Lesson2「ヨガ講師推奨・煮干しだし覚醒法」
雪杉さんが入社して三日目の水曜日。僕はもう彼女のペースに少し慣れ始めていた。
朝の煮干しだしタイム、午前中のちょこちょこだし補給、昼寝、午後のだしタイム、そして定時ダッシュ。この一連の流れが、すでに営業三課の日常風景となりつつある。
「おはようございます」
今日も雪杉さんは、湯気の立つマグカップを持って現れた。
「おはようございます。今日は何だしですか?」
もはや僕も、だしの種類を聞くのが習慣になっていた。
「今日は特製ブレンドです」雪杉さんが嬉しそうに答える。「煮干し、昆布、椎茸の三重奏なんです」
「三重奏……」
「ヨガの先生に教えてもらったレシピなんです。『心・体・魂のバランスを整える』って」
(ヨガの先生、だしにまで詳しいのか……)
雪杉さんがデスクに座ると、いつものように深呼吸を始めた。
「んー……今日のだしは特に香りが立ってますね。椎茸のうまみが効いてます」
隣の席の蓮見さんが苦笑いしている。
「雪杉さん、昨日お渡しした顧客リストの件はいかがですか?」
「あ、はい」雪杉さんがマグカップを置く。「ちゃんと整理しました」
「ありがとうございます。では、午前中にその続きを……」
「はい。でも、まず朝のだしタイムを完了させてください」
「だしタイム……はい……」
蓮見さんも、もう諦めの境地に達している。
雪杉さんは再びマグカップを両手で包み、目を閉じて瞑想するように静かにだしを味わい始めた。
その様子を見ていると、碓氷係長がやってきた。
「おはよう、雪杉さん。今日も健康的な朝ですね」
「おはようございます、碓氷さん。今日のだしは特製ブレンドです」
「おお! 私も今朝はプロテインに新しいフレーバーを試したんです。バナナ味とピーチ味のミックス」
「素晴らしいですね。栄養バランスも良さそう」
碓氷係長と雪杉さんは、健康飲料について真剣に議論を始めた。
「そういえば雪杉さん、ヨガで体幹は鍛えてます?」
「はい、毎日やってます。特に朝のサンサルテーション」
「いいですねー。体幹がしっかりしてると、座り仕事でも疲れにくいですよね」
「そうなんです。でも、やっぱり昼寝は必要ですけど」
「昼寝も大切ですね。短時間睡眠は脳の回復に効果的です」
(係長、昼寝も肯定するのか……)
午前中の仕事が順調に進んでいく。雪杉さんは、だしを飲みながらも、意外とテキパキと作業をこなしている。
「雪杉さん、このデータ入力、もう終わったんですか?」蓮見さんが驚く。
「はい。だしを飲みながらやると、集中力が上がるんです」
「だしの効果……ですか……」
「ヨガの先生が言ってました。『自然の恵みは心を研ぎ澄ます』って」
そんな会話をしていると、奥から丸山部長の声が聞こえてきた。
「おーい、上村」
「はい」
僕が振り返ると、部長が手招きしている。
「ちょっと来い。会議の資料、チェックしてくれ」
「はい、すぐに」
僕が部長のデスクに向かう途中、雪杉さんが小声で言った。
「部長さん、なんだか疲れてそうですね」
確かに、丸山部長は最近忙しそうだった。電話ばかりかけていて、資料も山積みになっている。
「みんな働きすぎなんですよ」雪杉さんが呟く。
「もっとリラックスすればいいのに」
お昼休みになると、雪杉さんは新しいマグカップを取り出した。
「お昼のだしタイムです」
「また違うだしですか?」僕が聞く。
「はい。昼は軽めの昆布だしです。昼寝前には重いだしはよくないので」
(だしにも昼寝向きとそうでないのがあるのか……)
雪杉さんが昆布だしを飲み終えると、デスクに突っ伏した。
「では、昼寝させていただきます」
「はい……」
僕と蓮見さんは、もう慣れっこになっている。
雪杉さんの昼寝は、本当に見事だった。デスクに突っ伏してから30秒もしないうちに、静かな寝息を立て始める。
「すごい入眠スピードね」蓮見さんが感心している。
「ヨガの呼吸法の応用らしいです」
「へー……」
僕たちも昼食を食べに行こうとした時、佐々木がやってきた。
「雪杉さん、今日こそランチでも……」
佐々木が雪杉さんを見ると、完全に眠っていることに気づいた。
「あ……寝てる……」
「昼寝タイムです」蓮見さんが説明する。
「毎日ですか?」
「毎日です」
佐々木が肩を落とす。
「まあ、起きるまで待ってみますか……」
佐々木が椅子に座って雪杉さんを見守り始めた。その健気な姿に、僕はちょっと同情した。
僕と蓮見さんが昼食から戻ってくると、雪杉さんはまだ眠っていた。佐々木も、まだ待っている。
「佐々木、まだいたの?」
「うん……あと5分で起きるかなと思って……」
雪杉さんの昼寝は、いつも15分ちょうどだった。時計を見ると、あと3分ほどで15分になる。
「もうすぐ起きますよ」僕が言うと、
その時、エレベーターの音が聞こえた。営業三課のエリアに向かって、足音が近づいてくる。
重い足音。そして、独特の咳払い。
(部長だ)
丸山部長が営業三課のエリアにやってきた。資料を抱えて、機嫌が悪そうな表情をしている。
部長の視線が、デスクに突っ伏して眠っている雪杉さんに向かった。
「おい……」
部長が口を開きかけた、その瞬間。
雪杉さんがパッと顔を上げた。
「はい!」
まるで最初から起きていたかのような、完璧な覚醒だった。
「え?」部長が拍子抜けする。
「お疲れ様です、部長」雪杉さんがにっこりと微笑む。
「あ、ああ……お疲れ様」
部長が困惑している。雪杉さんは何事もなかったかのように、新しいマグカップを取り出した。
「午後のだしタイムです」
「だし……?」
「はい。午後は椎茸だしです。集中力アップに効果的なんです」
部長が呆然としている間に、雪杉さんは椎茸だしを飲み始めた。
「部長も飲んでみませんか? 疲労回復にいいですよ」
「いや……俺はコーヒーで……」
「コーヒーよりだしの方が体に優しいです。ヨガの先生も推奨してます」
部長が苦笑いしている。
「そ、そうか……」
部長が去った後、僕は雪杉さんに聞いた。
「雪杉さん、どうして部長が来るって分かったんですか?」
「え?」
「部長の足音が聞こえた瞬間に起きましたよね」
雪杉さんが不思議そうな顔をする。
「分からないです。なんとなく、目を覚ますタイミングだなって思って」
「タイミング?」
「はい。ヨガの先生が言ってました。『宇宙のリズムに合わせて生きなさい』って」
宇宙のリズム……
「宇宙が『起きる時間だよ』って教えてくれるんです」
(宇宙って……そんなことあるのか?)
佐々木が諦めモードで言った。
「雪杉さん、今度また誘わせてもらいます……」
「はい。でも、だし以外の飲み物はちょっと……」
「だし……ですね……分かりました……」
佐々木が肩を落として去っていく。
午後の仕事が始まると、雪杉さんは椎茸だしを飲みながら資料作成に取りかかった。
「この企画書、どうでしょうか?」
雪杉さんが画面を見せてくれると、そこには驚くほど完成度の高い企画書が表示されていた。
「すごいですね。短時間でこれだけの内容を……」
「だしのおかげです」雪杉さんがマグカップを掲げる。「椎茸だしは創造性を高めてくれるんです」
「椎茸に創造性を高める効果が……?」
「ヨガの先生がそう言ってました」
やっぱりヨガの先生だった。
夕方、碓氷係長がやってきた。
「雪杉さん、今日の昼寝、完璧でしたね」
「ありがとうございます。15分ちょうどで目覚められました」
「あの部長が来たタイミングでの覚醒、見事でした」
「宇宙のタイミングですね」
碓氷係長が真剣に頷く。
「そうですね。筋トレでも、宇宙のリズムは大切です。『今日は胸の日』とか『今日は背中の日』とか、体が教えてくれるんです」
「分かります! 体の声を聞くのは大切ですよね」
(係長まで宇宙論に同調してる……)
そんな会話を聞いていると、蓮見さんが僕に耳打ちした。
「上村君、雪杉さんの昼寝、本当に不思議よね」
「そうですね。あのタイミングでの覚醒は……」
「私、観察してたの。雪杉さん、本当に眠ってたのよ。でも、部長の足音が聞こえた瞬間、眉が少しピクッと動いたの」
「眉が?」
「そう。で、足音が近づくにつれて、呼吸が少しずつ浅くなって……」
蓮見さんの観察力はさすがだ。
「つまり、無意識に部長の接近を察知してたってことですか?」
「そうかも。野生の勘っていうか……」
確かに、雪杉さんには不思議な感覚がある気がする。
定時が近づくと、雪杉さんは最後のだしタイムを始めた。
「夕方のだしタイムです」
「夕方もあるんですか?」
「はい。一日の締めくくりには、シンプルな昆布だしです」
雪杉さんが昆布だしを飲んでいると、部長が再び現れた。
「雪杉さん」
「はい」
「その……だしとやら、本当に効果あるのか?」
部長が興味深そうに聞く。
「はい、とても効果的です。疲労回復、集中力アップ、ストレス解消……」
「ストレス解消?」
「はい。だしの自然な旨味が心を落ち着かせてくれるんです」
部長が真剣に考え込んでいる。
「今度、作り方教えてくれるか?」
「喜んで! 部長にお勧めは煮干しだしですね」
「煮干し……」
「はい。男性の疲労には煮干しが効きます。ヨガの先生も……」
「ヨガの先生?」
「私のヨガの先生です。とても知識豊富な方で」
部長が興味深そうに頷く。
「そうか……今度詳しく聞かせてくれ」
「はい! 明日、特製煮干しだしをお持ちします」
定時になると、雪杉さんは即座にパソコンをシャットダウンした。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
雪杉さんが帰った後、僕と蓮見さんは顔を見合わせた。
「上村君」
「はい?」
「雪杉さん、だんだん周りを巻き込んでない?」
確かに、碓氷係長は健康談義で盛り上がるし、部長はだしに興味を示している。
「でも、悪いことではないような気がします」
「そうね。みんな、なんだかリラックスしてるし」
確かに、雪杉さんが来てから、オフィスの雰囲気が少し変わった気がする。
「あの昼寝の覚醒タイミング、本当に不思議だったわ」
「宇宙のタイミングですからね」
僕も、だんだん雪杉さんの理論に毒されている気がする。
翌日、雪杉さんは本当に部長のために特製煮干しだしを持参した。
「部長、お疲れ様です。煮干しだし、作ってきました」
「おお、ありがとう」
部長が恐る恐るだしを飲む。
「……うん、意外にいけるな」
「でしょう? ストレス解消効果もありますよ」
「そうか……」
それから部長は、時々雪杉さんにだしを分けてもらうようになった。
そして、昼寝の時間になると、部長は営業三課エリアに近づかないようになった。
「宇宙のタイミングを邪魔しちゃいけないからな」
部長まで、宇宙論を受け入れている。
雪杉さんの昼寝は、もはや営業三課の神聖な時間となっていた。
サボりの美学は雪杉さんに学べ。
――眠気は宇宙タイミングで切る。
#オフィスラブコメ #社会人 #ラブコメ #現代 #星形にんじん
※この話は全てフィクションであり、実在の人物や団体などとは一切、関係ありません。
※AI補助執筆(作者校正済)