二十三
・・・────────
「────・・・お茶に乳を入れるの?」
「ああ。以前、野営で世話になった者に教わったんだ」
「へえ」
夫婦となり、一ヶ月程が経ったシィスンとティアン。
国の護り手であるシィスンの婚儀は、王侯貴族に引け劣らぬ盛大さで執り行われ、皇帝を始め、国民から手厚い祝福を受けた。
しかしその反面、代る代るユウ家には祝いの使者が訪れ、シィスンは挨拶に、ティアンは宴席の手配にと、互いの役目に追われた二人は、今日この日まで夫婦らしい時間を過ごす事が叶わずにいた。
気つけば冬も近づき、薄綿の半纏を羽織る様になった昼下がり。
シィスンは嫁いで早々、心労絶えなかったであろう妻を労おうと自ら茶を振る舞う事にした。
「乳も温めるのね」
茶を蒸らす間、シィスンは掌ほどの小鍋に牛の乳を入れるとそれを火鉢にあて、燻らせるように回しながら温めた。
「こうしたほうが茶が冷めずらくなって最後まで温かいまま楽しめるそうだ」
「へえ」
卓で座っていて良いといったのだが、側で見ていたいと仕度をする自分の傍ら、茶を淹れる様子をとても楽しそうに見詰めるティアン。
その姿がなんとも愛おしく、作業を続けるシィスンの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
「うん。そろそろ良さそうだ」
シィスンは鍋を火から外し、用意しておいた茶器の三分の一程まで温めた乳を注ぐと、蒸らしておいた濃いめの茶を適量、湯気の立つ茶器へ注ぎ足した。
「熱いぞ」
火傷をしないようにと告げ、好奇心に満ちた妻にそっと湯呑みを渡すシィスン。
「ありがとう♪・・・はあ、良い香り。頂きます」
立つ湯気に乗る甘く、ふくよかな香りに酔いながら夫の淹れてくれた茶をティアンはゆっくりと口に含んだ。
「・・・・っえ、美味しい。これ!凄く美味しい!」
乳と混ぜたら茶の香りも旨味も、全て相殺されてしまうのではと思ったが、その逆だった。
乳のもつ甘みが、茶の渋みを和らげ、油膜に包まれていた花の香りが喉を通り、弾け、鼻の奥まで豊かな花弁が舞い混んでくる様で、ティアンは夫の淹れてくれた茶の美味さに顔を綻ばせた。
「はあ・・・────うん?」
口いっぱいに広がる余韻に浸っていると、急に肩の辺りに重みを感じた。
「どうしたの?」
尋ねると、肩の重みは減った。が、今度は腹の辺りに長い腕が絡みついて来た。
「ねえ?せっかく淹れてくれたのに・・・お茶が冷めちゃうわ」
「────・・・いい匂いだ」
「お茶が?」
「君が」
三つに結った髪下に顔を埋め、幼子のように身を寄せて来るシィスン。
軍神と名高い夫。
それが、こんな風に眼尻を緩ませ、纏めた前髪がくしゃくしゃになってしまうほど妻を乞い、甘えているなんて、誰が想像出来るだろう。
ティアンは湯呑みを置いて、自分を抱え込む夫の腕にそっと手を重ねた。
「本当はこうしたくてお茶に誘ったんでしょ?」
「・・・───うん」
まったく───。
そうあっさり認められては、からかう事もできやしない。
溜め息をついて呆れる素振りをしてみる。
けれど、それすらシィスンには甘露でしかない。
時折うなじに当たる鼻先の柔らかさ。
受ける愛に、ティアンの心も弾んでしまう。
「大好きよシィスン───・・・」
─────────・・・・
「────あ、やっと起きた♪」
「璃雪様・・・・私・・・」
どれだけ眠っていたのか。
今様団の宿に行ったはずの自分が、いつの間にか慣れ親しんだ風見の屋敷に戻って来ている事に織江は少々困惑した。
「出先で体調を崩したそうだけど、気分はどう?」
「・・・ああ、はい。お陰様で」
「良かった」
「御心配をお掛けして、申し訳ありません」
身を起こし、詫びをいれる織江に、璃雪は笑顔で首を振った。
「さ、果琳湯を淹れてもらったからお呑み」
「ありがとうございます」
どうしてか、受け取った湯飲みから立つ香りに、既視感を覚えた。
甘く、ほんのりと酸味を感じる果琳の香り。
喉風邪をひいた時、実家の母もよく淹れてくれたが、先まで見ていた夢の中できいた香りとは違う。
あれはおそらく、ミルクティーの類なんだろうがアッサムやウバではない。
アールグレイかと思ったが、あの甘みは柑橘ではなく花の、花弁の甘みだ。
祁門。いや、もっと独特の、燻されたような渋さも感じた────・・・
「・・・────茉莉花」
「?・・・どうかした?」
そうだ、あれは茉莉花の香りだ。
渋みがあるのに、形容し難い甘さと清々しさがある花の香り。
その香りに包まれる、なんとも幸せそうな男女。
そういえば、あの人、誰かに似ている気が・・・。
陽に光る艷やかな青毛。
男性なのに睫毛が長くて、多分、柄も相当。
それで、宝物でも抱えるように女の人を───
「考え事なら明日からが良いと思うよ?」
「え?」
「頭を使うのも体力が必要だからね、病み上がりの時は成るだけ避けた方がいい」
「すみません。つい癖で・・・」
そう言って、織江はようやく湯呑みに口を付けた。
「どう?」
「蜂蜜が効いてて、とても美味しいです」
その言葉を聞いて、璃雪もほっとした様子で顔をほころばせだ。
「あの、璃雪様?」
「何?」
「常雪様は、もうお休みに?」
そう聞いた途端、先程まで穏やかな表情を浮かべていた璃雪の顔に気まずさが滲み出した。
「や、ええと・・・その、ちょっとした対応に追われていて・・・・」
「対応?え。あの、私、お手伝いに────」
「あ!やっやっ・・・多分・・・・」
「多分?」
「・・・・ま、兎に角、今は常雪に任せて。織江はゆっくり休んで♪」
「はあ?───・・・」
────織江が小首を傾げている頃、玄関口では、迎えの馭者がどうしたら良いかと頭を掻いて居た。
「あ、あの・・・」
「すまない、もう少し待ってもらえるか?」
「はあ。私は構いません、が・・・」
「──ね!もう一度!もう一度言って下さい常雪様!」
「紫、紫烏様・・・その、お、お顔が近っ・・・」
夜風はまだ冷たいはずなのに、常雪の顔は湯気が立ちそうなほど火照り上がっていた。
────ほんの数十分前だ。
眠る織江を連れ、ようやく住み慣れた我が家に帰って来れたと思えば、門前には困り果てた様子で天を仰ぐ兄の姿。
おかしいと思いながらも織江を託し、門をくぐると、街の比ではない賑わいが庭中に響いている。
少々嫌な予感はしたが、意を決し、常雪は屋敷へと進んだ。
履物を脱ぎ、長い廊下をただひたすら、賑わいが鮮明になる方へ歩み進めていると、大広間の手間で、酒瓶を膳に乗せたまま、おろおろとしている板長に出会した。
「板長、どうしてここに?」
天からの恵み。
そう言わんばかりに常雪の声にほっとした板長は、事の次第を全て話した。
「──それで、この酒瓶が最後なのですが・・・これを出したら、明日の朝餉や昼餉に使う酒が無くなります。そう思うと足が進まず・・・」
「そうだったか・・・迷惑をかけた。許してくれ」
「い、いえ!そんな」
「その酒は出さなくていい。お前は持ち場に戻ってくれ。後は私が対処する」
その言葉を聞いて、板長は何度も頭を下げると大事な酒瓶を持ち、台所へと戻って行った。
さて─────。
常雪は深く息を吸い、心にある迷いと、苛立ちが混ざった物を全て吐き出し、いざ大広間へと足を踏み入れた。
ある程度は予期していたが、眼の前に拡がる光景は正に混沌と言わざるを得ない有り様だった。
刈安神王補佐官・茅亥宝珠は、何故か口元を手で抑えたまま項垂れ、その従兄妹である刈安神王女・茅亥紫烏は、酒瓶を抱え、高らかに笑いならが舞い踊り、顔を赤らめる父・唯雪に、今にも一線を越えそうなほど頬を擦り寄せ、実子ですら目を覆いたくなるくらい抱きつき甘える母・黝簾。
常雪は目眩で倒れそうな自身を必死に奮い立たせ、同じくどうしたら良いか解らず、ただ、ただ、この惨状を見守っていた侍女頭に言掛けた。
「はっ!若様!!」
「済まない。遅くなった・・・」
「いえ!こちらこそお疲れでしょうにこのような事に・・・誠に申し訳ありません!!」
心底済まないと畳に手をつく侍女頭。
常雪は膝をつき、その背をとんっと優しく打つ。
「大体の事情は板長から聞いた。で、どれだけ呑んだ?」
「はい。恐らく、酒樽にして二つか、三つは・・・」
聞いたことを後悔するほど量に、常雪は目がくらんだ。
「紫烏様も最初は躊躇されていたのですが、御方様に奨められるまま、あの抱き抱えている一升瓶を御一人で・・・」
侍女頭の言葉に常雪は目を剥きそうになった。
呑んだ量にも驚きだが、それであの様に意気揚々と踊れるなんて、我が愛しい人は、どれだけ強靭な肝臓を持っているのだと、これからを思うと背に悪寒が走る。
何も見聞きしなかった事にして自室に戻り、今日の疲れた身を床に放りたい。
しかし、兄が音を上げた今、この狂宴に幕を下ろせるのは自分だけだ。
常雪は、指示を仰ぐ侍女頭にある物を用意してほしいと告げ、彼女の指示に従うようにと、広間の使用人達を全て下がらせた。
侍女頭が戻って来るまでの間、常雪はやらねばならない事があった。
先ず、常雪は相変わらず項垂れている宝珠の元へ寄った。
解っている。
宝珠が酔ったのは酒でなく、自分の両親らの睦まじさにあてられたのだ。
故意でないとしても、あんなに見せつけられたら誰だって目のやり場に困る。
「───兄、宝珠兄」
「─────っ・・・は!常雪!」
この短時間に何度目か───。
顔を上げた宝珠は、救いの主でも見るかのように目を輝かせている。
「済まない。私にはどうする事も出来ず・・・」
「謝らないで下さい。大方、母上がまた閃いてしまったのでしょう」
そうなんだと言うように、常雪の言葉に宝珠は溜め息をついた。
「宝珠兄。お疲れでしょうが、紫烏様を止めて頂けないでしょうか」
そう言って、広間中央に目を遣る常雪の視線を追った宝珠は愕然とした。
神聖なる刈安神王の娘が、一升瓶を抱え、飲めや歌えやと踊り狂っている。
こんな姿、国民は勿論、神王が見たらどうなることか────。
叶うなら、今こそ、酒を呑み、この目に飛び込んで来た全てを記憶から消したい。
宝珠は頭を抱えながら、心底そう思った。
だが、そんな甘えた事を行っている場合ではない。
何より、公務で疲れてるであろう常雪に、これ以上の心労を負わせるわけにいかない。
心を決め、勢い良く立ち上がった宝珠は、夢見心地に踊り続ける紫烏の側に着くと、腹の辺りに腕を回し、自分の方へぐっと抱き寄せた。
突然の事に、流石の紫烏も驚いている様子だったが、酒の力は恐ろしく、頬を膨らせ、従兄妹の身体をぽこぽこと叩き出した。
「っ、んもう従兄様!離して!離して下さいまし!」
「紫烏!皇女とあろう者が、酒にのまれるとは何事だ!」
「うるさい!うるさい!私だって、酔いたい時があるの!離して!離してよ!」
しかし、細身の紫烏がどんなに暴れたとて、体躯の良い宝珠にかなうはずがない。
もうこれは酒が抜けるのを待つしかないと悟ったのか、叩かれても、大声を出されても好きにしろといった様子で、宝珠はなされるがまま。
幸いにも、抵抗することに疲れだしたのか、紫烏の興奮はわりと直ぐに治まり始めた。
そこへ調度良く、侍女頭が頼んだ物を一式持って戻って来た。
「若様、お待たせ致しました」
「ありがとう」
用意して貰ったのは桶にいっぱいの水と、清潔な手拭い。
常雪は膝をつき、袖をたくし上げると手拭いを桶に浸した。
「ま!若、私が!」
「いや、させてくれ」
「はあ・・・」
そう言うと、水を吸った手ぬぐいを固く絞り、半に折って、それをやや細めに三に折ると、観念した紫烏のもとへ向かった。
「あ、そうだ。悪いがそれに水を注いでおいてくれ」
「え?・・・ああっ。承知致しました」
大声を出したせいで、燻っていた酔いが一気に周ったのだろう。放っておけば眠ってしまいそうな紫烏の頬に、先程の手拭いをそっと当てた。
「───っつめた!・・・あれ?常雪様?」
「紫烏様、只今戻りました」
「あ、あの、私・・・その・・・」
手拭いが熱を吸い、急に鮮明になった視界に映る常雪に紫烏は身を捩らせる。
「紫烏様、お話はもう少しお待ち頂けますか?風見家の息子としてやらねばならぬ務めがありまして」
「へ?あ、えー・・・ええ」
そう言って微笑み去る常雪を、紫烏はじいっと、ただ見詰めていた。
「従兄様・・・」
「どうかしたか?」
「常雪様が、私に手拭いを・・・はあ・・・好き」
なんと呑気な事か。自分に取り押さえられながらも惚気る従兄妹に宝珠はただ、ただ呆れる他なかった。
一方、常雪は侍女頭から何やら小ぶりのガラス瓶のような物を受け取ると、それを持ち、未だのぼせ合っている両親のもとへと向かった。
母に抱きつかれ、鼻の下を伸ばす父。その父に年若の娘のようにしがみつく母。まあ、なんと幸せで、呑気な事か──。
こめかみに筋が立つと同時に、常雪は手に持っていたガラス瓶の引き金を引いた。
《シュー・・・シュー・・・》
すると、どうしたのか──。
今の今まで、惚気ていた唯雪と黝簾は、小さく叫びだし、あたふたとし出した。
「おわっ!!なっ!ぶはっ!!」
「やだ!ちょっと〜!!つめ、冷たっ!!」
顔にかかる水飛沫を、手やら袖やら必死に払おうとする夫妻。
しかし、それに負けじと無情にも振りかかる量は増え、額や前髪から水滴が滴り落ちる。
《──シュ、シュ、シュ、シュ、シュ》
常雪は夜叉にでも取り憑かれたように、無言で引き金を引き続ける。
これ以上は流石に────。
宝珠は不安にかられ、常雪の方をトンッと叩いた。
「と、常雪。もう、それくらいに・・・・」
宝珠の制止に、常雪はようやく引き金から指を外した。
先までのぼせ上がっていた夫妻は、受けた水の冷たさに肩を寄せ合いかたかたと震えている。
「お覚醒めですか?」
そう言って両親を見下ろす常雪の目が、更に二人を凍てつかせた。
「と、常雪?ねえ─────」
「宴は御開。御二人共、宜しいですね?」
語尾についた疑問符は、二人にこれ以上の恥を欠かせぬため。
異議を唱える事など、端から許されない事は解っていた夫妻は身を寄せ合い、覇気放つ息子に必死で頷き同意を示した。
それを確認し、常雪は控えていた侍女頭に霧吹きを託し、急ぎ迎えの馬車を用意するように指示した。
「やっぱり、常雪は怒ると黝簾に似ているな」
「え?私、あんなに怖い顔しているの?──」
「───父上、母上」
「「っはい!!」」
ひそひそ話をしていた夫妻は、息子の呼び掛けに背筋を凍らせた。
「宝珠兄と紫烏様の見送りは私が致します。二人は片付けの邪魔になるので風呂へ」
そう言われた夫妻は、否、しかしと自分達も見送りに参じようとしたが、その意を示した瞬間、息子から再びめらめらと漂い出した覇気を察知し、勢いよく立ち上がると、二人仲良く逃げるように風呂場へと走り去って行った。
「まったく・・・宝珠兄、会議で疲れているところ面倒をかけて済まなかった」
「いや、元はと言えばお前に会えず寂しがっていた紫烏を御せなかった私に非がある。だから、あまり御二人を責めないで欲しい」
常雪は困ったように眉をひそめたが、彼の今までの心労と、昔から変わらぬ真心に免じて、これ以上の責はしないと笑みを向けた。
侍女頭から事態収拾を聞き、奉公人達が宴の片付けに取り掛かり始める。
常雪は、廊下の柱に寄り掛かり、何故か恍惚としている紫烏のもとへと歩み寄った。
「紫烏様、御加減は如何ですか?」
「あ。は、はい!私は大丈夫です!」
「良かった」
待ち焦がれた想い人に微笑まれ、紫烏は耳先が熱くなる。
「紫烏様?」
「はい!」
酒のせいか、速まる胸のせいか、つい声量が上がってしまう。
「本当に申し訳ありません・・・」
「え?」
どこか辛そうな常雪の表情。
紫烏の胸は不安に掻き立てられた。
黝簾には常雪を好いていると告げた。それに嘘偽りはないが、飽く迄も自身の想い。
やはり静歌が良いのだろうか───。
嗚呼、自分はなんて軽率だったのだ。薦められるがままに、酒を呑み、呑み込まれ、さぞ醜態を晒していたに違いない。
どんなに着飾り、身嗜みに気を配ったとて、泥酔してはどんな男子でも愛想尽かすに決まっている。
紫烏は、酒に逃げた事を後悔した。
「今度は・・・」
叶うなら耳を塞ぎたい────
「───今度は私が、苅安に逢いにゆきますね」
「・・・・──へ?」
今、常雪は何と言っただろう。
不思議そうな顔の紫烏に、常雪は続けた。
「思い返せば、いつも紫烏様を待たせてばかり。ですから次は、私が苅安へ。紫烏様に逢いに行きます」
そう言って、自分を真っ直ぐ見詰める淡褐色の瞳に、紫烏の胸は安堵と、溢れ出してしまいそうな喜びに高鳴る。
「────・・・・嬉しい」
つい出てしまった本音。
構わない──恋した幼き日から、ずっと、ずっと、そう言ってくれる日を待っていたのだから。
紫烏は握り締めていた手拭いを口元にあて、はにかみ、再び耳を染めた。
有り難い事に、そう時を要さずして迎えの馬車が屋敷に到着したのだが・・・。
紫烏は嬉しさで気持ちが高揚しきっていたのだろう。玄関口についた途端、もう一度先の言葉を言ってほしいと、常雪にせがみ出したのだ。
「───あの・・・」
「済まない・・・ほら、紫烏。もういい加減にしないか!明日は早いし、帰りの支度もあるのだぞ!」
こうなれば力付くと、宝珠は紫烏の腕を掴むが、そんな事はお構い無し。
常雪も応えたいのはやまやまだが、先とは違い、下手に動けば鼻と鼻が触れてしまいそうな程にじり寄り、自分の顔を覗き込む想い人に身動きは勿論、背けた顔を戻す事も難しい。
どうする。どうすれば────。
次の瞬間、馭者は思わず両の手で口を覆い、宝珠は頬を染め唖然とした。
夏へと向う藍色の夜空。
白磁の月に、煌めく銀の星。
ほのかに香る葉の緑。
愛しい人の腕の中、心ときめく乙女。
耳の先まで朱に染めながら、精一杯の想いを込める青年。
かの伝説の姫君と青年につい重ね見てしまう程の美しい夜景に、掛ける言葉が見つからない。
「常雪様?」
「・・・こ、こ、れで御容赦頂けないでしょうか」
抱く手も、頭に当たる顎先までも、緊張に震えている。
耳を澄まさなくとも聞こえてくる鼓動も、何もかもがただ愛しい。
紫烏は嬉しさに目を綻ばせ、常雪の背に手を回す。
「───苅安の紅葉を、常雪様にお見せしたい」
回ってきた細腕に、常雪の緊張は更に高まる。
「紫烏さ、さ、さ、さ・・・」
「お待ちしておりますね」
そう告げると、紫烏は自ら身を離し、駆け足で馬車に乗り込んだ。
「へ?・・・・あ、じゃ、じゃあ常雪!その、唯雪様と、黝簾様に宜しく」
呆気に取られていた宝珠は、何事も無かったかのように別れを告げ、同じく固まっていた馭者の肩を叩き、いそいそと風見の屋敷を後にした。
常雪は何が何だか分からぬ様子で、茹で蛸のように赤くなり玄関口に佇み、こっそり見守っていた侍女頭と板長の目からは温かいものが流れ、長い一日がようやく終わりを告げた───・・・
「───お願い!急いで!」
「解ってるって!はっ!」
朝霧を割くように道を駆ける一頭の馬。
その背に今様は丞相山吹家二男・鳩羽と、静歌。
二人は一路、風見家へと向かっていた。




