八
───さて、織江はと言うと、今もなお、あの男を探し、庭園を駆け廻っていた。
「······──あった!」
やっと見つけたそれに、織江は駆け寄る。ところが、あと少しというところで脚が縺れてしまった。
これは間違いなく顔を打つと、ぎゅっと目を瞑り、覚悟を決めた。
「·····。───あ、あれ?」
倒れたはずなのに、何故か自分の頭影が見える。それに、気のせいか、腹の辺りがほのかに温かい。
「───怪我はありませんか?織江殿」
はっとして振り向くと、あの男が立っていた。
男は織江の顔を見て、安堵の表情を浮かべ、彼女の体を支えている腕に力を込めると、その体をぐいと抱き起こした。
「あの···ありがとう御座います···」
造作無いと言う風に男は軽く目を閉じ、こくりと頷く。
「ところで、何故この様な庭外れに?いくら敷地内とは言え、年若な女性が、夜更けに来る場所では在りませんよ」
「····貴方を、探していたのです」
「私を?どうして?」
「どうし····てでしょう?」
織江の応えを聞いた男は、目を大きく見開くと、そのとぼけた様子に可笑しくて、笑い声をあげた。
「ははははっ!···はあ。あないに、脚が縺れそうに成るまで駆け廻ったのに、どうしてか解らぬとは···貴女は変わっている」
そう。自分でもそう思うと、織江は思っていた。
でも、解らないのは嘘ではない。嘘ではないのだが、何故なのか、あの時、去りゆく背を見て、行かなくてわと、自然に頭を過ぎって、気がついた時には、庭中駆け廻って、必死にこの男の姿を探していたのだ。
そして、こうして笑う姿を見ていると、また何とも言い難い程に、心がほころんで行く。
「···用があるなら、その場ですぐ呼び止めるといいですよ?私でなくてもね」
そう言って、あの美しい菖蒲色の瞳で見つめられると、何だか、むずむずしてしまう。
「····そうだわ。あ、あの、私、御礼を忘れていて」
織江は自分の着物の袖口に手を伸ばすと、そこから先の大手毬の花をそっと掴み取って、男の前に出した。
男はそれを見ると、ああなる程と、直ぐ側に咲く低木に視線を落とした。
「···だから此処に」
「はい。あの時、私達の側には薔薇しか見当たら無かったので、それに····あの···」
言葉に詰まる織江の姿に、どうかしたのかと男は小首を傾げる。
「私、貴方様の御名前を知らなくて···だから、もしかしたら、大手毬の咲く場所を見つければ、もう一度、お逢いできるのではない、か、と···」
その話を聞いた男は、また目を伏せながら、ふっと笑い声をもらす。
「本当に···」
「···?···あの、何か?」
「いや、呼び止めろと言っておきながら、そうですね。名も知らぬ男では、止める術がない」
その前に、何か男が呟いていた気がしたが、気のせいだったのか、と、今度は織江が男に小首を傾げる。
二人の間に風が吹き、波打つ様に純白の花珠が揺れる。
ちらほら花弁が舞う中、男は織江の方へと更に足を進め、目前で歩み止めた。
「───天青」
「え?」
自分より、遥か背の高い男を見上げる織江。
鋼色の髪が風に靡き、その合間から見える神秘的な双眼に、どうしても目が奪われてしまう。
きっと、この男が、花を愛でる時の様な、慈しみの目を向けてくるからだ。と、織江は自分に言い聞かせた。
「半、水浅家嫡男·天青と申します」
「水浅の····天青···様」
己の名を呼ぶ織江に、どこか嬉しげにこくと頷く天青。
──まただ。
この人の周りだけがはっきりと、凄く輝いて見える。
それに、この内の感覚は何と呼ぶのだろう。と、織江は不思議な心持ちの中、思い巡らせたが、ふわふわして、どうしようも考えが纏まらない。
天青は、自分を見詰める織江から大手毬の花を取ると、それをそっと、彼女のまとめ髪に飾った。
「大手毬は、今日の貴女によく似合う」
「ありがとう御座います···天青様」
先の紫烏との事へか、今受けた褒め言葉に対してかは、解らない。
けれど、天青に感謝を伝えられただけで、織江はとても満足そうに、笑みを溢した。
「────ああ!!やっと見つけましたわ!!兄様!!早く!!」
「───っこら、紫烏!待ちなさい!」
夜風に花靡く二人の時は、怒りと悔しさに噴霧した紫烏と、従兄妹に付き合わされ、息を切らす宝珠の登場により、その幕を閉じた。
「おやおや、嵐の前の静けさでしたね、織江殿?」
「貴方は、また嫌味ったらし····」
「紫烏様に、宝珠様も?一体どうされたのですか?」
織江の問い掛けに、そうだったと目的を思い出した紫烏は織江の肩に手をかけた
「そう!もー!!聞いてくださいましな!!私、先に宴へ戻りましたでしょ?そしたら!!嗚呼あ!!今思い返しても腹が立つ!!」
紫烏が掴む手に力がこもり、織江の着物の肩に皺が寄る。
「し、紫烏様、落ち着いて!」
興奮しきりの紫烏に、織江の言葉は聞こえぬようで、このままではいけないと、荒ぶる紫烏を宝珠が、うろたえる織江を天青が、自分の方へと引き寄せた。
獣の様に熱り立つ紫烏に代わり、宝珠が応える。
「いや、それが···今様の姫君が常雪をお気に召されたようで。引き離そうとした璃雪諸共、主賓席へ連れて行かれてしまったんだ···それで···」
「嗚呼あ!あの姫!!「貴女、常雪様の何ですの?」って···嗚呼あ!!腹ただしい!!可愛い常雪様があんな女に····」
「可愛いって···。常雪君はもう成人された身ですよ?だから下らない話などせず、付かず離れず、お側に居れば良かったのです。そうすれば他の女子に取られる事など無かったのに···」
天青の言葉に、紫烏が苛立ちを爆発させる。
「何よ!!本当に意地悪な方ね!!そうよ、私が目を離したのがいけなかったのよ!!だけど、誰かに···あの方を良く知る方に···常雪様も、私と同じ気持ちだと、言ってほしかったのよ····」
そう。紫烏とて馬鹿ではない。
今日の式典の本意だって知っていた。
常雪は奥手だからと、甘んじて側を離れた自分が悪かった事も、何もかも解っているからこそ、腹が立って仕方ないのだ。
悔しさに涙を溢す紫烏の姿に、皆一様に静まり返る。
そんな中、天青は織江を支えていた手を離し、宝珠に抱えられたまま、泣き崩れる紫烏の前に立った。
「···気は済みましたか?」
「····ふ、え?」
「顔をお拭きなさい。刈安、神王の娘·茅亥紫烏」
天青の呼び掛けに、戸惑いながらも顔を上げる紫烏。
天青は続ける。
「賢い貴女なら、ここで声を挙げても何も変わりはしない事、解りますね?」
「はい···」
「常雪様を攫ったのが姫ならば、取り戻せるのもまた姫だと、私は思います」
天青の言葉に、紫烏の目が輝き出す。
「さて、風見の若君方を迎えに行きましょう」
「────っはい!」
紫烏がいつもの姿に戻り、二人の遣り取りを見守っていた宝珠と織江もふっと胸を撫で下ろした。
「───常雪様♡さあ、一献」
「いえ、私は···」
「あら···では、桜茶でも♡」
「はあ···」
意気揚々と姫は茶を渡すが、常雪は心ここにあらずといった様子で、溜め息が止まらない。
璃雪も酒を注がれたものの、意気消沈の弟が気になり、中々進まない。
頼みの綱だった宝珠も、腹を立てた紫烏に連れられ何処へか消えてしまい、八方塞がりだ。
それに、紫烏だけが先に戻ったのも璃雪は気になっていた。
天然だが、根はしっかり者の織江の事なので、一人屋敷の外へ出るような事はしないが、酒に飲まれたものに絡まれたりしてはいないか、広い庭で迷ったのではないか、内心、心配で仕方なかった。
───「···織江」
酒面に写る月を見詰めながら、早く戻ってくれと願う璃雪。
「────な、何ですか!?」
「────いや、姫様に御挨拶がまだだったもので、お目通りをと」
姫の父親であろう男に、真正面から言掛けた男に周囲がざわつく。
そうして皆が気取られてる内、璃雪の袖を何者かがちょいと引く。
「あれって···──織江!?」
「───ただいま戻りました、璃雪様」
「今まで何処に居たの?心配したよ···」
「申し訳ありません。少し用事がありまして···」
用事とやらが気になるところだが、とにかく、織江が戻って来た事に璃雪は安堵した。
「───ところで璃雪様、常雪様は?」
「ああ、えっと···あ、あそこ。藤棚の直ぐ隣の席」
璃雪の指し示す方へ視線を遣ると、そこには船酔いの時のように、魂が半分抜けた顔の常雪が、前世で言うところの『金髪美女』に極めて一方的に話しかけられ、懐かれていた。
「あらあ···。あの、あちらの常雪様に寄り掛かっている女性が今様の姫様で?」
「っそ。なんか知らないけど、常雪に偉く御執心でさ」
と、言う事は、あれが常雪の言っていた"プレイヤー"で、その者の"ラブロマンス"の相手に常雪が選ばれてしまったという事だ。
常雪の話では、金髪を選択した場合、愛らしい容姿の姫君のはずだ。しかし、どう見ても、あの姫君は紫烏よりも上、あるいは璃雪らと変わらぬ歳頃の何とも扇情的な大人の女性だ。
もしかすると、いよいよバグの影響が人にも現れだしたのかもしれない。
とにかく、出来るだけ早く常雪をあの姫君から奪還し、今後の策を練らなくては。
「あの、璃雪様。主を放っておきながら、大変恐縮なのですが、御知恵をお貸しくださいませんか?」
「構わないけど、どうしたの?」
「えー···。あちらを御覧くださいませ」
今度は織江の指し示す方へ、璃雪が目を遣る。
すると、宝珠の身体に隠れて気が付かなかったが、従兄妹の袖裾を、手に筋が立つ程握り締め、荒振る獅子の如き覇気を放つ紫烏が、未だ常雪にベタベタと張り付く姫君を、ひたすらに睨みつけていた。
「このままでは、宴が戰場に成ります···」
確かに、あの様子だと、紫烏の堪忍袋の緒が切れるのは時間の問題だ。
璃雪は織江に協力する決心をした。
「とりあえず、あの姫様の気をそらさなければ成らないのですが···」
織江の言葉に、璃雪は知恵を巡らせた。
単にあの姫君が美丈夫を好むなら、自分と宝珠で話し掛ければ良いのだが、先の様子から察するに、常雪しか眼中に無い彼女に効果はない。
とすると、常雪自身が確固たる意志でもって、彼女への拒否を態度で示さなければ、この状況を脱するのは不可能。しかし、こうした社交場に不慣れな常雪に、女性をかわす術などない。
「織江、僕らも彼を見習って真っ向勝負といこう!」
「彼···天青様をですか?」
「っそ!常雪が昼間、具合が悪かった事実を伝えて、明日に備えて休ませたいと伝えれば良い」
「ああ!確かに、真実を交えてお話すれば姫様も御納得されますね!!では、私が早速···」
いざゆかんと、立ち上がろうとした織江の腕を、璃雪が掴む。
「あ!待って!僕が行く!」
「でも、璃雪様にそのような···」
申し訳無さに眉を寄せる織江に、璃雪は笑みを浮かべながら、首を降る。
「ううん。僕も常雪が心配だし、水朝の若様のお陰で、姫に話しかけやすくなったから。それに···」
「それに?」
「····負けてられない」
その言葉の意味指すものが、織江にはよく解らなかったが、兎に角、主が行くというのだ。
「···解りました!!お願い致します!!」
拳をぐっと握り締め、期待に瞳を輝かせる織江らしさに、璃雪はふっと鼻を鳴らした。
(え〜!!何よ、何よ!!常雪ルートで始めたのに、どうして天青がしゃしゃりでてくるの!?···え、でも、まさか····え〜♡まさか、逆ハー?逆ハー系?!やだ〜♡でも、天青はタイプじゃないんだよな~。はあー。だったらあの璃雪キャラがいいなー。てか攻略非対象なのに顔強すぎ!あれかな?全クリしたらルート選択出来るのかな?···)
「····もし····もし?」
「うーん···うん?···きゃ!!」
姫は、今まさに、脳内に思い浮かんでいた璃雪の出現に、驚きのまり声を上げる。
「すみません。驚かせてしまいましたね···」
「い、いえ!!私こそすみません···」
璃雪は、もう一歩、姫に歩みを寄せる。
「姫、御歓談のところ、誠に申し訳ないのですが、弟は長旅で少々疲れておりまして···兄としては、明日の公務に備え、そろそろ休ませてやりたいのです···」
弟を思いやる璃雪の言葉に、姫は戸惑った。
璃雪の言う事は解る。解るが、せっかく捕まえた常雪をたった数時間程度で手放すのは惜しい。しかも、天青の申し出で辺りがざわつき、ムードは台無しだ。
それに、話を盛り上げるためとは言え、紫烏の事も気になる。
基本的にこの手のゲームは、プレイヤーの一人勝ち。出来レースの様なものだ。
無論、"ハッピーエンド"になるか、"バッドエンド"に成るかはプレイヤーの采配次第だが、それだって、全てお膳立て。セオリーにのっとってのこと。
だが、モブにしては、紫烏は美し過ぎる。普通はもう少し控え目な、当たり障りない程度で在るはずが、居るだけでそこに花が咲くよう、人目を惹きつけるものがある。
それに加え、紫烏も常雪を好いているようだった。
今、この手を離せば瞬く間に常雪を取られてしまう可能性もある。
ううとか、でもなど言って、どうにも応えを出せぬ姫に璃雪がとどめを刺す。
「姫?どうしても駄目···かな?」
視線を姫に合わせ、困ったように小首を傾げながら、潤んだ目を向け、あえて普段調子で話しかける。
利休一と名高い風見璃雪のおねだりを断れる女性など、母である黝簾と、織江くらいだ。
姫の胸がきゅっと締め付けられ、目は恋色へ、見る見るうちに変わってゆき、ようやく観念した様子で常雪に絡めた手を離した。
「そ、そこまでなら···よ、良しなに···」
「姫様のお心遣い、感謝致します。さ、行こう、常雪」
兄に促されるまま、姫へ会釈をし、常雪は晴れて、自由の身となった。
「···常雪様!!」
利休の席に戻った瞬間、いの一番に駆け寄って来たのは紫烏だった。
「···紫烏様」
「ごめんなさい。私が、ちゃんと引き留めれば、こんな···こんな···」
疲れ冷えた常雪の手を、自分の手で包み込む紫烏の目に涙が滲む。
常雪は少しだけかがみ、紫烏の顔を覗く。
「泣かないで···。紫烏様のせいではありません。私がもっと、はっきり御断りするべきだったのです」
紫烏は疲れてもなお、自分を労ってくれる常雪の優しさが嬉しくて、苦しくて、目の奥が、じわと痺れ上がる。
二人の様子を見守っていた宝珠が、常雪の方へ歩み寄る。
「常雪、疲れているところ申し訳ないが、紫烏を宿まで送っては貰えないだろうか?ちょうど、利休の宿の2つ手間なのだが···」
「承知しました。私が責任を持ってお送り致します」
「···ありがとう。さあ、紫烏。行きなさい」
宝珠に促され、紫烏は常雪と伴だって宴を後にした。
「───良かった···。」
璃雪の助けで、事なきを得た常雪と、どこかはにかんだような、安堵の表情で横並ぶ紫烏の姿に、一先ず安心した織江。その両隣に立つ璃雪と宝珠も、良かったと言う風に二人を見送った。
「やれやれ。あの二人、ようやく一歩前進というところ···でしょうか?」
彼らしい皮肉を含みながらも、二人の姿に采を贈る天青。彼なくして、今回の常雪奪還は成功しなかっただろう。
「天青様。···これは?」
「蓮茶です」
天青から渡された湯呑みを顔の方へ寄せると、肉桂の様な、鼻を抜ける香りの中に、花の蜜を思わせるほのかな甘さを秘めた、なんとも胸安らぐ豊かな香りがした。
「─────良い香り」
「香りは勿論ですが、貧血予防にもいいのですよ」
「貧血予防?」
きょとんとした顔で自分を見る織江に、天青が続ける。
「今日は沢山話を聞いて、庭を駆け、思考を巡らせたでしょう?そうして過ごしていると、特に女性は、貧血に成りやすいのです」
織江は驚いた。この天青という男は飄々とし、見方によれば痴れ者とも取れるのに、その実、優れた策士で、周りへの配慮を欠かさない。
掴み所がないとも言えなくはないが、はっきりとした温かみ、情のようなものも感じる。
今、自分の頭の中に浮かべられる言葉で現すなら、やはり、不思議という言葉が、水浅天青という男を現すのにもっとも相応しい。と、織江は思った。
「···ほら、またそうして思いを巡らせている」
「え、あ!ああ···」
不意をつかれ、織江は恥ずかしくなった。
恥ずかしいのに、天青の事が気になり、ちらと彼の様子を伺うと、どうしてだろう、天青は嬉しそうに微笑んだ。
「───さて、私も宿に帰るとしよう」
そう言って側に居る璃雪と宝珠に会釈をし、踵を返す天青。
「織江殿」
「はい」
「お休みなさい···」
「お休みなさい···天青様···」
天青は、少しだけ顔をこちらに向け、肩越しにもう一度頭を下げると、ゆったりとした足取りでその場から去っていった。
織江は、受け取った蓮茶の温もりを感じながら、夜暗に姿消えるまで、天青の背をずっと見詰めていた。