ボーナス章2:トンネル
「……いや」
アリスの声は震えていたが、視線は逸らさなかった。
母の手が、彼女の肩を強く掴む。
「アリス、よく聞いて」
「聞かない」
アリスは首を振った。
「行くなら、一緒だよ。お母さん。お父さん。みんなで」
石造りの広間が、かすかに揺れた。
遠くから、怒号、魔法の衝突音、鋼が石を打つ音が反響してくる。
――もう時間がない。
母はアリスと同じ目線まで腰を落とした。混乱の中でも、その瞳は揺れていない。
「できないの」
彼女は静かに言った。
「全員で逃げたら、誰も生きて外に出られない」
アリスの息が詰まる。
「じゃあ……じゃあ、一緒に戦おう」
母は微笑んだ。
小さく、疲れていて、それでも優しすぎる笑みだった。
「私たちの役目はね」
そう言って、アリスの髪をそっと払う。
「あなたを生かすことよ」
背後で、父が無言のまま立っていた。
片手に杖を握りしめ、顎を強く噛み締めている。
その目はすでに遠く、アリスには見えない一線を越えてしまったかのようだった。
「私たちが食い止める」
母は続けた。
「ほんの少しの間だけ」
アリスは必死に首を振る。
「いや……お願い。静かにする。足手まといにならないから」
父が、ようやくアリスと目を合わせた。
一度だけ。
そして、そっと手を上げ、合図を送る。
母は目を閉じた。
「ごめんね」
そう囁いた瞬間――
温かさが、アリスを包み込んだ。
世界が傾き、手足が重くなる。
「眠りなさい」
母の声は、今にも壊れそうだった。
アリスは声を出そうとした。
手を伸ばそうとした。
だが視界が滲み、闇が端から迫ってくる。
倒れる前に、母が抱き留めた。
「幸せに生きて」
母は額を寄せ、囁く。
「アウレリオンの名に恥じない人生を。笑って、学んで、他人に優しく」
涙が、アリスの頬に落ちた。
「愛しているわ」
慣れた手つきでアリスを抱え上げ、壁の裏に隠された細い通路へと寝かせる。
母の手の下で、ルーンが光を放つ。
結界が形成される。
風が渦を巻く。
アリスの身体は、制御された力に押され、暗い通路の奥へと滑り出した。
母は、振り返らなかった。
地鳴りとともに大地の魔法が発動し、通路は完全に封じられる。
存在していた痕跡さえ、消え去った。
闇に落ちる直前、アリスが感じたのは移動の感覚と――
すでに遠ざかりつつある、母の声の残響だけだった。
鉱山から戻った時、あの少女はまだそこにいた。
川辺に座り、棒で地面に符号を描いている。
整然としていて、迷いがない。計画的な動きだ。
俺は眉をひそめた。
意味のない落書きじゃない。
それは簡易的な衛生用の魔法陣だった。
虫を寄せ付けず、臭いを抑え、細菌の繁殖を遅らせる。
粗いが、実用的だ。
魔力運用は非効率な痕跡が見て取れる。
だが――間違いなく、魔法は行使されていた。
……なるほど。
だから、あれだけ古びて継ぎ当てだらけの服を着ていても、彼女は清潔だったのか。
改めて、少女を観察する。
魔法教育を受けた子ども。
迷いのない手つき。どこか慣れた所作。
「……魔導の家系か?」
俺は小さく呟いた。
一つの名が、脳裏に浮かぶ。
――アウレリオン。
強大な血統。
貴族ではなく、純粋な魔導の権威によって影響力を持った一族。
強すぎるがゆえに、危険視されたとも言われていた。
噂を思い出す。
制圧された。
解体された。
王命により、抹消された。
――ストーンウォルド王の名の下で。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
もしそれが事実なら……
この少女は、ただの迷子じゃない。
――生き残りだ。
俺は、まだ地面の模様に集中している彼女を見やる。
自分に向けられた思考など、知る由もなく。
「……考えるのは後だな」
俺は静かに言った。
今は、クエスト完了の報告と――
焼き魚の約束を果たす方が先だ。




