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とぼとぼとレティシア付きの侍女アンと菓子を買うため、歩いて行く。
通常は馬車で行くのだが、馬車を準備するのに時間がかかってしまう。それなら歩いて行った方が早い。それに、ここら辺は治安もいいから滅多なことでは事件に巻き込まれることもないだろう。
リーゴット侯爵家で懇意にしている店があり、その店までは徒歩で行けるほど近い。
カランカラン、と扉に取り付けられた鈴が良い音を響かせて鳴る。
「こんにちは!リーゴット侯爵様ですね。いつものでよろしいですか?」
溌剌とした少女にそう尋ねられ、レティシアは頷く。
焼き菓子専門店であるこの店は巷でも美味しいと評判だが、特にクッキーは別格だと評判なのである。そしてリーゴット侯爵家もいつもクッキーを買い、邸に来たお客様にお出ししている。
「ごめんなさい。今ちょうどクッキーを焼いているところで、あと十分ほどお時間いただいてもよろしいですか」
レナルドがユーフェリアに対して失礼なことをしないか心配だったので一刻も早く帰りたかったが、この場合は仕方がない。
店内の一画にある座席にアンと二人して腰を下ろす。
「まさか、レナルド様が今日お帰りになられるとは思いませんでした。リーゴット侯爵様によるとあと数日はかかる予定だったそうですよ」
「そうなのね。少し運が悪かったわ」
レティシアは苦笑を漏らす。
「でもリーゴット侯爵様はレナルド様にお知らせにならなかったのですね。レティシア様のご婚約を」
「それは多分、知ったら仕事を放り出して帰ってくると思ったからではないかしら」
想像ではあるが、この仮定は真実に近い気がしている。
そんなレティシアの気持ちが分かったのか、アンの顔にも苦い表情が浮かんだ。
レティシアが邸に帰った時には彼女が出てから三十分ほどが経っていた。
応接間の前でアンと分かれ、室内に入ると、出る前と変わらない位置に二人は座っていた。
「ああ、レティシア、お疲れ様。買ってきてくれたんだね、ありがとう」
レナルドの表情は心なしか、先程よりも落ち着いて見える。
「お時間をいただいたからと、新作のメープル味をつけてくれました」
「おお、それは楽しみだね」
レナルドに気づかれないように、ちらとユーフェリアの方を見ると、形容しがたい表情を浮かべていた。
シオンの代わりに出席していた公務のおかげで人の表情を読み取る術は人よりも身につけている自負があったが、それでもユーフェリアがどんな思いでその表情を浮かべているのかわからなかった。
強いて表すのならば、戸惑いと喜びだろうか。
レティシアがユーフェリアの方を見ているのに気がついたのか、レナルドはレティシアが買ってきたクッキーを頬張りながら口を開いた。
「ああ、レティ。今度、ユーフェリア殿と劇を観劇しに行くことになったから」
「え、それはどういうことですか?」
「言葉通りの意味だけど?安心して、俺は行かないから」
レティシアの困惑は深まるばかりだった。
まず、妹大好きのレナルドが自ら異性との逢い引きをセッティングしたことに驚いた。レナルドが一番反対すると思っていたのに。
けれど同時に得心もいった。先程のユーフェリアの不可解な表情はきっとこのことを表していたのだろう。
そしてレナルドが家族以外がいる場で「俺」という一人称を使っているのにも驚く。彼は公的な場では「私」を使っていたはずだ。
邸の外で話す時は必ず「私」と言っていた。
そんなレナルドがユーフェリアの前で「俺」と言っている。
レティシアがいない三十分の間に一体何があったのか。
訝しげな表情をしているレティシアに気付いたのか気づいていないのか、レナルドはまたもやレティシアが描いていた兄像からは想像もつかないことを口にした。
「こんな時間だしユーフェリア、晩御飯も食べていきたまえ」
レナルドが取ってくれた劇のチケットは、巷で話題の劇のものだった。しかもその中でもなかなか手に入れられない席のものだ。
彼の社交界での交友は他の貴族と比べると狭いはずだ。あまり舞踏会に出席しないので、同年代との令息とも数人しか面識がないのもそのことを表している。
なのに、貴族でも手に入れることが難しい劇のチケットを取れたとは。どんな手段を使ったのだろう。
レティシアの知る限り、レナルドの趣味といえるものは乗馬だけのはず。劇を観劇することが好きなのだという話は聞いたことがない。
「レナルド様が取ってくださったのですね」
「はい。・・・どうやって手に入れたのでしょうね」
隣に座るユーフェリアに思わず苦笑を漏らしてしまう。
劇場の個室の二階。金額はもちろん、席を取るのにも一苦労の座席である。
周りには見えないようにカーテンを閉めているので周囲は少し暗くなってはいるが、舞台は見えるようにしている。
あらかじめもらっていたパンフレットに目を通す。
観劇するのは今から二百年ほど前を舞台にした恋愛劇だ。
主人公はある小国の王女であるが、貴族にも家族である王家にも冷遇されていた。それは彼女が唯一、正妻から生まれた子どもではなかったからだ。
そんな王女はある日、出席した舞踏会で見目麗しい令息と出会う。
令息と義務で一曲だけ踊った円舞曲。しかしその一曲で二人は恋に落ちてしまう。
だが冷遇されているとはいえ、彼女は一国の王女。一方、令息は侯爵家出身ではあるが爵位を継ぐことはない次男。二人の間には決して超えることの出来ない明確な身分差が存在していた。
けれど二人はそれでもよかった。邪険に扱われている王女に縁談話が来るとは彼女自身思っておらず、令息も次男であるので家族から結婚を急かされているわけでもない。一生独身を貫いても文句を言われない立場だった。だから互いに密かに相手への恋心を募らせているだけで満足だった。
しかしそんな日々もあっけなく崩れ去る。
ある日、来るとは思っていなかった縁談話が王女の元に舞い込んだのだ。
その縁談は大陸の領土の半分を統治している大国からもたらされたものだった。しかも相手は王女の倍は歳が離れている人物。なんでもある夜会で王女を見染めたらしかった。
その人物には既に正妃がおり、他にも側妃や愛妾が何人もいる。小国の王女が正妃になれるはずもなく、彼女が幸せになれる未来はどう考えても見えなかった。
しかし王はその縁談話を受けた。
そもそも大国からの打診を小国が断れるはずもない。断れば戦争になることは間違いなかった。現皇帝は好戦的な人物として知られ、その手腕で領地を拡大していた。
皇帝が望んだのは王が気まぐれに手を付けた侍女の子。そんな子のために国を危うくする気は王にはさらさらなく、失ったところで王にとって痛くもかゆくもなかった。
誰もが彼女の気持ちなど気にしなかった。たった一人を除いて。
輿入れ当日。王女が大国へと向かう道中の馬車を襲い、王女をさらったのは、彼女に想いを寄せていた令息だった。
彼は王女のため、地位や名誉の何もかもを捨て、彼女を救い出すことにしたのだった。
二人はその後、国から追われる身となり、生活も慎ましいものになってしまったが、子どもに恵まれ、幸せに暮らした。
この劇はひとたび上映されるや人気を博し、上映期間を大幅に伸ばし、今なお上映され続けている。
それでも席を取るのは未だに難しい。
ここまでこの劇が人気なのは内容が素晴らしいこともあるが、主人公の王女を演じる女優も人気の要因となっている。
この劇は王女の不遇な少女時代から描かれている。だから普通であれば少女時代と美しく成長した成年時代を演じる二人の女優がいるはずなのだが、この劇にはなんと一人の女性がすべて演じている。
王女を演じる女優は身長が低く、少女時代を演じることは容易だった。成長した後はシークレットブーツを履き、身長を補っている。
またそれだけでなく、少女時代の繊細でか細い声と、成年時代の恋を知り、その恋心をせつなげに歌うさまは一人の女優が演じているとは思えないほどなのだと評判になっている。




