にかかる。
いつもと違うのは、胃の底に鉛を飲んだような重さがあることだった。
「……今日、話すんだ」
鏡の前に立つ。銀髪碧眼の美少女が、不安げな顔でこちらを見ている。
この顔の裏に、三十二歳のおっさんがいる。
それを、今日、打ち明ける。
着替えを済ませ、ネックレスをつける。昨日セレナと一緒に買った蒼い石が、鎖骨の上でそっと光った。
深呼吸。
「よし」
部屋を出た。
◇ ◇ ◇
朝食の約束は、宿屋の食堂。
階段を降りると、セレナとフィーネがすでにテーブルについていた。
「おはよう、リーナちゃん」
「おはようございます、リーナさん!」
「おはよう」
いつも通りの挨拶。いつも通りの笑顔。
セレナの目が一瞬だけ揺れたのは、昨日の告白の余韻だろう。だがすぐにいつもの表情に戻り、何事もなかったように朝食のパンを千切った。大人だ。
「今日はオフの延長にしましょうか。昨日のリーナちゃん、まだ魔力の回復が完全じゃなさそうだったし」
「うん。……それで、今日、二人に話したいことがあるんだ」
セレナの手が止まった。
フィーネがパンを咥えたまま、こちらを見た。
「前に言った、俺の秘密。今日、全部話す」
静寂。
食堂のざわめきが、遠くに聞こえる。
「……場所を変えましょうか」
セレナが静かに言った。
「人目のないところがいいわよね」
「うん」
「昨日の丘は?」
「……そこがいい」
フィーネは何も言わなかった。ただ、真剣な顔で頷いた。
◇ ◇ ◇
街外れの丘。
昨日、セレナに告白された場所。
三人でベンチに座る。俺が真ん中、左にセレナ、右にフィーネ。
朝の風が、銀髪を揺らした。
眼下には街並みが広がり、遠くの山脈が朝日に照らされている。穏やかな景色だった。
「……どこから話せばいいかな」
口を開いたものの、言葉が詰まる。
何度もシミュレーションした。夜中に何パターンも考えた。でもいざ二人を前にすると、喉が張りついたように動かない。
「最初から、でいいわよ」
セレナが穏やかに言った。
「ゆっくりで大丈夫ですよ、リーナさん」
フィーネが膝の上で拳を握りしめながら、にっこりと笑った。緊張しているのは俺だけじゃないらしい。
「…………わかった」
息を吸う。吐く。もう一度吸う。
そして。
「俺の――私の本当の名前は、高橋健太。前の世界では、三十二歳の男だった」
言った。
言ってしまった。
空気が凍るのを覚悟した。悲鳴を、拒絶を、嫌悪を。
だが、二人は黙って俺を見ていた。
続けるしかなかった。
「日本っていう国の、東京っていう街で生まれた。どこにでもいる普通の男で、普通に学校を出て、普通に会社に就職した。趣味はアニメとラノベで、友達は少なくて、彼女ができたことは一度もなかった」
言葉が溢れ出す。堰を切ったように。
「会社ではずっとデスクワークで、毎日朝から終電まで働いて、休みの日も呼び出されて。それでも文句を言えなかった。代わりはいくらでもいるって、わかってたから」
前世の記憶が、鮮明に蘇る。
灰色のオフィス。光のないモニター画面。コンビニ弁当の味。満員電車の匂い。
「気づいたら、何のために生きてるのかわからなくなってた。朝起きて、会社に行って、仕事して、帰って、寝て。それの繰り返し。誰にも必要とされてなくて、いなくなっても誰も困らない。そんな毎日だった」
声が震えていた。止められなかった。
「三十二歳の冬。終電間際の駅のホームで、意識がブラックアウトした。過労死だったんだと思う。それが、高橋健太の最後の記憶」
フィーネが小さく息を呑む音が聞こえた。
「次に目を覚ました時、俺はこの世界の、この森の中にいた。体が変わってた。男から女に。三十二歳のおっさんから、十六歳の美少女に。胸がでかくて、髪が長くて、声が高くて。何もかもが違ってた」
自分の手を見下ろす。細い指。白い肌。
「最初は混乱した。パニックだった。夢だと思いたかった。でも、夢じゃなかった。この胸も、この体も、この声も、全部本物だった」
一度、言葉を切った。
「それから一ヶ月半。冒険者になって、セレナに出会って、フィーネちゃんに出会って。戦って、笑って、泣いて。この体で、この世界で、生きてきた」
顔を上げて、二人を見た。
「俺は――元は、三十二歳の男です。中身は今でもおっさんのままだ。女の体に慣れてきてはいるけど、時々一人称が『俺』に戻るのも、男みたいな反応をしちゃうのも、全部そのせいだ」
セレナを見る。
「温泉で目をそらしたのも、寝袋で心臓がばくばくしたのも。元男として、女の人と密着することにドキドキしてたからだ」
フィーネを見る。
「体の動きがぎこちないのに戦闘感覚だけ染みついてるって見抜いたの、正解だよ。この体には慣れてないけど、三十二年分の判断力と社会経験だけはあるから」
二人の顔を、交互に見た。
「……これが、俺の秘密。気持ち悪いと思うなら、パーティーを抜ける。二人の人生に泥を塗りたくない。だから正直に全部――」
「リーナちゃん」
セレナの声が、俺の言葉を遮った。
「ひとつ聞いていい?」
「……なに」
「あなたが温泉で私の背中を洗ってくれた時の手つき。嵐の夜に、私の隣で眠れなくて起きてた時の表情。昨日、手を繋いだ時の指の震え。あれは全部、本物?」
「…………本物だよ」
「じゃあ、何も変わらないわ」
セレナが微笑んだ。
泣いていた。笑いながら、涙を流していた。
「高橋健太さんでも、リーナちゃんでも、三十二歳でも十六歳でも、男でも女でも。私が好きになったのはあなたよ。隣で戦って、隣で笑って、隣で眠った、この人」
「セレナ……」
「むしろ合点がいったわ。あなたの落ち着きとか、判断力とか、時々見せる寂しそうな目とか。全部、三十二年間生きてきた重みだったのね」
セレナの手が、俺の手を握った。昨日と同じ温もり。でも、今日はもっと強い。
「リーナさん」
反対側から、フィーネの声。
振り向くと、フィーネも泣いていた。大きな琥珀色の瞳から、ぼろぼろと涙が落ちている。
「フィーネちゃん……ごめん、驚かせて……」
「違います。驚いてません。いえ、驚いてますけど。でも、泣いてるのはそれじゃなくて」
フィーネが、ぐしぐしと袖で涙を拭いた。
「リーナさんが、前の世界で、一人で苦しんでたと思ったら、悲しくて……」
「え……」
「誰にも必要とされてないって思ってたんですよね。いなくなっても誰も困らないって。そんなの、悲しすぎます」
フィーネが俺の右手を両手で握りしめた。小さくて、温かくて、力強い手。
「リーナさんは、私に必要です。リーナさんがいなかったら、私は初日にあの人たちに馬鹿にされて、心が折れてたかもしれない。パーティーにも入れてもらえなかった。リーナさんが声をかけてくれたから、私は今ここにいるんです」
「フィーネちゃん……」
「男だったとか、三十二歳だったとか、そんなの全然関係ないです。リーナさんはリーナさんです。私の大好きなリーナさんです。それは絶対に変わりません!」
だめだ。
泣く。
これは泣く。
目頭が熱くなって、視界がぼやけて、頬を温かいものが伝い落ちた。
「っ……」
堪えようとしたが、無理だった。一粒落ちたら、もう止まらなかった。
三十二年間、泣いたことなんてほとんどなかった。男は泣くなと言い聞かせて、辛いことがあっても顔に出さず、一人で飲み込んできた。
でも今は、もう我慢しなくていい。
そう思ったら、涙が止まらなかった。
「う……っ、ぅ……」
「よしよし。泣いていいのよ」
セレナが俺の頭を抱き寄せた。銀髪が金髪に混じる。セレナの肩に顔を埋めると、優しい匂いがした。
反対側からフィーネが背中に抱きついてきた。小さな体が、温かかった。
「リーナさん、もう一人じゃないです。私たちがいます」
「……うん」
「泣き止んだら、もっと聞かせて。リーナさんのこと、全部知りたい」
「……うん」
丘の上で、三人が抱き合っている。
泣いている美少女が一人と、それを包み込む二人。
知らない人が見たら、感動的な場面に見えただろう。
中身が三十二歳のおっさんだとは、誰も思うまい。
しばらくして、ようやく涙が落ち着いた。
「……ごめん。みっともないとこ見せた」
「何言ってるの。こういうのは素直に泣いた方がいいのよ」
「リーナさんの泣き顔、初めて見ました。すごく綺麗でした」
「泣き顔に綺麗も何もないよ……」
「あるわよ。あなたの泣き顔、本当に綺麗だった」
セレナが俺の涙を指で拭った。
その仕草が、やけに優しくて。また泣きそうになるのを、ぐっと堪えた。
「……ひとつ聞いてもいいですか」
フィーネが、少し恥ずかしそうに聞いてきた。
「なに?」
「三十二歳のおじさんだった頃のリーナさんって、どんな見た目だったんですか?」
「……普通だよ。身長百七十二センチ、やせ型、顔は中の下。特徴は特になし」
「想像つかないです……」
「でしょうね」
「今のリーナさんしか知らないから、男の人のリーナさんって言われてもピンとこないです」
「それは俺もだよ。もう前の自分の顔、あんまり思い出せない」
本当のことだった。鏡を見るたびに映るのは銀髪の美少女で、前世の自分の顔は記憶の中でぼやけ始めている。
「ねえ、リーナちゃん」
セレナが言った。
「昨日の私の告白の返事、今日じゃなくていいって言ったけど。今の話を聞いて、ひとつだけ確認させて」
「……なに」
「あなたは元男として、女の私に好意を持たれて、困ってる?」
まっすぐな質問だった。
「……最初は困った。正直に言えば。元男の自分が女性を好きになるのは普通のことだけど、今の自分は女で、それって百合じゃんって」
「ふふ。百合って言葉、この世界にはないわよ」
「あるんだよ、俺の世界には。女の子同士の恋愛を指す言葉」
「へぇ。素敵な言葉じゃない」
「……うん。素敵な言葉、なのかもな」
空を見上げた。雲ひとつない青空。
「でも、昨日一晩考えて、思ったんだ。元が男とか女とか、今が男とか女とか、そんなの関係ないんじゃないかって。好きになった相手が、たまたまセレナだった。それだけのことなんじゃないかって」
セレナの手を、握り直した。
「まだ、はっきりとした答えは出せない。でも、セレナのことが大切だっていう気持ちは、本物だから」
「……十分よ」
セレナが目を細めた。朝日に照らされた金髪が輝いて、眩しかった。
「待つって言ったでしょ。あなたのペースでいいの」
「……ありがとう」
「あのっ!」
フィーネが勢いよく手を挙げた。
「私もリーナさんのこと大好きです! 恋愛的な意味かどうかはまだわかりませんけど、でも大好きです! 元男とか関係ないです!」
「……ありがとう、フィーネちゃん」
「あと、私の方が胸が大きくなる可能性はありますか!?」
「話の温度差!」
「だって気になるんです! リーナさんは転生で大きくなったんですよね!? つまり努力じゃないってことは、私にもワンチャン……」
「ないと思う。たぶん」
「そんなぁ……」
さっきまでの感動的な空気が、一瞬で吹き飛んだ。
でも、それでいい。
これが、俺たちだ。
「さて」
セレナが立ち上がった。
「秘密も打ち明けたことだし、これからはもっと遠慮なく行けるわね」
「遠慮なくって、何を」
「色々よ。ね、フィーネちゃん」
「はいっ! リーナさんの前世の話、もっともっと聞きたいです! アニメって何ですか!? ラノベって何ですか!?」
「それは長くなるから、また今度な」
三人で丘を下りる。
朝の光が、街並みを照らしていた。
胸の奥の鉛が、すっかり消えていた。代わりに、温かいものが満ちている。
秘密はもうない。
全部さらけ出して、それでも二人は隣にいてくれた。
高橋健太でも、リーナでも。
三十二歳のおっさんでも、十六歳の美少女でも。
俺は俺だ。
この仲間たちと一緒にいる、今の俺が。
一番好きな自分だ。
「――嫌いじゃない、じゃなくて」
小さく呟いた。
「好きだよ。今の俺のこと」
セレナとフィーネには聞こえなかったかもしれない。
でも、自分には聞こえた。
それで、十分だった。
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