第1話:目覚めたら知らない天井……ではなく、空だった
――死んだ。
確かに死んだはずだった。
終電間際の駅のホームで、意識がブラックアウトしたのを最後に、俺の人生は終わったはずだ。三十二歳、独身、彼女なし。趣味はアニメとラノベ。高橋健太という、どこにでもいる社畜サラリーマンの人生が。
だから目を覚ました時、最初に感じたのは困惑だった。
視界に広がるのは、やたらと青い空。雲ひとつない快晴。木々の隙間から差し込む陽光が、やけに眩しい。
「……は?」
声を出して、二度目の困惑。
――なんだ、この声。
高い。明らかに高い。俺の声じゃない。まるで、アニメの女性声優みたいな澄んだ声が、自分の喉から出ている。
慌てて体を起こそうとして。
ぶるん、と。
重力に従って、何かが揺れた。
「…………え?」
視線を下に落とす。
そこには、あった。
ぱつんぱつんに張った白い布の下で、明らかに物理法則を超えた存在感を放つ、ふたつの膨らみが。
「――は?」
恐る恐る、右手を伸ばす。指先が触れた瞬間、柔らかな感触が手のひらに広がった。
ふにっ。
「ひゃっ……!?」
思わず変な声が出た。しかも、やたらと色っぽい声が。
いや待て。落ち着け高橋健太。これは夢だ。過労で倒れて、今は病院のベッドの上で、疲れた脳が見せている幸せな幻覚に違いない。
もう一度、確認のために触る。
ふにふに。
「んっ……あ、ちょっ……」
敏感すぎないか。そしてでかい。片手に収まらないどころか、両手でも溢れそうなほどの大きさ。Gカップはあるんじゃないか。いやなんで俺は冷静にカップ数を推定してるんだ。
混乱したまま、自分の体を見下ろす。
細い首。白い肌。華奢な肩。そこから続くありえないプロポーション。くびれたウエストに、なめらかな脚線美。服装は簡素な白いワンピースのようなもので、体のラインがはっきりと出ている。
そして当然のように――あるべきものが、ない。
股間に手を当てて確認した時、俺の中で何かが崩壊した。
「……マジか」
呟いた声は、やはり可憐な少女のものだった。
冷静になれ。整理しよう。
一、俺は死んだ(たぶん過労死)。
二、目覚めたら森の中にいた。
三、体が女になっていた。
四、しかも爆乳。
五、あるべきものがない。
導き出される結論はーー。
「異世界転生で、TSかよ……」
ラノベの読みすぎだろ、と自分でツッコミたくなる状況だった。だが現実として、この柔らかすぎる胸の感触は幻覚では説明がつかない。重力を感じる。質量がある。揺れる。特に歩くたびに揺れる。
とりあえず立ち上がろうとして、重心の違いによろめいた。胸が重い。これを毎日支えている世の女性は偉大すぎる。
「くっ……歩くだけで揺れるの、こんなに大変なのか……」
一歩踏み出すたびに、ぷるんぷるんと揺れる胸。その振動が背中まで伝わってくる。巨乳って、こういうものなのか。
近くに小川を見つけて、水面を覗き込んだ。
「――」
息を呑んだ。
銀色の長い髪。透き通るような白い肌。大きくて潤んだ碧色の瞳。小さな鼻に、薔薇色の唇。顔のパーツひとつひとつが芸術品のように整っている。
控えめに言って、美少女だった。
控えめに言わなくても、めちゃくちゃ美少女だった。
「これが……俺?」
水面に映る少女が、同じ言葉を紡ぐ。ぱちぱちと瞬きをすると、長い睫毛が光を弾く。
三十二年間男として生きてきた俺が言うのもなんだが、この顔面偏差値はヤバい。前世で推していた声優さんにも負けないレベルだ。
しかし見惚れている場合ではない。
ここがどこかもわからないし、食料も武器もない。唯一持っているのは、この無駄に発育のいい体ひとつだけ。
「ステータスオープン」
ダメ元で言ってみた。
すると――目の前に半透明のウィンドウが現れた。
「マジで出たし!」
テンプレ異世界転生かよと思いつつ、表示された内容を確認する。
┌─────────────────┐
名前:リーナ
種族:人族(転生者)
年齢:16
性別:女
HP:150/150
MP:980/980
攻撃力:45
防御力:38
魔力:320
素早さ:67
スキル:
・全属性魔法適性 Lv.1
・鑑定 Lv.3
・言語理解(自動翻訳)
・収納魔法 Lv.1
・魅了耐性 Lv.5
称号:
【異世界転生者】
【神に愛された者】
└──────────────────┘
「リーナって……勝手に名前つけられてるし。っていうか性別のところ、堂々と『女』って書いてあるんだが」
抗議する相手もいないまま、俺はステータスを眺めた。
魔力が異常に高い。たぶんこれがいわゆるチートというやつだ。物理は弱そうだが、魔法特化型ということか。
魅了耐性が最初から高いのは、この見た目に対する神様なりの配慮だろうか。ありがたいのか、ありがたくないのか微妙なところだ。
「とりあえず、人里を探すか……」
森の中をさまよい始めて数分。
早速、問題に気づいた。
走れない。
正確には、走ると胸が暴れまわって痛い。
「いたたたっ……! ブラがない! ブラがないのに走るのは自殺行為だった……!」
胸を両手で押さえながら小走りする姿は、客観的に見ればきっとかなり扇情的な光景だったに違いない。だが本人は真剣そのものだ。
この世界に来て最初の目標が決まった。
ブラジャーを手に入れる。
……異世界冒険の始まりとしては、あまりにも情けなかった。
◇ ◇ ◇
森を歩くこと約一時間。
ようやく、街道らしき道に出た。そこから更に歩いて、遠くに街の城壁が見えてきた頃には、もうへとへとだった。
慣れない体、慣れない重心、慣れない胸の重さ。しかもこのワンピース、下着をつけていないから歩くたびに布地が肌に擦れて妙な感覚がする。
「……前世では考えもしなかったな、こういうの」
ぼやきながら城門に辿り着くと、門番の兵士がふたり立っていた。
「おい、あんた。入城するなら名前を――」
兵士のひとりが声をかけてきて、俺の姿を見た瞬間、固まった。
「…………」
「…………」
ふたりの兵士が、目を見開いたまま沈黙している。視線は明らかに俺の顔、そして胸のあたりを行ったり来たりしている。
……やめろ。見るな。元男としても、今この体の持ち主としても、非常に居心地が悪い。
「あの、入城したいんですけど」
努めて冷静に声をかける。すると兵士たちはハッと我に返った。
「し、失礼した! 名前と、えーと、目的を……」
「リーナです。冒険者登録をしたくて」
「ぼ、冒険者!? そんな格好で?」
そんな格好、と言われても、このワンピース一枚しか持ってないのだから仕方がない。しかもノーブラだ。走ると揺れるし、風が吹くと布越しに形がくっきり出る。
兵士たちの顔が赤い。めちゃくちゃ赤い。
「ま、まあいい。通っていいぞ。冒険者ギルドは大通りを真っ直ぐ行って、右に曲がったところだ」
「ありがとうございます」
小さく頭を下げた瞬間、重力に従って胸がぷるんと揺れた。兵士たちが同時に目を逸らす。
この体、危険すぎる。
街に入ると、やはり通行人の視線を感じた。男はもちろん、女性までもが振り返る。まあ、このビジュアルでノーブラワンピースだから無理もない。
前世の俺なら道ですれ違ったら三度見するレベルだ。その「三度見される側」に立つ日が来るとは思わなかった。
「ここか……冒険者ギルド」
大きな建物の前で足を止める。
扉を開けると、酒場のような空間が広がっていた。テーブルに座る荒くれ者たち。カウンターに立つ受付嬢。テンプレだ。完全にテンプレだ。
そして俺が一歩踏み入れた瞬間。
ざわ、と。
空気が変わった。
全員の視線が集中する。
「なあ、あの嬢ちゃん見ろよ……」
「すげえ美人……」
「っていうか、胸でけぇ……」
「あんな子が冒険者になるのか?」
ひそひそ声が聞こえてくる。前世の社畜時代、上司の小言はスルーできたが、こういう視線には慣れていない。
顔が熱くなるのを感じながら、カウンターへ向かう。
「あの、冒険者登録をお願いしたいのですが」
受付嬢――二十代後半くらいの眼鏡をかけた女性が、にこやかに対応してくれた。
「はい、ようこそ冒険者ギルドへ。お名前は?」
「リーナ、です」
「リーナさんですね。では、こちらの水晶に手を――」
登録用の水晶に触れると、俺のステータスが表示される。ただし、見えるのは受付嬢だけらしい。
受付嬢の目が見開かれた。
「……魔力320? これは……失礼ですが、リーナさんはもしかして貴族の出身ですか?」
「いえ、ただの転生者です」
「転生者!」
受付嬢の声に反応して、周囲がざわめく。転生者はこの世界でもそこそこ珍しい存在らしい。
「なるほど、道理で……。では、Eランクからのスタートになりますが、よろしいですか?」
「はい、お願いします」
冒険者カードを受け取る。これでこの世界での身分証代わりになるらしい。
「あの、リーナさん。差し出がましいようですが……」
受付嬢が少し言いにくそうに口を開いた。
「その格好で冒険は少し……その、防具もですが、まずは下着をちゃんとお求めになった方が……色々と大変でしょう?」
顔を赤くしながら言われた。やはりわかるのか、ノーブラだと。
「……そうですよね。服屋さんってどこにありますか?」
「大通りのふたつ先の角を左に曲がったところに、女性向けの衣料品店がありますよ」
「ありがとうございます。助かります」
本当に助かる。この受付嬢は女神か。
ギルドを出て、教えてもらった店へ向かう。
「いらっしゃい、お嬢さん。あら、まあ……」
店主のおばちゃんが、俺の胸元を見て目を丸くした。
「あんた、すごいわねぇ。うちの店でも最大サイズになるかもしれないわ。ちょっと測らせて」
「え、あ、はい」
奥の試着室に連れていかれ、ワンピースの上部を下ろすよう言われる。
胸を露出した瞬間、おばちゃんが「ほぉー」と感嘆の声を上げた。
「若いのに立派ねぇ。形もいいし。これは、男どもが放っておかないわよ」
「は、はぁ……」
中身は三十二歳男なので、褒められても複雑な気分だ。
採寸してもらい、この世界のブラジャーに相当する胸当て――「バストサポーター」なるものを購入。ついでに下着一式と、動きやすい冒険者風の服も揃えた。
収納魔法のおかげで荷物は問題ない。手持ちの金は、ポケットに入っていた銀貨数枚。これもたぶん神様の配慮だ。
試着室で着替える。
胸当てをつけた瞬間の安心感は、ちょっと言葉にできないものがあった。
「おお……揺れない。揺れないぞ……!」
小さくジャンプしてみる。多少は揺れるが、さっきまでの無法地帯とは比べ物にならない。人類の叡智に感謝だ。
冒険者風の服に着替えて鏡を見る。
白いブラウスに茶色のコルセット、黒いショートパンツにニーハイブーツ。腰にはベルトポーチ。なかなか様になっている。
……ただ、コルセットのせいで胸が強調されて、谷間がすごいことになっているのだが。
「うん、可愛いじゃない。似合ってるわよ」
おばちゃんがサムズアップしてくれた。
「ありがとうございます」
元男だが素直にちょっと嬉しい自分がいて、それに気づいて少しだけ危機感を覚えた。
この体に、馴染んできている。
それが良いことなのか悪いことなのか、まだわからない。
でも――少なくとも今は。
「よし。異世界生活、始めますか」
鏡の中の美少女が、不敵に笑った。
こうして、元社畜サラリーマン・高橋健太改めリーナの、波乱万丈な異世界冒険者ライフが幕を開けたのだった。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
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