Lesson5「行き過ぎ鍼灸、鼻針地獄」
山芋事件から三日が経った木曜日。僕の鼻の赤みはほとんど引いていたが、花粉症の症状は相変わらずだった。
「ズズッ……」
朝から鼻をすすりながらデスクワークをしていると、雪杉さんがいつものように煮干しだしマグカップを持って現れた。
「おはようございます。お鼻の調子はいかがですか?」
「おはようございます。赤みは引きましたが、花粉症は……」
「そうですね……」雪杉さんが申し訳なさそうな表情を見せる。「山芋療法は失敗でしたね」
「いえ、雪杉さんが悪いわけじゃありません」
「でも、責任を感じます」
雪杉さんが真剣な顔でだしを飲んでいる。
「実は」雪杉さんが声を潜める。「ヨガの先生に、もう一つ方法を教えてもらったんです」
(また何か思いつかれた……)
「今度は何ですか?」
「鍼灸です」
「鍼灸?」
「はい。花粉症には鍼灸がとても効果的なんです」
確かに、鍼灸なら山芋よりは安全そうだ。
「鍼灸院を紹介してもらいました」雪杉さんが嬉しそうに言う。「ヨガの先生のお知り合いで、とても腕のいい先生らしいです」
「そうなんですか」
「はい。『花粉症には特別な技術がある』って言ってました」
特別な技術……なんか気になる表現だ。
「どこの鍼灸院ですか?」
「駅前の雑居ビルにあります。『東洋医学研究所』っていう名前です」
(東洋医学研究所……なんだか大げさな名前だな)
「今日の夕方、予約を取ってもらったんです」
「え?」
「私も一緒に行きますから、安心してください」
雪杉さんが勝手に予約を取っていることに驚いたが、山芋事件の責任を感じている彼女の気持ちを考えると、断りにくかった。
「分かりました。お願いします」
「よかった! きっと今度は大丈夫ですよ」
雪杉さんが安堵の表情を見せる。
お昼休み、僕と雪杉さんが昼食を食べていると、蓮見さんがやってきた。
「上村君、鼻の赤み、だいぶ引いたわね」
「はい、おかげさまで」
「よかった。それにしても、山芋を鼻に塗るなんて、斬新すぎる治療法だったわね」
蓮見さんが苦笑いしている。
「すみませんでした……」雪杉さんが恐縮する。
「でも、雪杉さんの責任感は伝わったわよ。初めて残業してくれたし」
「はい。珍しい療法を勧めたら、最後まで責任を持つべきだと学びました」
「偉いじゃない」
そんな会話をしていると、雪杉さんが思い出したように言った。
「そういえば、今日の夕方、鍼灸院に行くんです」
「鍼灸院?」蓮見さんが興味深そうに聞く。
「はい。今度は鍼灸で花粉症治療です」
「鍼灸なら安全そうね」
「そうなんです。ヨガの先生のお知り合いで、とても腕のいい先生らしくて」
蓮見さんが僕の方を見る。
「上村君、大丈夫? また実験台になるの?」
「まあ……今度は普通の治療法ですから」
「そうね。鍼灸なら伝統的な医療だし」
午後の仕事中も、鼻水は止まらなかった。薬を飲んでも、一時的にしか効果がない。
(鍼灸で本当に良くなるかな……)
そんなことを考えていると、碓氷係長がやってきた。
「上村君、調子はどう?」
「あまり良くないです……」
「そうか。私も昔、花粉症がひどくて困ったことがあるんだ」
「係長も花粉症だったんですか?」
「ええ。でも、筋トレで免疫力を上げたら、症状が軽くなったよ」
「筋トレで?」
「そう。体を鍛えると、自然治癒力が向上するからね」
碓氷係長が筋肉を自慢するように腕を曲げる。
「今度、一緒にトレーニングする?」
「あ、実は今日、鍼灸院に行く予定で……」
「鍼灸院? いいじゃない。私も興味あるな」
「雪杉さんに紹介してもらったんです」
「雪杉さんが? あの人、色々詳しいよね」
(詳しいというか……情報源がヨガの先生一人なんですけど……)
夕方、定時になると、雪杉さんがやってきた。
「上村さん、準備はいいですか?」
「はい」
「では、行きましょう」
駅前の雑居ビルは、少し古くて薄暗い印象だった。
「3階ですね」
エレベーターで3階に上がると、「東洋医学研究所」という看板が見えた。
「ここですね」
ドアを開けると、薄暗い受付があった。お香のような匂いが漂っている。
「いらっしゃいませ」
奥から現れたのは、60代くらいの男性だった。白い道着のような服を着て、長いひげを生やしている。
「雪杉さんからご紹介いただいた上村と申します」
「ああ、花粉症の方ですね。お待ちしておりました」
先生の日本語に、少し違和感があった。
「先生は……?」
「私、張先生です。中国で30年、鍼灸を学びました」
中国の方か。確かに、本格的そうだ。
「では、こちらへ」
案内された治療室は、さらに薄暗かった。ベッドが一つあり、壁には漢方薬らしき瓶がたくさん並んでいる。
「まず、脈を診ます」
張先生が僕の手首を取り、脈を確認する。
「うーん……」
長い間、脈を取りながら、何やらブツブツと中国語で呟いている。
「どうですか?」雪杉さんが心配そうに聞く。
「花粉症、とても重症ですね」
「重症?」
「はい。普通の治療では治りません」
(普通の治療って……)
「特別な技術が必要です」
雪杉さんが言っていた「特別な技術」というのは、これのことか。
「どのような治療ですか?」
「鼻針です」
「鼻針?」
「はい。鼻の穴に直接針を刺します」
僕は血の気が引いた。
「鼻の穴に……針を……?」
「はい。花粉症の根本治療には、鼻針が一番効果的です」
雪杉さんも驚いている。
「鼻の穴に針って……痛くないですか?」
「最初は少し痛いですが、すぐ慣れます」
(慣れるって……そういう問題じゃないと思うんですけど……)
「あの……他の方法は……」
「鼻針が一番です。私、この技術で多くの人を治しました」
張先生が自信満々に言う。
「どうしますか?」
僕は迷った。確かに、鼻に針を刺すなんて考えただけで恐ろしい。でも、このまま花粉症に苦しみ続けるのも辛い。
「やってみます」
「よし! では、ベッドに横になってください」
僕がベッドに横になると、張先生が針の準備を始めた。
「雪杉さんも見学しますか?」
「はい、お願いします」
雪杉さんが心配そうに僕の隣に立つ。
「では、始めます」
張先生が細い針を手に取る。
「少し痛いですが、我慢してください」
針が僕の鼻に近づいてくる。
「あの、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫です。深呼吸してください」
僕は目を閉じて、深呼吸した。
そして……
「うわあああああ!」
鼻の奥に、今まで経験したことのない痛みが走った。
「痛い! 痛いです!」
「大丈夫、大丈夫。もう少しです」
張先生は動じることなく、針をさらに奥に進める。
「ちょっと待ってください! やばいです!」
「まだ半分です」
半分? まだ半分も残ってるの?
「雪杉さん! 助けて!」
「上村さん、頑張って!」
雪杉さんが僕の手を握ってくれる。
「涙が出てきました……」
「それは正常な反応です」張先生が説明する。
針がさらに奥に進む。もう、痛いを通り越して、意識が朦朧としてきた。
「終わりました」
ようやく張先生が針を止める。
「これで15分、このままでいてください」
15分? この状態で?
「無理です……抜いてください……」
「だめです。効果が出ません」
僕は涙でぐしゃぐしゃになりながら、必死に耐えた。
雪杉さんが手を握り続けてくれる。
「上村さん、大丈夫ですか?」
「だい…じょう…ぶじゃ…ないです…」
「すみません……私のせいで……」
15分が永遠に感じられた。
ようやく張先生が針を抜いてくれた時、僕は完全にぐったりしていた。
「お疲れ様でした」
「はあ…はあ…」
「これで花粉症、治ります」
本当に治るのかな……
「料金は5000円です」
「5000円……」
高いのか安いのかよく分からないが、とりあえず支払った。
鍼灸院を出て、僕と雪杉さんは近くのカフェに入った。
「上村さん、本当にごめんなさい……」
雪杉さんが申し訳なさそうに謝る。
「いえ、雪杉さんのせいじゃありません」
「でも、あんなに痛そうで……」
確かに、あれは想像以上だった。
「鼻針なんて聞いたことなかったです」
「私も初めて知りました……」
「ヨガの先生は、鼻針のことご存知だったんですか?」
「いえ、『特別な技術』とは聞いてましたが、まさか鼻に針を刺すなんて……」
(ヨガの先生も、詳しく知らずに紹介したのか……)
「でも」雪杉さんが希望的に言う。「もしかしたら、本当に効くかもしれません」
「そうですね……」
翌日の朝、僕は恐る恐る鼻の状態を確認した。
「あれ?」
確かに、鼻水の量が減っている気がする。
「本当に効いてる?」
オフィスに着くと、雪杉さんが心配そうに駆け寄ってきた。
「上村さん、調子はいかがですか?」
「実は……少し良くなってる気がします」
「本当ですか?」
「はい。鼻水の量が減ってます」
雪杉さんの顔がパッと明るくなった。
「よかった! やっぱり効果があったんですね」
「みたいです」
「張先生、すごいですね」
でも、僕は複雑な気分だった。確かに効果はあったが、あの痛みを思い出すと……
「蓮見さんにも報告しましょう」
蓮見さんに昨日のことを話すと、彼女は驚いた。
「鼻に針? 想像しただけで痛そう……」
「本当に痛かったです」
「でも、効果があったのね」
「はい、一応……」
「雪杉さん、今度からは事前にもう少し詳しく調べた方がいいかもね」
「そうですね」雪杉さんが反省している。「紹介する時は、自分でも体験してからにします」
「え? 雪杉さんも鍼灸院行くんですか?」
「はい。今度、肩こりの治療で行ってみます」
(また行くのか……)
その日の午後、碓氷係長がやってきた。
「上村君、花粉症の調子はどう?」
「実は、少し良くなったんです」
「おお、それは良かった。何かしたの?」
「鍼灸治療を受けました」
「鍼灸? いいね。自然治癒力を高めるのは大切だ」
「ただ……」
僕が昨日の体験を話すと、係長の表情が変わった。
「鼻に針って……それ、大丈夫なの?」
「一応、効果はありました」
「そうか……でも、無理はしちゃだめよ」
夕方、丸山部長がやってきた。
「上村、鼻の調子はどうだ?」
「だいぶ良くなりました」
「そうか、よかった」
「はい。鍼灸治療が効いたみたいです」
「鍼灸? 俺も腰痛で悩んでるんだが……」
「あ、でも部長には普通の鍼灸院をお勧めします」
「普通のって?」
「その……鼻に針を刺さない方の……」
部長が困惑している。
「鼻に針? 何だそれ?」
僕が説明すると、部長が眉をひそめた。
「それ、大丈夫なのか?」
「効果はありましたが……正直、お勧めはしません」
「そうか……やっぱり普通の病院にするわ」
その夜、雪杉さんからメールが来た。
『上村さん、今日はお疲れ様でした。鍼灸院の件、反省しています。次回からは、紹介する前に自分で試してみます。でも、効果があって本当によかったです。』
僕は返信した。
『雪杉さんのお気持ちは嬉しいです。でも、あまり無茶はしないでくださいね。』
すぐに返事が来た。
『はい。でも、ヨガの先生がまた新しい治療法を教えてくれたので……』
(また新しい治療法……)
僕は少し不安になった。
翌日の朝、確かに花粉症の症状は軽くなっていた。鼻針の効果は本物だったようだ。
でも、あの痛みを思い出すと、二度と体験したくない。
雪杉さんは、相変わらず煮干しだしマグカップを持って現れた。
「おはようございます。今日も調子いいですか?」
「はい、おかげさまで」
「よかった。やっぱり張先生はすごいですね」
「そうですね……ただ……」
「ただ?」
「次回から、紹介する時は事前に詳しく説明してもらえませんか?」
「はい、分かりました」雪杉さんが真剣に頷く。「紹介はノー保証だということを学びました」
確かに、誰かを紹介する時は、責任が伴う。
でも、雪杉さんの善意は本物だ。ちょっと方向性が間違ってるだけで。
サボりの美学は雪杉さんに学べ。
――紹介はノー保証。
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※この話は全てフィクションであり、実在の人物や団体などとは一切、関係ありません。
※AI補助執筆(作者校正済)