9
『私の、伴侶になってくれるか?』
薔薇が咲き誇る季節。
数年後にトルネシアの王として即位することが正式に決定していた王太子から現王妃ーーその当時はある伯爵の令嬢であったーーは求婚されていた。
彼女の生家はどの派閥にも属さず、中立を保っていた。
だから現在保たれている均衡を崩さない家柄出身の令嬢として彼女は王太子の伴侶として選ばれていた。
彼女の父親はどの派閥にも属していないことからも明らかなように権力争いには全く興味を持たない。
だが、王族の求婚を断れるほど、力があるわけでもなかった。
だから王太子から直接求婚されようがされまいが、彼女が王太子の伴侶になることは決定していた。
『君が私の妻となることは決まっている。だが、私の口から直接君に私の気持ちを伝えたかった』
そんな中、王太子が自ら彼女に求婚したのはとても誠実なことだろう。だから彼女も正直なことを話しておきたいと思った。
『・・・私は身体が病弱です。あなたにたくさん迷惑をかけてしまうと思います。それに、私が産む子ももしかしたらーーーー』
その先は怖くて言えなかった。
身体が弱いから次期王妃にふさわしくない、とは貴族に散々言われてきた言葉だった。そして彼女の産む子も、とも。
それが怖くて怖くて仕方がなかった。夢にまで見るほどに。
『私たちは政略結婚で結婚する。それは決められたことで相手が君じゃなくても決まっていた。それは君もだろう?そして私の相手は君に決まった。だから私は君のすべてを愛すると誓うよ。君の美しい亜麻色の髪も澄んだ空色の瞳も。・・・身体の弱いところも』
そこで一息ついた王太子は最後にこう付け加えた。
『そしてそんな君が産んでくれた私たちの子どももそれ以上に慈しむことを約束するよ。たとえ身体が弱くても』
そんな現王と王妃の恋物語は巷で人気を博している。
貴族からは厭われている王妃だが、平民からは愛されている。
病弱ながらも懸命に王を支え、そして亡くなるまで息子を愛し続けた、そんな王妃を。
王と王妃の話はどこから広がったのか、小説になり劇にまでなっているという。
貴族は苦い顔をしているが、王家はそんな広がりを止めようとはしていない。
王家が支持されることは、盤石な支持へとつながり、確固たる権力の保持につながるからだ。王家が支持されている間は貴族の入り込む余地はなく、体制が覆されることはない。
王妃は自身の話が広がることをとても恥ずかしがっていたが。
そんな話をここに来てふと思い出した。
ここは以前、シオンと共に訪れた場所。自然と足がこちらに向かっていた。
王太子の婚約者でもないレティシアが来てはいけない場所だとは理解している。けれど、王妃とシオンの話をして、彼のことを思い出したくなった。入り口付近なら少しくらい許されるだろう。
道をずっとまっすぐに歩いていけば王宮に辿り着き、そこにいる誰か適当な役人にリーゴット侯爵家の馬車を呼んでもらおうと考えていた。
ジークとの会合がいつ終わるのか検討が付かなかったので、来た時に馬車は帰していたのだ。
歩いていると時々庭師を見かける。生垣を刈り込んでいたり花びらを手で触って確認していたり。
こんな日々の積み重ねがこの美しい庭を作り出しているのだろう。
「レティシア、様」
と、ふいに戸惑いを含んだ声がレティシアの耳に聞こえた。
ガーベラから視線を移して、声の聞こえた方を見るとそこにはユーフェリアがいた。
やはりあの冷たい印象を受ける仮面を付けている。
「ユーフェリア様?どうしてこちらに?」
「私は、王に召喚されまして。レティシア様は?」
「私はジーク様に相談があると呼び出されましてこちらに。その後は王妃様とお話ししてました」
シオンが亡くなった後もユーフェリアは王族の信頼が厚いようだ。
それ以上彼は何も語らなかったが、きっと王は新しく王太子となった自身の弟とユーフェリアを面通しさせたのだろう。
不思議な光を放つアメジストの瞳をきょろきょろと彷徨わせていたかと思えば、ユーフェリアは唐突に口を開いた。
「・・・その、レティシア様はこの後はお邸に帰られるのでしょうか」
「はい、そうしようかと。役人の誰かにリーゴット侯爵家の馬車を呼んでもらおうと思っていました」
「そ、それでしたら私の馬車に乗りませんか?その、私の馬車は既に呼んでありますし、今から馬車を呼ぶより早く帰れると思うのですが」
心なしか口調が早くなった気がした。
だがそのことには触れず、レティシアは首を縦に振った。
シリウス侯爵家の馬車はリーゴット公爵家のものと劣らず豪奢で頑丈な造りをしていた。
繋がれている二頭立ての馬も若々しく凛々しい。
揺れは小さく、座席は低反発のクッションが敷かれているので心地よい。
ユーフェリアの馬車で送ってもらうことになったレティシアは彼と向かい合わせで座っていた。
「ユーフェリア様はなにか趣味のようなものがありますか?私は残念ながらなくて・・・これから何か見つけていきたいなとは思っているのですが」
「私もないですね」
「普段は何をされているのですか?」
「普段、ですか。・・・基本は王宮で働いていますので王宮にいることが多いですね。邸でも基本王宮にいる時と同じで書類仕事や領地関係のものに目を通したり。ああ、仕事の合間や暇になった時間に庭の散策をします。いい気分転換になるので」
「そうなのですね。私も勉強の合間に気分転換によく庭を散歩していました。自然の風景は心が和みますよね」
レティシアがよく歩いたのはリーゴット邸ではなく王宮の庭だが、空いた時間に散策した。
大抵は一人でだったが、たまに時間が合えばシオンとも短い時間だったが歩いた。
そのことをふと思い出した。
「レティシア様。お邸に着いたようです」
シオンとの思い出に耽っているうちにどうやらリーゴット邸に着いたようだ。
ぎこちないながらもユーフェリアにエスコートされ、馬車を降りる。
「では、私はこ」
ユーフェリアが辞意の言葉を述べ終える前に突如、声が響いた。
「レティ!」
レティシアにとっては聞き慣れすぎた声だったが、ユーフェリアにとってはほぼほぼ初めて聞いた声だったからだろう、少し戸惑った表情だった。
向けていた視線をユーフェリアから邸の方に移すと。案の定、そこには輝かしいほどの光を放つ金髪を風になびかせているレナルドが不満げな顔で立っていた。
「え、っとレナルド様でいらっしゃいますよね?」
厳しい顔つきで立っているレナルドに驚いたのか、レティシアに確認してきた。
「はい・・・。あ、もしかしたら私がユーフェリア様と婚約していることを知らないかもしれません」
レナルドはシオンが亡くなった後から今まで父の名代としてリーゴット侯爵が治めている領地のひとつに長期視察に行っていた。
だからレティシアが新しくシリウス侯爵であるユーフェリアと婚約を結び直したことを知らない可能性が高い。
「それで?レティ。なぜ君はシリウス侯爵と一緒にいるんだい?」
鋭い目でユーフェリアのことを見ながらレナルドは当然の疑問を発する。
「と、とりあえず、邸の中に入りましょう?お兄様」
疑惑の目でユーフェリアを見ているレナルド、そのレナルドの目線に耐えられず目を彷徨わせているユーフェリアを連れてレティシアは邸に帰った。
久しぶりに帰ってきたレナルドと今まで訪れたことのない同年代の令息の突然の訪問に目を丸くさせている家令に内心謝りながら、応接間に入る。
侍女に紅茶を準備してもらって、侍女が退出するやいなや先程と同じ疑問を発したレナルドにレティシアはこれまでの経緯を端折ることなく説明した。
兄はレティシアに関しては秘密にされることを嫌う。だから無駄にまとめて短く説明するよりは懇切丁寧に話したほうが得だ。
「ふうん。私の知らない間に、ねえ。・・・レティシア、何か菓子を買ってきてくれるかい?お客さまがいるのに何もないのは失礼だし」
唐突な提案に驚くが、兄に黙っていた負い目もある。レティシアは素直にその言葉に従った。
いつもレティシアのことを「レティ」と愛称で呼ぶレナルドが呼ばなかったことからも、レナルドが今回の件で随分拗ねていることが伝わる。
怒っていることはないだろう。レティシアはレナルドに怒られた記憶がない。
そもそも今まであまり関わりがなかったということもあるだろうが、レナルドは自分に対して怒らないという謎の確信がある。
それにあの目の色は怒っているというよりは秘密にされてショックを受けているような印象を受けた。