Lesson9「だし人間の部屋訪問」
Lesson9「だし人間の部屋訪問」
健康診断事件から一週間後の金曜日。僕は定時に向けて資料を整理していた。
「上村さん、お疲れ様でした」
雪杉さんがいつものように定時ちょうどに挨拶してくる。
「お疲れ様でした」
「あの……」雪杉さんが少し恥ずかしそうに言う。「お約束していた、だしの作り方なんですが……」
「あ、はい」
先週、屋上で雪杉さんが「お礼にだしの作り方を教える」と言っていたのを思い出した。
「もしよろしければ、今度の土曜日、私の家に来ませんか?」
雪杉さんの家?
「え? 雪杉さんのお宅に?」
「はい。だしは実際に作りながら覚えた方がいいので」
確かに、理論だけでなく実践も大切だろう。でも、女性の一人暮らしの家に行くのは……
「大丈夫ですよ」雪杉さんが僕の迷いを察したように言う。「近所にヨガスタジオもあるので、人の出入りは多いんです」
「分かりました。お邪魔します」
「やった! では、明日の午後2時頃はいかがですか?」
「はい、ありがとうございます」
翌日の土曜日、僕は雪杉さんから教えられた住所を頼りに、小田急線の駅から歩いていた。
「このあたりかな……」
住宅街の中にある古い木造アパート。「ハイツさくら」という看板が見える。
「ここですね」
202号室のインターホンを押すと、雪杉さんの声が聞こえてきた。
「上村さん、いらっしゃい! 今開けます」
ドアが開くと、エプロン姿の雪杉さんが現れた。普段のオフィスカジュアルとは違い、家庭的な雰囲気だ。
「こんにちは。お邪魔します」
「どうぞ、どうぞ」
部屋に入って、僕は驚いた。
「うわあ……」
雪杉さんの部屋は、まさに「だしワールド」だった。
玄関からすぐ見える棚には、煮干し、昆布、椎茸、かつお節などが透明な瓶に入れて綺麗に並べられている。まるでだし専門店のようだ。
「すごいですね……」
「えへへ、ちょっと集めすぎちゃって」雪杉さんが照れながら案内してくれる。
リビングに入ると、さらに驚きの光景が広がっていた。
「これは……」
テーブルの上には、様々な種類のマグカップが並んでいる。大きさも色も形もバラバラで、それぞれに手書きのラベルが貼られている。
「『朝用煮干し』『昼用昆布』『夜用椎茸』……」
僕がラベルを読み上げると、雪杉さんが嬉しそうに説明する。
「はい。時間帯によって、だしの種類を変えるんです」
「時間帯によって?」
「朝は煮干しで目覚めを良くして、昼は昆布でリラックス、夜は椎茸で疲労回復です」
「なるほど……」
キッチンを見ると、そこにはさらに本格的な設備があった。
「あの大きな鍋は?」
「だし専用の鍋です。一度に大量に作って、冷凍保存するんです」
冷凍庫を開けて見せてくれると、中には製氷皿がびっしり並んでいる。
「これ、全部だしの氷ですか?」
「はい。『だしキューブ』です。使いたい時にポンと入れるだけで、すぐにだしが作れるんです」
雪杉さんの だしへの情熱は、想像以上だった。
「では、早速作ってみましょう」
「はい、お願いします」
雪杉さんがエプロンの紐を結び直す。
「まず、基本の煮干しだしから」
雪杉さんが煮干しの瓶を取り出す。
「煮干しは頭と腹わたを取るのが基本です」
「頭と腹わた……」
「はい。苦味が出ちゃうんです」
雪杉さんの手つきが驚くほど慣れている。煮干しを手で割って、中の内臓を丁寧に取り除いていく。
「上村さんもやってみてください」
「はい」
僕も煮干しを手に取るが、なかなかうまくいかない。
「あ、そうじゃなくて……」
雪杉さんが僕の手を取って、煮干しの割り方を教えてくれる。
「こうやって、親指で……」
雪杉さんの手が僕の手に重なる。なんだかドキドキしてしまう。
「できました!」
「上手ですね」
煮干しの下処理が終わると、次は水に浸ける作業だ。
「30分ほど水に浸けてから、火にかけます」
「30分も?」
「はい。急がば回れです」
待っている間、雪杉さんがお茶を入れてくれた。もちろん、昆布だしだ。
「あ、甘いものもありますよ」
雪杉さんが冷凍庫からアイスを取り出した。
「バニラアイス……普通ですね」
「実は」雪杉さんがニッコリ笑う。「これにもだしを垂らすんです」
「え?」
「昆布だしを少し垂らすと、塩味がプラスされて、アイスの甘さが引き立つんです」
(アイスにだし……大丈夫なのかな……)
「試してみませんか?」
雪杉さんが嬉しそうにスプーンでアイスをすくい、昆布だしを一滴垂らす。
「はい、どうぞ」
恐る恐る口に入れると……
「あ……美味しい」
確かに、塩味がアイスの甘さを引き立てている。
「でしょう?」雪杉さんが嬉しそうに言う。「ヨガの先生に教えてもらったんです」
「ヨガの先生、だしにも詳しいんですね」
「はい。『自然の恵みは全て繋がっている』って言ってました」
僕たちはアイスを食べながら、だしの話をした。
「雪杉さんは、いつからだしにこんなに興味を?」
「子供の頃からです」雪杉さんが遠い目をする。
「母が体調を崩した時、祖母がだしの取り方を教えてくれたんです」
「お祖母さんが?」
「はい。『だしは生命力の源』って言ってました」
雪杉さんの表情が優しくなる。
「母の体調も、だしのおかげで良くなったんです。それで、だしの力を信じるようになりました」
「なるほど……」
「外資系で働いてた時も、だしだけは欠かしませんでした」雪杉さんが苦笑いする。「朝5時に起きて、だしを取ってから出勤してました」
「朝5時に?」
「はい。でも、だしがあったから、あの忙しさにも耐えられたのかもしれません」
雪杉さんにとって、だしは単なる調味料ではなく、心の支えだったのだ。
「そろそろ30分ですね」
雪杉さんが時計を確認して、鍋に火をつける。
「沸騰したらアクを取って、弱火で10分煮出します」
「はい」
だしを煮ている間、雪杉さんが部屋を案内してくれた。
「こちらは書斎です」
小さな部屋に入ると、本棚にはヨガと食事に関する本がびっしり並んでいる。
「『だしの科学』『発酵食品の力』『ヨガと食事』……」
「勉強熱心ですね」
「はい。知識は力ですから」
デスクの上には、手書きのノートが置かれている。
「だし日記です」
「だし日記?」
「はい。毎日飲んだだしの種類と、その時の気分を記録してるんです」
ノートを見せてもらうと、確かに細かく記録されている。
『3月15日:朝は煮干しだし。気分爽快。昼は昆布だし。リラックスできた。夜は椎茸だし。疲れが取れた。』
「すごく詳細ですね」
「パターンを分析すると、自分に最適なだしが見つかるんです」
(だしでそこまで分析するのか……)
「あ、だしが出来たみたいです」
キッチンに戻ると、いい香りが漂っている。
「では、味見してみましょう」
雪杉さんが小さなカップにだしを注いでくれる。
「どうぞ」
僕が一口飲むと、確かに美味しい。市販のだしの素とは全然違う、優しい味だ。
「美味しいですね」
「ありがとうございます」雪杉さんが嬉しそうに微笑む。
「今度は昆布だしを作ってみましょう」
昆布だしは煮干しと違って、もっと簡単だった。昆布を水に浸けて、沸騰直前に取り出すだけ。
「昆布は煮すぎると、ぬめりが出ちゃうんです」
「なるほど」
椎茸だしも作って、3種類のだしの飲み比べをした。
「それぞれ全然違いますね」
「そうなんです。煮干しは力強く、昆布は上品で、椎茸は深みがあります」
雪杉さんの解説を聞いていると、だしの奥深さが分かってくる。
「これで基本は覚えましたね」
「はい、ありがとうございました」
「でも」雪杉さんが少し寂しそうな表情を見せる。「一人でやってると、味見してくれる人がいないんです」
「そうですね……」
「上村さんがいてくれると、楽しいです」
雪杉さんの言葉に、僕の心が温かくなった。
「僕も楽しかったです。だしの世界、奥が深いですね」
「でしょう?」
その時、雪杉さんの携帯が鳴った。
「ヨガの先生からです」
電話に出る雪杉さん。
「はい、雪杉です。え? 今日のレッスンでしたっけ? あ、すみません、忘れてました……はい、分かりました」
電話を切って、雪杉さんが困ったような顔をする。
「どうしました?」
「ヨガのプライベートレッスンがあるのを忘れてました」
「そうですか。僕はそろそろお暇しますね」
「あ、でも……」雪杉さんが何か考え込んでいる。
「何かありますか?」
「上村さんも一緒にヨガしませんか?」
「え? 僕がヨガを?」
「はい。ヨガの先生にも会ってもらいたいし、上村さんにもヨガを体験してもらいたくて」
僕は迷った。確かに、雪杉さんがいつも話しているヨガの先生に興味はある。
「分かりました。お邪魔でなければ」
「やった! きっと先生も喜びます」
30分後、雪杉さんのアパートの近くにあるヨガスタジオに向かった。
「ここです」
小さなスタジオだが、とても清潔で落ち着いた雰囲気だ。
「先生、こんにちは」
現れたのは、50代くらいの穏やかな女性だった。
「雪杉さん、こんにちは。こちらの方は?」
「会社の同僚の上村さんです。いつもお世話になってます」
「上村さん、初めまして。田中と申します」
田中先生は、思っていたよりも普通の方だった。もっと神秘的な人を想像していたが。
「雪杉さんからいつもお話を聞いています」
「そうですか。雪杉さんは、とても真面目で素直な生徒さんです」
「先生のおかげで、今の生活があります」雪杉さんが嬉しそうに言う。
「でも、最近は上村さんという良い理解者ができて、安心しています」
田中先生が僕を見る。
「雪杉さんを支えてくださって、ありがとうございます」
「いえ、僕の方が色々教えてもらって……」
「では、一緒にヨガをしましょう」
初めてのヨガは思っていたより難しかった。体が硬い僕は、簡単なポーズでも苦戦する。
「上村さん、無理しないでください」雪杉さんが心配そうに言う。
「大丈夫です……うぐぐ……」
「呼吸が大切です」田中先生がアドバイスしてくれる。
最後の瞑想タイムで、僕は不思議と心が落ち着いた。
「どうでしたか?」レッスン後、雪杉さんが聞く。
「思ってたより良かったです。心が静かになりました」
「でしょう? ヨガの力です」
田中先生も微笑んでいる。
「上村さん、雪杉さんをよろしくお願いします」
「はい」
「彼女は頑張りすぎる傾向があるので、時々休ませてあげてください」
「分かりました」
スタジオを出て、夕日の中を歩きながら、雪杉さんが言った。
「上村さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。だしの作り方も覚えたし、ヨガも体験できて」
「また今度、一緒にだし作りしませんか?」
「はい、ぜひ」
「それと」雪杉さんが嬉しそうに言う。「今日分かったことがあります」
「何ですか?」
「だしとアイスで人は開くってことです」
「だしとアイス?」
「はい。美味しいものを一緒に食べると、心の距離が縮まりますよね」
確かに、今日一日で雪杉さんとの距離がぐっと縮まった気がする。
「今度は上村さんの好きな食べ物も教えてください」
「僕の好きな食べ物……」
「はい。今度は私が、上村さんの心を開いてみせます」
雪杉さんの笑顔を見ていると、なんだか嬉しくなった。
サボりの美学は雪杉さんに学べ。
――だしとアイスで人は開く。
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※この話は全てフィクションであり、実在の人物や団体などとは一切、関係ありません。
※AI補助執筆(作者校正済)