五
刈安神王補佐官·茅亥宝珠の閃きで、今様の都より西に向かった織江と璃雪。
宝珠の手綱捌きに、何とか食らいつく璃雪だが、慣れない巨体馬の駆け足は、細身の璃雪にとって、なかなか堪えるものだった。
一方、宝珠の馬に同乗する織江はと言うと───。
「凄い!凄い!まるで風になったみたい!!これが速足なのですね!」
「恐くはないか織江?」
「とんでもない!憧れの青鹿毛のシャイアーに乗って、こうして大地を駆ける事が出来るなんて私···感動しております!!」
言葉に嘘がない事が解るほど、活き活きとした笑顔を向ける織江に、宝珠の顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「ねええっ!!宝珠!!いつまで走るのさ?!」
疲労でいっぱいいっぱいだが、どうにも二人の事が気になって仕方のない璃雪が力を振り絞って、宝珠へ言葉を投げる。
「悪いな璃雪!もう直ぐそこだ!!」
宝珠の言葉通り、遣り取りから数分の後、三人は目的地に到着した。
「着いたぞ」
人気のない海岸沿いの道に、純白の、柔らかな花が咲き乱れる一本の古木。少し傾き始めた陽の光に照らされる柔らかな花弁が美しくて、織江と璃雪はその木に釘付けになった。
「ヤマボウシですね?」
「ああ。刈安にもある木でな、前回の公務で今様を訪れた時に見つけた。私の一番好きな場所だ」
「花言葉はたしか···『友情』」
「織江は花にも詳しいのだな」
「いえ、私の···知り合いに詳しい人が居て···」
織江は花を見ながら、前世の祖母の事を思い出した。
祖父と共に理髪店を営んで居た祖母は、毎日ばっちりと化粧をし、下町育ちの曲がった事が大嫌いなボーイッシュな人だったが、生き物や草花を愛でる事が大好きで、理髪店なのに店前は祖母の育てた花でいつもいっぱいだった。この花の花言葉を教えてくれたのも祖母だ。
大好きな祖父と祖母。
孫がたった十五で世を去り、どれだけ悲しんだ事か。
その事を思うと、織江の胸は痛む。
「····織江?どうかした?」
璃雪の声に、織江の心は今世に引き戻された。
「あ、いえ···あ!もしかして宝珠様。この花を璃雪様に見せたくて?」
織江の問いに応えるように頷くと、頭上の白花に宝珠はそっと手を伸ばす。
「璃雪が初めてだった。私の生い立ちを知りながらも、友として迎えてくれたのは···」
宝珠は刈安の現神王直系の甥だ。本来であれば、神王の子らと並び、次期神王候補にその名を連ねる立場にあるのだが、神王の兄、宝珠の父は、有能で人望の厚い弟への嫉妬から、手の施しようがない程荒れた生活を送っており、愛人は国中にいたのでは無いかと噂されていた。
そんな中、何とか家の面子を守ろうとした家臣らによって、連れてこられたのが利休の華族の娘。宝珠の母だった。
灰褐色の瞳を持つ、心根の優しい異国の娘に、宝珠の父は心奪われ、程なくして宝珠が生まれた。
愛しい妻と、子宝に恵まれ、宝珠の父もようやく茅亥の当主としての自覚を持ち、務めを果たそうと、心を入れ替え日々精進した。
しかし、幸せは長く続かなかった。
宝珠が三つを迎えた頃、主の留守を狙い、忍び込んだ賊によって、宝珠の母は還らぬ人となった。
賊を送り込んだのは、妻に出会う少し前まで、宝珠の父が囲っていた愛人の女性だったと、後の調べで判明した。
賊も、女性も処罰を受けたが、宝珠の父は過去の己を恨み、初めて心から愛した人を喪った悲しみから、立ち直る事は出来きなかった。
そうして妻の葬儀から一ヶ月。
自らの胸を護り刀で突き、宝珠の父は、その人生に幕を降ろした。
左手には、愛する妻の形見の髪留めが、握られていたと云う────────
「両親を喪った私は、当時、前神王陛下の補佐官だった叔父上に引取られた。叔父上は、私を本当の息子の様に愛うてくれたが、昔の父を知る者から、心無い言葉を投げられた時もあった···妾の子なのではないかと、野次を飛ばす者も居たか···」
宝珠は悔しかった。
過去の父が、どれ程の事をしてきたのかは解らない。
けれど、母を見る父も、父を見る母も、何時も幸せそうで、二人が自分を何より大切に思ってくれていたのは幼心に解っていた。
「いくら神王補佐官の甥御と言えど、そうした所以から、皆、我が子を護るように私から遠ざけ···友と呼べるものは一人も居なかった···」
孤独な幼少期を送っていた宝珠に転機が訪れたのは、新しい神王と成った叔父の載冠式での事。国内外、多くの王公貴人が集い、若き王の誕生を祝福した。
しかし、こうした式典は必ず政治的意味を含み、宴の席は各国家の次世代や、許嫁候補の顔合せの場ともなる。
そして、当たり前のように父母が不運な死を遂げた宝珠に声をかける者は居ないはずだった──が。
「茅亥家嫡男、宝珠様ですね?」
「···はい。貴方は?」
「冬を司りし利休は、篝を預かる風見家、当主·唯雪と申します」
そう、一人宴の片隅で、隠れるように過ごしていた宝珠に言葉をかけたのは、若かりし唯雪だった。
声をかけてくれる大人がいたなんて。しかも、その人は自分の前に跪き、傅いている。
宝珠は驚き、戸惑った。
「風見の御当主さま!どうか、あたまをお上げください。私のような者に···そんな···」
今にも泣き出しそうな幼子に、唯雪は顔を上げ、まだ小さいその手を握ると、真っ直ぐに目をを見つめ、言った。
「そのように己を卑下しては成りません若君。私は、貴方の御父母様方を、よく知っております」
「本当に?」
宝珠の言葉に、微笑み頷き、唯雪は続けた。
「ええ。以前、茅亥家を訪れた際、揺り籠に眠る貴方を愛おしそうに見詰めながら二人は仰っていました──『宝珠は、天が授けてくれた私達の宝だ』と···」
どうした事か、言葉が止んだ途端に、宝珠は唯雪の腕の中に抱き竦められていた。
「っ?!···唯雪さま?!」
唯雪の身体が微かに震えている。宝珠は一体どうしたのかと、、頭の中が疑問符で埋まりそうになる。
「申し訳ありません····」
「唯雪さま····?」
よく見ると、唯雪は宝珠を抱き締めたまま声を殺し、大粒の涙を流していた。
「私は···貴方を··貴方の父上様を···悲しみから、救って差し上げられなかった···」
「そんな!唯雪さまのせいでは!!」
「あの方は、母上様を、本当に···本当に····愛されていたのです。そして、貴方の事も···若君、どうか、どうかあの方を···父上様を許してあげて下さい。この唯雪に免じて、どうか···どうか···」
苦しげな唯雪の声に、宝珠の目からも涙が溢れた。
母を喪い、たった一人の家族だった自分を置いて逝ってしまった父。
怒りよりも先に、何故そうなってしまったのか解らないまま、孤独な時を過ごしてきた。
父は自分を嫌っていたのではないかと思い、悲しくなった時もあった。
けれど、それは間違いだった。
父も、母も、自分を心から愛してくれていた。
愛していたからこそ、父は傍らに母が居ない日々を、受け容れる事が出来なかった。
嫌われていたのではない。
それが解っただけでも、今の宝珠は嬉しかった。
「私は、ずっと···父様は、私といるのが嫌で、逝ってしまったのだと···本当は父様達の子では無いのだと···」
「そのような事、断じて在りません。貴方は、あの方達に愛されながら生まれて来たのです。若君···貴方はここに居て良いのですよ」
気がつけば、宝珠は抱え返せない程大きい唯雪の体にしがみついて泣いていた。
〈ここに居て良い〉
その言葉をずっと、待っていた事に宝珠は気がついたのだ。
二人はそうして、人知れず、心ゆくまで涙を流し合った。
明くる日、唯雪は宝珠の元を訪ねた。
「こんにちは、唯雪さま」
「こんにちは宝珠様。今日は、私の息子をお連れいたしました。さ、ほら···」
唯雪の言葉に促され、その背からひょいと姿を見せたのが当時六つの璃雪だった。
「初めまして宝珠さま。風見唯雪が嫡男、璃雪と申します」
菫色の瞳が印象的な歳近な少年に、緊張しながらも宝珠の胸は歓喜に高まる。
「は、初めまして璃雪さま。茅亥宝珠と申します」
何となく、気が合いそうな二人の様子に安堵した唯雪は、神王との謁見が控えているため暫く席を外すと伝えると、二人を宝珠付きの侍女に託し、屋敷を後にした。
侍女が茶の支度をする間、二人は宝珠の部屋の出窓から、外を眺めていた。
「ねえ、僕ら同い歳なんだから、大人みたいな話し方止めようよ」
「え、は····うん」
「じゃあさ、宝珠って呼んでいい?」
「うん」
「宝珠も、僕のことは璃雪って呼んで!」
「···璃雪?」
引き取られてから、叔父意外に名前を呼ばれたのが初めてで、宝珠はなんだかくすぐったい気持ちになる。
「ねえ?璃雪はどうして昨日の宴に居なかったの?」
「うぅ···出られなかった、んだよねぇ···」
外に出れなかったとは、具合でも悪かったのだろうかと宝珠はたずねた。
その質問に、困ったような笑みを浮かべながら璃雪が応える。
「まあ、気分が···う〜ん。そうだね。あれは最悪の気分だったかも···」
璃雪の容姿は齢六歳にして、既に相当な仕上がりを見せていた。それに加え、学問に長け、将来有望で在ることを誰もが確信していた。
そのため、社交の場に出れば、御機嫌取りに用もなく近寄ってくる大人や、名だたる息女らの婿取り合戦に苛まれていたのだ。
昨晩も、父と共に宴の会場へ向かおうとした矢先、縁談を持ち掛けるために宿の前で待ち構えていた貴人らと、その娘たちのかしましさに、すっかりあてられてしまって、唯雪のはからいにより、逃げ込むように部屋へと戻り、宴が終わるのを待っていただと言う。
「僕、あーゆーの凄く苦手なんだ···」
「うん」
「『是非、娘と仲良く〜』とか『嫁に〜』とか言われてもさ、僕、女の子の事なんて理解らないし、あの娘達だって、僕の事、良くしか知らないんだ。それなのに···好きになんか成れないよ···」
宝珠は話を聞くだけで、胸焼けしてしまいそうだった。
宝珠から見ても、璃雪は目を奪われる程の美少年だ。取り巻く息女らの気持ちも、解らなくはない。
しかし、見知らぬ大人達に待ち伏せされ、拒むことも許されず、一方的かつ、政略的な理由で娘たちを差し出された挙げ句、その中から嫁を選べなどと立場があるとはいえ、まだ六つの子供に対して正気とは思い難い。
「宝珠はそういうのないの?」
「え?」
「"いいなずけ"とか···」
そうだ。現神王を叔父に持ち、名家·茅亥家の子息で在る自分も、本来ならば璃雪と同じ立場にあったはず。
けれど、宝珠にはきっとそんな話、願っても来ない。
「僕、あんまり好かれてないんだ···僕に話しかけてくれるのは、叔父上と、家の人達と···唯雪さまに、璃雪だけだから···」
「何それ?!みんな"馬鹿"なんじゃないの?!」
皆が、『馬鹿』。そんな事、誰も思いつきもしない。
まして口に出して、そんな大胆な事を。
宝珠は呆気に取られ、硬まってしまった。
そんな事お構いなしに、璃雪は話を続ける。
「お父さんがね、昨日目を真っ赤にして帰って来たから、僕、何があったのか聞いたんだ···君の事、君のお父さんと、お母さんの事···それで僕、頭にきたんだ!」
「どうして?」
「だって宝珠は何も悪くないじゃないか!お父さんだって、お母さんだって···皆で仲良く暮らしていたかっただけじゃないか!!それなのに···死んだ人のことを悪く言ったり、君をいじめるなんて···馬鹿だよ!みんな···みんな馬鹿だよ!!もうっ!!最悪!」
璃雪の顔が怒りでかっと赤くなり、その美しい顔の眉間に深い皺が出来ている。
ああ、この少年は間違いなく唯雪の息子だ。
見た目の雰囲気は異なるが、周りの言葉に惑わされず、赤の他人の自分のために怒ったり、涙をながしたり、この冷えた心に寄り添い、温めようとしてくれる。
「ちょっと!僕、怒ってるんだよ!?何で笑っているの?!ねえ、宝珠!!」
「ふふ····ごめん····あははは!!」
宝珠は嬉しさの沸点が上がり切ってしまい、自分でも気が付かない間に可笑しくて、堪らず笑いだしてしまった。
璃雪はその様子に何さ、何さと地団駄を踏むが、もうそれですら可笑しくて、宝珠は目の端に涙粒が出来るほど、腹を抱えて笑った。
散ることを許されないまま、赤黒く、萌滾っていた紅葉が、葉に積もる雪の重さに身を任せ、ようやく安穏の季節を迎えたのだった───。
「───唯雪様と、璃雪に出逢えなかったら、神王補佐官は無かったと思わない日はない」
手に触れる白花を慈愛に満ちた瞳で愛でながら、幼き日の己に思い馳せる宝珠。
璃雪も同じく、あの子供部屋での出来事を懐かしく、どこか気恥ずかしい気持ちで思い出していた。
「それに、利休は私にとって第二の故郷。母が生まれ育った国だ。これからも良き友、良き隣国としてあり続けたい。その為に、これからも努力を惜しまず、自分の務めを果た····織江どうした?!」
ふと視線を落とすと、目の前にいる織江が顔をぐしゃぐしゃにしてまるで迷子の少女のようにひっく、ひっくと肩を縦に浮き上がらせて噴水のように目から涙を噴き出していた。
言っておくが、織江は蓮峰海儀に向けて常雪に攻略対象キャラクターの人と生りの説明をみっちり受けて来たので、宝珠の生立ちも、風見兄弟や唯雪との関係も全て知っている。
ちなみに、説明を受けた時も号泣しながら、どうしてそんな過酷な生い立ちにしたのか、正気かと、常雪に猛抗議をした。
「もしかして···私のために泣いてくれているのか?」
「う····うう···ぅ、宝珠様〜···」
「そんなに泣くな···な?」
涙でぐしゃぐしゃの織江の顔を拭おうと、持っていた手ぬぐいを出し手を伸ばそうとした瞬間、宝珠の大きな手を柔らかな温もりが包み込む。
「なっ!?···織江!?」
「宝珠様···宝珠様は、一人じゃありませんよ。神王様も、親方様も、璃雪様も、常雪様も····天国のお父様も、お母様も、皆、宝珠様を思ってます!織江はそう信じております···うぅう···」
織江は宝珠の手を両の手でぎゅっと包み、涙で潤む瞳でその顔をじっと見つめた。
「····織江は優しいな···ほらもう泣くな、頼むから」
宝珠は紳士的に振る舞っていたが、本当は心臓が飛び出しそうなくらい焦っていた。
補佐官に成るために勉学に勤しみ、武術にも懸命に取り組んできた。
噂や戯言は時の中で姿を消し、十二になった頃から掌を返した様に貴族、名家から縁談が次々と申し込まれる様になったが、ほとんど叔父が断ってくれていた。
その代わり、叔父がどうしても断りきれなかった縁談に関しては相応の対応をしたが、結局皆、身分が欲しいだけで、その先にある宝珠自身を見てくれる者、心通わし合えうる女性は誰一人居なかった。
それが、どうしたことか。初めて会ったばかりの名と馬が好きなことしか知らない乙女に手を握られ、顔を見られただけで、顔から火が噴きそうなのを懸命に抑えているなんて、兎に角、織江にこんな自分を気取られないように努めようと宝珠は心に決めた。
とうの織江はと言うと、成されるがまま、宝珠に顔中の涙後を拭いてもらっていた。
そして、そうした二人の仲睦まじい様子を、まるで獲物を奪われた猛禽類のような目で、璃雪はじいと友を睨み付けていた。