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『サボりの美学は雪杉さんに学べ』  作者: 白隅 みえい
第1章:サボりの衝撃
1/8

Lesson1「雪杉さんにはご用心!」

月曜日の朝8時30分。僕、上村優は今日もいつも通り、港区にある家電メーカー本社ビルの12階にあるデスクに座っていた。


流通営業部営業三課。僕の所属する部署だ。28歳、入社6年目。特別優秀でもなく、特別ダメでもない、ごく普通の会社員として毎日を過ごしている。


(今日も一日、無事に過ごせますように……)


そんな平凡な願いを抱きながら、僕はパソコンを立ち上げた。メールチェック、資料確認、会議の準備。ルーティンワークを黙々とこなしていく。


「おはようございます」


隣のデスクの蓮見唯花さんが元気よく挨拶してくれる。同じ営業三課の主任で、26歳。社交的で明るく、仕事もできる頼れる先輩だ。


「おはようございます。今日もよろしくお願いします」


「こちらこそ。あ、そうそう、上村君」


「はい?」


「今日から新しいパートさんが来るのよ」


「パートさん?」


「そう。雪杉香さんっていう方。30歳で、前は外資系にいたらしいんだけど、今はゆるく働きたいってことで、うちに来てくれることになったの」


30歳の元外資系……なんだか優秀そうな人だな。


「どんな方なんですか?」


「うーん、履歴書だけ見ると、すごくしっかりした人みたい。英語も堪能だし、前職での実績も立派だった」


「頼もしいですね」


「そうなのよ。でも……」蓮見さんが少し困ったような表情を見せる。「面接の時、ちょっと変わってたのよね」


「変わってた?」


「なんていうか……マイペースというか……」


そんな会話をしていると、エレベーターの音が聞こえた。営業三課のエリアに、新しい人影が現れる。


「あ、雪杉さんね」蓮見さんが立ち上がる。


振り返ると、そこには確かに美人の女性が立っていた。肩までの黒髪、整った顔立ち、スラッとした体型。一見すると、外資系でバリバリ働いていそうな雰囲気だ。


でも、なんか違和感がある。


手に持っているのは、どこかで見たことがあるようなマグカップ。しかも、そのマグカップからは湯気が立ち上っている。朝の8時40分に、すでに何かの飲み物を準備している。


「おはようございます」


雪杉さんが挨拶する。声は落ち着いていて、上品な印象だ。


「おはようございます。雪杉さんですね。蓮見です。よろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


蓮見さんが僕の方を振り返る。


「こちら、同じ営業三課の上村優君です」


「上村です。よろしくお願いします」


僕が立ち上がって挨拶すると、雪杉さんがにっこりと微笑んだ。


「雪杉香です。よろしくお願いします」


そして、雪杉さんは持っていたマグカップを僕に見せた。


「これ、煮干しだしです」


「え?」


「朝の煮干しだし。一日のスタートには欠かせないんです」


煮干しだし? 朝から?


「あの……コーヒーじゃなくて、だし……ですか?」


「はい。コーヒーはカフェインが入ってるので、ヨガの先生に止められてるんです。だしの方が体に優しいんですよ」


(ヨガの先生……)


蓮見さんが苦笑いしている。これが面接で感じた違和感の正体か。


「雪杉さん、デスクをご案内しますね」


蓮見さんが雪杉さんを案内し始める。僕も一緒についていく。


雪杉さんのデスクは、僕の斜め前に位置していた。つまり、毎日顔を合わせることになる。


「こちらがあなたのデスクです。パソコンの設定は後でIT部の人にお願いしますね」


「ありがとうございます」


雪杉さんがデスクに座ると、まず最初にやったことがマグカップを置くことだった。そして、そのマグカップを両手で包むように持って、深呼吸をする。


「いい香り……」


(なんだこの人……)


「雪杉さん、お仕事の説明を……」蓮見さんが言いかけると、


「あ、すみません。まず煮干しだしを味わってからでないと、集中できないんです」


そう言って、雪杉さんはマグカップに口をつけた。


「んー……今日のだしは少し塩分控えめですね。昆布も足した方がよかったかも」


(だしの味をそんなに真剣に評価するのか……)


蓮見さんが僕の方を見て、困ったような笑顔を浮かべる。


だしを味わい終えた雪杉さんは、ようやく仕事モードになった。


「では、お仕事の説明をお聞きします」


「はい。まず、営業三課の業務内容ですが……」


蓮見さんが説明を始める。雪杉さんは真剣に聞いている……ように見える。でも、時々マグカップに手を伸ばして、だしを一口飲んでいる。


「資料作成もお願いすることがあります。ExcelやPowerPointは使えますか?」


「はい、一通り」


「データ入力や電話対応もありますが……」


「大丈夫です」


雪杉さんの返事は的確だ。やはり外資系で働いていただけあって、仕事のスキルは高そうだ。


「それと」蓮見さんが付け加える。「うちの部署は比較的残業が多いんです。繁忙期だと、9時、10時まで残ることも……」


その瞬間、雪杉さんの表情が変わった。


「あ、それなんですが」


「はい?」


「私、残業はしません」


「え?」


蓮見さんが驚く。僕も驚いた。


「残業はしません」雪杉さんがもう一度、はっきりと言った。「定時で帰ります」


「でも、どうしても急ぎの仕事が……」


「その時は、翌日にやります」


(翌日って……お客さんが待ってたらどうするんだ……)


「雪杉さん」蓮見さんが困惑している。「でも、チームワークが大切なので……」


「チームワークは大切ですね」雪杉さんが頷く。「でも、無理をして働いても、良い結果は出ません。それに」


雪杉さんがマグカップを持ち上げる。


「私、社畜じゃないもん」


え?


今、何て言った?


「社畜じゃないもん」


もう一度、はっきりと言った。しかも、なぜか語尾が「もん」だった。


蓮見さんが固まっている。僕も固まった。


「あの……社畜って……」


「働きすぎて自分を見失っている人のことです」雪杉さんが説明する。「前の会社がまさにそうでした。みんな朝から晩まで働いて、プライベートを犠牲にして……」


「それで転職を?」


「はい。ヨガの先生に言われたんです。『もっと自分のペースで生きなさい』って」


またヨガの先生だ。


「だから、残業はしません。有給もきちんと取ります。それが私の働き方です」


そう宣言すると、雪杉さんは再びだしを一口飲んだ。


(この人、本気で言ってるのか……)


その時、奥から声が聞こえてきた。


「新人さんか?」


振り返ると、碓氷紗綾係長が現れた。29歳、筋トレが大好きで、プロテインバーを常備している我らが係長だ。


「おはようございます、係長」蓮見さんが挨拶する。


「おはよう。で、この方が?」


「雪杉香です。よろしくお願いします」


雪杉さんが立ち上がって挨拶する。碓氷係長は雪杉さんを見て、にっこりと笑った。


「おお、健康的な飲み物ですね」


マグカップを見ての感想だった。


「煮干しだしです」


「だし! いいですねー。私も朝はプロテインドリンクです。健康を意識した食生活、大切ですよね」


「はい! 碓氷さんとは気が合いそうです」


雪杉さんが嬉しそうに微笑む。


「そうそう、雪杉さん、運動はされます?」


「ヨガをやってます」


「ヨガ! いいですねー。柔軟性と筋力のバランスが取れて、最高の運動です」


碓氷係長が興奮し始める。


「今度一緒にトレーニングしませんか? 私、筋トレ教えますよ」


「ぜひ! でも、あまり激しいのは……」


「大丈夫です。個人のペースに合わせますから」


(係長、すっかり雪杉さんが気に入ったみたいだ……)


そんな会話をしている間に、時計は9時を回っていた。


「あ、朝礼の時間ですね」蓮見さんが言う。


営業三課では、毎朝9時から朝礼がある。今日のスケジュール確認や連絡事項を共有する時間だ。


みんなが席を立って、朝礼エリアに向かう。雪杉さんも立ち上がったが、なぜかマグカップを持ったままだった。


「雪杉さん、朝礼中は飲み物は……」


「大丈夫です。だしは仕事の一部なので」


(仕事の一部って何だそれ……)


朝礼が始まった。本山曖那課長が今日の予定を説明している。35歳の厳しいけど優しい課長だ。


「それでは、今日から営業三課に加わった雪杉さんに、一言お願いします」


「はい」


雪杉さんが前に出る。もちろん、マグカップを持ったままだ。


「雪杉香です。前職では外資系で働いていましたが、今度はもっとゆったりとした環境で働きたいと思い、こちらにお世話になることになりました」


みんな静かに聞いている。


「私のモットーは『無理をしない』ことです。みなさんにご迷惑をおかけしないよう頑張りますが、残業はしませんし、有給もしっかり取らせていただきます」


(えっ、初日からそれ言うの?)


本山課長の眉がピクッと動いた。


「あと」雪杉さんが続ける。「私は社畜じゃないので、プライベートを大切にします」


朝礼の場が静まり返った。


「以上です。よろしくお願いします」


雪杉さんがお辞儀をすると、だしマグカップが少し傾いて、中の液体が揺れた。


本山課長が苦笑いしている。


「はい……よろしくお願いします。それでは、朝礼を終わります」


朝礼が終わって、みんなが席に戻る途中、蓮見さんが僕の耳元で囁いた。


「上村君、大変なことになりそうよ」


「そうですね……」


席に戻ると、雪杉さんはもうデスクに座って、パソコンに向かっていた。でも、画面を見ているわけではない。だしを飲みながら、ぼーっと外を見ている。


「雪杉さん」蓮見さんが声をかける。「まず、こちらの資料を見てもらえますか?」


「はい」


蓮見さんが資料を渡すと、雪杉さんは一応目を通した。


「なるほど……家電製品の売上データですね」


「そうです。これを元に、来月のプロモーション企画を考えてもらいたくて」


「分かりました。でも」


「はい?」


「今、だしタイムなので、30分後にお返事します」


だしタイム?


「だしタイムって……?」


「朝のだしを味わう時間です。これをしないと、頭が働かないんです」


そう言って、雪杉さんは再びマグカップを両手で包んだ。


(この人、本当に仕事する気あるのかな……)


10時頃、営業一課の佐々木翔さんがやってきた。僕と同期で、優秀な営業マンだ。


「おはよう、上村」


「おはよう、佐々木」


「新しい人が来たって聞いたけど……」


佐々木が雪杉さんの方を見ると、目を見開いた。


「うわ、美人……」


確かに雪杉さんは美人だ。佐々木が雪杉さんに近づいていく。


「初めまして、営業一課の佐々木です」


「雪杉です。よろしくお願いします」


「ランチでもいかがですか? 美味しいイタリアンのお店を知ってるんです」


佐々木の誘いに、雪杉さんは首を振った。


「すみません、お昼は昼寝の時間なので」


「昼寝?」


「はい。昼寝しないと、午後の仕事に影響するんです」


佐々木が困惑している。


「じゃあ、夕食は? 今度の金曜日とか……」


「金曜日は定時で帰って、ヨガのレッスンがあります」


「土曜日は?」


「土曜日はだし作りです」


(だし作りって……それプライベートの予定なの?)


佐々木が完全に諦めモードになっている。


「はあ……そうですか……」


そんな佐々木を見て、雪杉さんが微笑んだ。


「でも、お昼に一緒にだしを飲むのはいかがですか?」


「だし……ですか……」


「今度、特製昆布だしを持ってきます。きっと気に入りますよ」


佐々木が苦笑いしている。


お昼になると、雪杉さんは本当に昼寝を始めた。デスクに突っ伏して、静かに眠っている。


「本当に寝てる……」蓮見さんが呟く。


15分後、雪杉さんが目を覚ました。


「あ、いい昼寝でした」


そして、また新しいマグカップを取り出した。今度は昆布だしらしい。


「午後のだしタイムです」


(午後もだしタイムあるのか……)


午後の仕事が始まると、雪杉さんは意外にもテキパキと作業をこなし始めた。資料をチェックして、データを整理して、企画書の下書きまで作った。


(あれ、仕事はできるんだ……)


でも、1時間に一回はだしを飲んでいる。


夕方、定時の5時になると、雪杉さんは即座にパソコンをシャットダウンした。


「お疲れ様でした」


「あ、雪杉さん」蓮見さんが声をかける。「この資料、今日中に……」


「明日やります」


にっこり笑って、雪杉さんは帰っていった。


僕と蓮見さんは、呆然と見送った。


「上村君」


「はい?」


「これから、どうなるのかしら……」


その日、僕は9時まで残業した。雪杉さんの分の仕事も含めて。


家に帰って、今日一日を振り返った。だしマグカップ、社畜宣言、昼寝、そして定時退社。


雪杉さんという存在が、僕の平凡な日常を一気に変えてしまった。明日からどうなるんだろう。


でも、なぜか嫌な気分じゃなかった。むしろ、少し楽しみだった。


サボりの美学は雪杉さんに学べ。

――サボりはまず宣言から。


#オフィスラブコメ #社会人 #ラブコメ #現代 #星形にんじん


※この話は全てフィクションであり、実在の人物や団体などとは一切、関係ありません。


※AI補助執筆(作者校正済)






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