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「今日は何を教わったんだい?」
「政治史とネルフィリィの言語です。近く、ネルフィリィの大使が来日されるので」
レティシアは昼休憩の時間、シオンの私室を訪れていた。
妃教育で教わる科目は多く、また深く学ぶため、公務が入らない日は毎日朝から晩まで行われていた。
そんなレティシアが唯一自由にできる時間は昼を摂るこの時間だけで、シオンと会うのもほとんどこの時間だった。たまに教師が休みだったり授業が入っていなかったりした時にシオンと庭を散策したりお茶を飲んだりもした。だがそれもシオンが体調が良い時に限られた。
昼休憩の時間に会う時はシオンの私室だった。けれど二人きりではない。いつ体調が急変しても大丈夫なように必ず一人は医師が常駐していた。
それでも二人の時間を邪魔しないように医師は部屋の片隅に待機してくれていたし、シオンのベッドには天蓋がかけられ、外には二人の様子が見えないようにされていた。
「実は私も参加予定なんだ、そのネルフィリィの大使の歓迎パーティーに」
「そうなのですか?」
驚きで目を丸くする。てっきりレティシア一人で参加するのだと思っていた。
けれどシオンが参加すると分かった途端、気分が高揚する。なんて現金なのだろう。
「だから復習がてらネルフィリィの言語で話さないかい?」
「え、よろしいのですか?」
一通り習ってはいたものの、現地の人に話したことは一度としてない。だから少し不安があった。
それにシオンはレティシア以上に複数の言語を習得している。同盟国以外の、あまり関係のない国や冷え込んでいる国のものも。
「ああ。私も久々に話すからね。レティシアに付き合ってほしいんだ」
そう言うとシオンは表情を緩めた。口を大きく開けて笑うのではなく、目尻に皺を寄せて口角を少し上げて微笑む。それはあまり大きく表情筋を使いすぎると、神経が引き攣れたように痛むからなのだそうだ。だからどんな時も——嬉しい時も楽しい時も——この笑い方になってしまうそう。
状況に合わせた様々な表情ができないのが悔しい、とシオンは言っていた。けれどレティシアはその笑い方が好きだった。どきどきと心臓を激しくさせるものではなく、心の隙間に染み込んでくるような、穏やかな笑顔が。
『政治は何を習ったんだい?』
『レストリア帝国内で反乱分子が活発化していて、諸国に影響を与えている、という話です。そのせいでネルフィリィの大使が会談のために訪れるのですよね』
『そうみたいだね。ネルフィリィはレストリアと国境が接しているから。現に今、レストリアとネルフィリィの国境付近で放火や強盗が頻発しているらしい。その反乱分子の一派だろうと言われている。だからネルフィリィはトルネシアに救援を求めるために今回訪れるんだ』
シオンの会話は言語が変わったにもかかわらず、なめらかで。けれどレティシアが理解しやすいようにゆっくり大きく発音してくれた。だからレティシアはあせることなく、言葉を聞き応答することができた。
「失礼します、シオン様。入室してよろしいでしょうか」
コンコン、とシオンの私室の扉を叩く音がしたと思えば、聞き慣れない声がレティシアの耳に飛び込んできた。一体誰なのだろう。
私室前には近衛騎士が二人立っているが、彼らとは顔なじみで声も知っている。
この国の貴族ともシオンの代わりに出ている公務でたびたび会っているので声を聞けば分かるはず。
ということは、まだ爵位を継いでいない令息かもしれない。
レティシアは王族の婚約者であるため、社交界には一度として参加していない。だから年頃の令息はほとんどが名前しか知らない。
「私はいいが、レティシアは?」
「大丈夫ですわ」
レティシアがシオンの部屋にいるのはあくまで私的なことだ。
わざわざ訪ねて来た令息を追い返すようなことではない。そう判断してレティシアは返事した。
シオンが一声かけると、あまり音を立てず、男が一人入って来た。
レティシアはシオンのベッドのそばに居て、尚且つそこには天蓋がかかっているため入室者の姿は天蓋に映る影でしか見ることができない。
「殿下、失礼いたします。ユーフェリア・シリウスです」
男、ユーフェリアは入って来た位置から一歩も動かず、話し始めた。
どうやらいつもその位置からシオンと謁見しているようである。
なので当然レティシアの存在には気が付いていない。ユーフェリア側からはこちらは逆光になっていて見えにくくなっているのだ。
わざわざここまで来るくらいなのだ。もしや大事な内容ではないのか。そう思ってユーフェリアに聞こえないように、ここにいてもいいのか尋ねてみると。
「別に構わないよ。私はもちろん、ユーフェリアも人に聞かれて困るようなことは話していないからね」
そう言われたのだが、レティシアはなるべくユーフェリアの言葉を聞かないように意識した。
「・・・ということです。では、シオン様失礼いたします」
彼の話は十分もかからずに終わった。
どうやらレティシアが考えていたほど重要な話ではなかったようだ。
「ああ、いつもありがとう」
「いえ。お身体を大事になさってください」
一度頭を下げてユーフェリアは去って行った。
『あの方は、ユーフェリア・シリウス侯爵と名乗られましたが』
『うん、そう。先代のシリウス侯爵が亡くなって、彼は若くして侯爵位を継いだんだ。けれど同年代の誰よりもしっかりしていて、信頼しているんだよ』
いつもより重い瞼を上げると、見慣れた天井が目に映った。
どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
懐かしい、夢を見た。
在りし日のシオンと他愛もない話をしていた、なんでもない日を。
ユーフェリア・シリウスと出会ったのもあれが初めてだった。それからレティシアが唯一参加することのできた舞踏会で会っただけだから、ユーフェリアがどんな人なのかレティシアは知らない。
貴族の婚約は親によって勝手に決められるものだが、父はレティシアの好きにしていいという。
泣いたまま寝てしまったためぷっくりと少しだけ腫れた瞼を冷やしながらレティシアは思案に暮れる。
正直迷っていた。
父は結婚しなくてもいいと言ってくれているので、もしユーフェリアとの婚約を断ったとしても罵られたり無理やり修道院に入れられることはないだろう。
だけど肝心のレティシア自身の心がどこにあるのか、自分のことなのに分からなかった。
別の誰かと婚約して結婚したいのか、それともシオンのことを想って一生独身を貫きたいのか。
社交界にはレティシアの顔見知りの令息はいない。幼い頃から妃教育に明け暮れていたから幼馴染という存在もいない。同年代の令息で知っているのは兄だけ。レナルドはレティシアを溺愛しすぎていることしか分からない。比べようもない。
「少しはましになったかしら」
冷やしたタオルを当てていた瞼を触ってみる。
感覚では起きた時よりは軽くなったと思う。
とは思ったものの、この後入って来たレティシア付きの侍女、アンに大層驚かれてしまったが。