Lesson8「健康診断大逃亡」
Lesson8「健康診断大逃亡」
雪杉さんの過去を知ってから一週間後の火曜日。会社に年次健康診断の案内が掲示された。
「あー、健康診断の季節か」蓮見さんが掲示板を見ながら呟く。
「今年は来週の金曜日ですね」僕が確認する。
「毎年面倒よね。でも、まあ必要だし」
そんな会話をしていると、雪杉さんが青ざめた顔でやってきた。
「上村さん……健康診断って……」
「はい、来週の金曜日です」
「採血……ありますよね……?」
雪杉さんの声が震えている。
「はい、毎年採血はありますね」
「無理です……」
「え?」
「私、針が苦手なんです……」
雪杉さんがガタガタと震え始めた。
「苦手って……そんなに?」
「はい……見ただけで気を失いそうになります……」
確かに、雪杉さんの顔色が悪い。掲示板を見ただけでこの状態だ。
「でも、健康診断は会社の規則で……」蓮見さんが心配そうに言う。
「分かってます……でも……」雪杉さんが震え声で答える。
「何か良い方法を考えましょう」僕が提案する。
「本当ですか?」
「はい。雪杉さんを助けるって約束しましたから」
雪杉さんがほっとした表情を見せる。
お昼休み、僕と雪杉さんは会議室で対策を練っていた。
「針のどこが怖いんですか?」
「全部です……」雪杉さんがだしマグカップを震えながら持っている。「見るのも、刺されるのも、血を取られるのも……」
「いつからですか?」
「子供の頃からです。予防接種でも大暴れしてました」
相当な恐怖症のようだ。
「でも、前の会社では健康診断はどうしてたんですか?」
「実は……」雪杉さんが申し訳なさそうに言う。「毎年、仮病で休んでました」
「仮病?」
「はい。お腹が痛いとか、熱があるとか……」
(それは……まずいのでは……)
「でも、今回はちゃんと受けたいんです」
「どうしてですか?」
「上村さんが『自分を大切にしろ』って言ってくれたから」雪杉さんが真剣な表情で答える。「自分を大切にするなら、健康管理もちゃんとしないといけませんよね」
確かに、その通りだ。
「分かりました。何か方法を考えましょう」
僕は色々なアイデアを考えてみた。
「まず、採血の時に気を紛らわす方法はどうでしょう?」
「気を紛らわす?」
「はい。音楽を聞くとか、好きなことを考えるとか」
「うーん……でも、針が見えたら絶対だめです」
「では、目隠しは?」
「目隠し?」雪杉さんが首を振る。「それも怖いです……」
なかなか難しい。
「あ、そうだ」僕が思いついた。「ヨガの呼吸法はどうですか?」
「呼吸法……」雪杉さんの目が少し明るくなる。
「はい。深呼吸をして、意識を呼吸に集中する。針のことは考えない」
「それなら……できるかもしれません」
「ヨガの先生に相談してみませんか?」
「そうですね! 先生なら何かいい方法を知ってるかも」
翌日、雪杉さんは嬉しそうに僕のところにやってきた。
「上村さん! ヨガの先生に聞いてみました」
「どうでしたか?」
「素晴らしい方法を教えてもらいました」
「どんな方法ですか?」
「『針は存在しない瞑想法』です」
(針は存在しない……?)
「つまり、針なんて最初からないと思い込むんです」
「思い込む……」
「はい。『そこにあるのは空気だけ。針なんて存在しない。ただの幻覚』って自分に言い聞かせるんです」
(それ、大丈夫なのかな……)
「でも、実際に針は刺さるわけで……」
「大丈夫です。ヨガの先生が『人間の意識の力は無限よ』って言ってました」
(また無限の話か……)
「一人では不安なので、上村さんも一緒にいてもらえませんか?」
「僕も?」
「はい。上村さんにも『針は存在しない』って言ってもらいたいんです」
僕は迷った。確かに雪杉さんを助けたいが、看護師さんの前で「針は存在しない」と言うのは……
「分かりました。やってみましょう」
「ありがとうございます!」
健康診断当日の金曜日。僕たちは13階の会議室で順番を待っていた。
「上村さん、緊張してきました……」雪杉さんが青い顔をしている。
「大丈夫です。呼吸法を思い出して」
「はい……ふー……はー……」
雪杉さんが深呼吸を始める。
「針は存在しない……針は存在しない……」
小声で呟いている雪杉さんを見て、他の社員たちが不思議そうな顔をしている。
「雪杉さん、どうしました?」碓氷係長が心配そうに声をかける。
「あ、係長……採血が苦手で……」
「そうなんですか。私は注射大好きなんですけどね」
「大好き?」
「はい。筋肉注射なんて、『今、筋繊維が強化されてる』って思うと嬉しくなります」
(係長の発想は特殊すぎる……)
「でも、雪杉さんは苦手なんですね。何かお手伝いできることありますか?」
「ありがとうございます。でも、上村さんがついてくれるので」
「そうですか。頑張ってください」
係長が去った後、雪杉さんの番が近づいてきた。
「次の方、どうぞ」
看護師さんが呼んでいる。
「雪杉さん、行きましょう」
「はい……でも、手が震えて……」
僕は雪杉さんの手を軽く握った。
「大丈夫です。一緒に行きます」
採血コーナーに向かう。白い椅子に座った雪杉さんの顔は真っ青だった。
「こんにちは。採血させていただきますね」看護師さんが優しく声をかける。
「は、はい……」
「腕を出してください」
雪杉さんが震えながら腕を出す。
「あの」僕が看護師さんに声をかける。「この方、針がとても苦手なので……」
「そうですか。大丈夫ですよ、すぐ終わりますから」
看護師さんが針の準備を始める。雪杉さんの震えがさらに激しくなった。
「上村さん……」
「大丈夫です。呼吸法を思い出して」
「はい……ふー……はー……」
雪杉さんが目を閉じて深呼吸する。
「針は存在しない……針は存在しない……」
看護師さんが不思議そうな顔をしている。
「あの……針は存在しないって……?」
「あ、えーっと……」僕が慌てて説明する。「緊張を和らげる方法なんです」
「そうですか……」
看護師さんが消毒綿で雪杉さんの腕を拭く。
「雪杉さん、針は見えませんよね?」僕が言う。
「はい……そこには空気しかありません……」
「そうです。何もありません」
看護師さんが本当に困惑している。
「あの……針は実在するんですが……」
「いえ、大丈夫です」僕が慌てて言う。「彼女を安心させる方法なので」
「はあ……」
看護師さんが針を雪杉さんの腕に近づける。
「雪杉さん、何も感じませんよね?」
「はい……空気だけです……ふー……はー……」
雪杉さんが必死に呼吸法を続けている。
「では、刺しますね」看護師さんが言う。
「雪杉さん、空気が腕に触れただけです」
「はい……空気……空気……」
針が雪杉さんの腕に刺さった瞬間。
「あ……」
雪杉さんの目がパッと開いた。
「あれ? 痛くない……」
「そうです。だって針なんて存在しないですから」
「本当ですね……全然痛くない……」
看護師さんが血液を採取している間、雪杉さんは不思議そうな顔をしていた。
「すごいです……本当に針が見えません……」
「はい、空気だけです」
「終わりました」看護師さんが針を抜く。
「え? もう終わったんですか?」
「はい。お疲れ様でした」
雪杉さんが信じられないような顔をしている。
「すごいです……全然怖くありませんでした」
採血コーナーを出ると、雪杉さんが飛び跳ねそうな勢いで喜んでいた。
「上村さん! できました!」
「よかったですね」
「ヨガの先生の方法、すごいです!」
他の社員たちが不思議そうに僕たちを見ている。
「雪杉さん、元気になったわね」蓮見さんが声をかける。
「はい! 針なんて存在しなかったんです」
「え?」
「上村さんが教えてくれました。『目を閉じれば針は空気』って」
蓮見さんが僕の方を見る。
「上村君……何それ?」
「あー……まあ……気の持ちようという意味で……」
その時、佐々木がやってきた。
「雪杉さん、採血終わったんですね。大丈夫でした?」
「はい! 上村さんのおかげで、全然怖くありませんでした」
「上村の?」佐々木が僕を見る。
「針が存在しない瞑想法を教えてもらったんです」
「針が存在しない……?」
佐々木も困惑している。
「すごい方法ですよね。佐々木さんも今度試してみてください」
「あ、はい……」
昼休み、僕と雪杉さんは屋上でお弁当を食べていた。
「上村さん、本当にありがとうございました」
「いえいえ、雪杉さんが頑張ったからです」
「でも、一人だったら絶対に無理でした」
雪杉さんが嬉しそうにだしを飲んでいる。
「ヨガの先生の方法、本当に効果的でしたね」
「はい。でも、一番効果的だったのは、上村さんがいてくれたことです」
「僕が?」
「はい。『針は存在しない』って一緒に言ってくれて……安心できました」
雪杉さんが照れたような笑顔を見せる。
「それに、上村さんの声を聞いてると、本当に針が見えなくなるんです」
「そうですか?」
「はい。上村さんの声って、なんだか魔法みたいです」
魔法……そんな大げさな。
「これで来年の健康診断も大丈夫ですね」
「はい! でも……」雪杉さんが少し心配そうな顔をする。
「何ですか?」
「来年も、上村さんについて来てもらえますか?」
「もちろんです」
「よかった……」
夕方、丸山部長がやってきた。
「お疲れ様。健康診断、みんな終わったか?」
「はい、お疲れ様でした」
「雪杉、お前も無事に終わったみたいだな」
「はい! 上村さんのおかげです」
「上村の?」
「針が存在しない瞑想法を教えてもらいました」
部長が首をかしげる。
「針が存在しない……? なんだそれ?」
「とても効果的な方法なんです」雪杉さんが熱心に説明する。「目を閉じて、『針なんて最初からない』って思い込むんです」
「思い込む……」
「はい。そうすると、本当に針が見えなくなって、痛くないんです」
部長が僕の方を見る。
「上村、お前が考えたのか?」
「いえ、雪杉さんのヨガの先生が……」
「ヨガの先生……」部長が苦笑いする。「まあ、結果オーライだな」
「ありがとうございます」
部長が去った後、雪杉さんが僕に言った。
「上村さん、今日学んだことがあります」
「何ですか?」
「目を閉じれば針は空気だってことです」
「はあ……」
「きっと、他のことにも応用できますよね」
「応用?」
「はい。嫌なことがあっても、目を閉じて『それは存在しない』って思えば……」
(それ、現実逃避じゃないのかな……)
でも、雪杉さんが針への恐怖を克服できたのは事実だった。
方法はどうあれ、結果が良ければいいのかもしれない。
サボりの美学は雪杉さんに学べ。
――目を閉じれば針は空気。
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※この話は全てフィクションであり、実在の人物や団体などとは一切、関係ありません。
※AI補助執筆(作者校正済)