身に覚えのない名前
「ん? なにこれ」
私はふと、スマホをフリックする手を止めた。自室のベッドに寝転びながら、彼氏にLIMEをしている最中だった。
「来る」という字を打とうとすると、予測変換のトップに「熊谷」の文字。
熊谷? 私最近そんな文字打ったかな?
人名なのか、日本で1番暑くて有名なあの場所か。
どちらにせよ、全く身に覚えがない。
何かの打ち間違えかな?
そう軽く片付けて、LIMEを再開する。
『明日何時に来る?』
『んー。昼過ぎかな』
彼氏からの返信に、私は思わず笑みが溢れた。
彼氏とは付き合って半年。
2人とも今年大学を卒業して、会社の新入社員研修で出会った。
要は同期だ。
夏に同期の仲良したちと一泊二日の旅行に行って、彼もそこに居た。夜に「一目惚れだった」と告白されて、私もちょっといいなと思っていたから、付き合うことになったのだ。
実を言えば、彼は私の初めての彼氏。
どうにもこれまでは恋愛運が無くて、好きな人には相手にされず、かと思うと全く何とも思っていない人から好かれることの繰り返し。
きちんとお互いが好きになったのは、これが初めて。
だからもう本当に嬉しくて、毎日が楽しくて仕方ない。
ほぼ毎週末デートを重ねて、お互いの家にも行きする関係になって久しい。
今週も彼がうちに来る予定になっていた。
昼過ぎか。
買い物は彼と一緒に行こう。
夕飯何にしようかなぁ。
そんなことを考えながら、私は「了解」と送ろうと「ら行」をフリックする。
「え?」
り、と打ったところで、予測変換のトップに、また見慣れない文字が。
「『隆介』ってなに?」
これまた見覚えのない名前だ。
彼氏どころか知り合いに隆介という名前の人はいない。
有名人の名前にも覚えがないし、いったい何故この名前が予測変換に?
しかも一番に来るということは、つい最近その文字を打ったということだけれど、本当にこれっぽっちも身に覚えがなかった。
「なんか怖っ」
両方合わせれば『熊谷隆介』。
特別珍しいという訳ではないが、どこにでも居るありふれた名前、という程でもない。
全く覚えのない『熊谷隆介』という人物が、まるですぐ傍にいるような気がして、背筋がぞくりとする。
正直、気味が悪かった。
「やだやだ! 変なこと考えないでもう寝よ」
きっと何かの打ち間違いだ。
もしくは、記憶にも残っていないような単語や人の名前を検索したのかもしれない。
私はそう結論付けて、早々に寝ることにした。
明日は彼氏が家に来る。
午前中は部屋を片付けて、新しく買ったニットワンピを下ろそう。
彼、髪は下ろしてた方が反応良いんだよね。
明日の楽しい時間に思いを馳せているうちに、得体の知れない不気味さはすっかり消え去っていた。
私は幸せな気持ちで眠りについたのだった。
翌朝。
朝から部屋を片付けて、ちょっと花なんか飾ったりして可愛さを演出する。
彼氏はもう何度か家に来ているけれど、いつだって可愛いと思われたい。
ニットワンピに着替えて、念入りにメイク。
髪も巻いて、準備は万端整った。
「もうそろそろかな」
部屋の時計をちらりと見る。
スマホをちらちら見るけれど、彼氏からの連絡は何もない。
『今どこらへん? 何時頃になりそう?』
彼氏にLIMEを送る。
とてもまめな人だから、いつも返信は早い。
……のに、一向に返事が来ない。
『おーい。何かあった?』
もう一度LIME。
やっぱり返信がない。あ、でも既読は付いてる。
既読無視なんてする人じゃないのに、どうしたんだろう。
そう思っていると、ポコッとLIMEの着信音がした。
やっと来た! と即座にメッセージを開く。
『お前、自分が何したか分かってんの?』
……え?
彼氏から、思いもかけない言葉。
『私何かした?』
慌てて返信をする。
彼は何かに怒っているようだけど、全く心当たりがない。
昨日は普通におやすみってLIMEをして寝たのに。
内心混乱していると、またポコッと音がして、メッセージが届く。
『熊谷隆介って誰だよ』
彼氏からの返信に、思わず私は目を見開いた。
なんでその名前を知ってるの?
私は何も言ってないのに。
『随分好きなんだな、そいつのこと。元カレ?』
また彼氏からメッセージが。
は? 何どういうこと!?
訳が分からなくて、慌ててLIMEを見返した。
「ヒィ!!」
私は思わず、スマホを取り落としてしまった。
昨夜の深夜3時過ぎ、私から彼に、身に覚えのないメッセージを送っていたのだ。
『大好き。まだ大好きだよ。熊谷隆介』
何これ!?
私こんなの送ってない!
だってこの時間はもう寝てたのに!!
事情を話そうと彼氏に電話するも、出てくれない。
すごく怒ってる!
完全に頭はパニックだ。どうしようどうしよう。
「何なの本当……」
彼氏に何度電話をしても、出てくれない。
もう訳が分からなくて、何だか視界がぼやけてくる。
やば。泣きそう。
せっかくメイクした目をゴシゴシと擦って、深呼吸をする。
しばらくそうしてから、はぁと長く息を吐いた。
よし。少し落ち着いた。
彼氏の家まで行ってみようか。
そう思い窓の外に目を向けると、何だか雲行きが怪しい。
今日雨降るって言ってたかな?
天気予報がやっていないかと、テレビの電源を点ける。
天気予報はスマホのよりテレビ派だ。画面に表示されない細かい情報も伝えてくれるから。
……それに今は、1人で静かな部屋に居たくない。
私はお昼のニュースをやっている局に、チャンネルを合わせた。
〜〜♪
途端、スマホが鳴った。
彼氏かも!!
私はバッとスマホを手に取った……けど、残念ながら、電話はお母さんからだった。
「お母さん? どうしたの?」
『今平気? いやびっくりしたことがあってさ、連絡したんだけど』
彼氏じゃなくてがっかりしたけど、お母さんの声を聞いて少し心が落ち着いた。やっぱり1人で考えてたのが良くなかったのかも。
でもなんか、お母さんの声が興奮?びっくり?してる気がする。
『あんた、高校の時隣に住んでた男の人覚えてる? ほら、急に家に来てさ、玄関で『好きです! 付き合ってください!』ってあんたに頭下げてた人よ! あの人、人殺して捕まったんだって!! 良かったよあの場で断ってさー。あんたが承諾してたらと思うと怖くて怖くて』
お母さんの言葉に、私は昔のことを思い出した。
あの時のことはよく覚えている。
実家はあまり広くないマンションなのだけれど、私が高校生の頃、一時期隣の部屋には男の人が1人で住んでいた。
背が高くて痩せ型で、小綺麗にしているのに、どこか暗い雰囲気の人。
会えば挨拶をする程度の関係性だったのだけれど、その人からはどうにも嫌な感じがして、苦手だった。
だからまさか、あの人に好かれてるだなんて思いもしなかった。
あの人に「付き合って」と頭を下げられて思ったのは、正直「気持ち悪い」だ。
だってそもそもそんなに接点がなかったし、多分年齢だって10は離れていたはず。
私は感情を押し込めて、丁重にお断りした。
とは言え、一見穏やかそうだったのに、まさか人を殺すような人だったとは……。
人は見かけによらない。
『えーとなんて言ったっけあの人。ああ、熊谷りょうすけ、いや熊谷隆介だったわ』
ヒュッ。
思わず息を呑む。
高校生の頃、いっときだけ隣に住んでた人の名前なんか、覚えてる訳ない。
私はぞわぞわと背筋が粟立つのを感じた。
思わず顔が青褪める。
なんで、あの人の名前が?
『ここで臨時ニュースです』
つけっぱなしだったテレビから、アナウンサーの声が聞こえてくる。
それまでもニュースを読んでいたはずなのに、何故か急に、クリアに耳に届いた。
『○×市で起きた連続婦女暴行殺人事件で、殺人罪に問われ起訴されていた熊谷隆介容疑者37歳が、本日未明、勾留所内で首を吊り自殺を図っていたことが判明しました。その後病院に搬送され、死亡が確認されたとのことです。警察によりますと……』
は? 何それ?
あの人…………死んだの?
ちょっと待って。
本日未明って……あのLIMEが彼氏に送られた頃ってこと?
なんで……
『熊谷容疑者は、いずれも今年新社会人となった女性ばかりを狙い、帰宅途中の女性の背後から鈍器のようなもので殴打し殺害する手口で……』
「何それ……私と同い年の子ばっかりってこと……?」
いよいよ私は恐怖で震え上がった。
怖い! 怖いよ!!
「ねえお母さん! 今日私そっち帰ってもいい!?」
『いいけど彼氏は大丈夫なん
ブツッ ツーツー
急に電話が切れた。
私は泣きそうになりながらリダイヤルしようとスマホを操作する。
やだやだやだやだ!
必死に通話アプリを立ち上げようと思うのに、慌ててしまってうまく操作が出来ない。
すると、私の操作と関係なく、勝手にLIMEが立ち上がる。
「いやッ!!」
思わずスマホを投げ捨てた。
ラグの上にポスッと落ちたスマホの画面には、LIMEの画面。
相手方の名前には、『熊谷隆介』の文字が。
『好き。まだ好き。大好きだよ。熊谷隆介。好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き』
触っていないのに、キーボードが勝手にフリックされてメッセージが打たれていく。
いやいやをするように首をぶんぶんと横に振りながら、私は床にお尻を付けたまま後ずさる。
視界がぼやけ、頬に熱いものを感じる。
ぼろぼろと涙が止まらない。
「やめて!!」
そう叫ぶと、ずっと「好き」と繰り返し打ち続けていたスマホが止まる。
そしてすぐに、ポコッと音がして、メッセージが届いた。
『俺も好き』
……えっ?
そう思うと同時に、何か気配を感じて、顔を上げる。
すると正面に置かれた姿見の中で……………首が異様に長い男が、バットを振り上げていた。
ガンッ!!!
後頭部に激しい衝撃を受ける。
火花が散るような痛みに、私は涙を流したままばたりと倒れた。
お気に入りのラグが、どんどんと赤く染まっていく。
徐々に薄れていく意識の中で、私はどうにか顔を動かした。
「これで、ずぅっと一緒だね」
熊谷隆介が、にちゃりと笑った。
ありがとうございました。