第二話、面倒な訪問者
骨に響く、という体験を初めてした。
雪下の右手に「それ」はあった。
金属の冷たさを感じたのは最初に握った時くらい。気付けば手の熱が伝わり、奇妙なほど雪下の手に馴染んでいた。
想像よりも重いなと思ったのは「それ」自体重さなのか、「それ」によって感じられる雪下の命の重さなのか。
腕の筋肉には不自然なほど力が入っていて数分足らずでしびれてきている。
「それ」を手に入れるのは実のところ、苦労はしなかった。
友達……いや知り合いから借りたのだ。知り合いが酔って、雪下が褒め称えれば「それ」の在処と使い方を聞き出すのは容易だった。その為に自分から膝に乗って催促までしたのだ。終始、知り合いは上機嫌だった。
我ながらおぞましく感じたけれど、手に入れられるならどうなってもよかった。
寝静まった後、だるい体に鞭打って立ち上がった。持ち出したことがバレればただでは済まないだろう。
でも、後のことは後で考えればいい。
「久国を返せ」
言いながら引き金を引けば簡単に弾は発射され、足元に空の薬莢が転がった。
ただ、力が変な風に入っていたのか衝撃は雪下の腕の骨によく響いた。
「……棚に穴が空いたぞ」
「……補修が必要ですね」
男と秘書は両耳を押さえてそう言った。
心配事は本棚らしい。
事務机に向かっている男に銃口は向けていたものの、本当に当てようと思っていたわけではない。脅しのつもりだった。
しかし、弾は男よりも一メートルほどしか離れていない本棚の縁へめり込んだ。もし本当に当たっていたら、と考えると嫌な汗が額に浮かぶ。
「あ? なんだって?」
「久国を返せ、だそうですよ。以前いらっしゃった雪下様ですね?」
雪下は頷いて拳銃をポケット仕舞うと、小脇に抱えていた封筒から真っ白な紙の束を床にぶちまける。
「俺の、物語だ。返せ」
男はそれを見て呆れたように鼻で笑った。
「言っただろ。物語が報酬だと。あんたは構わないと言った」
「違う! こんな奪われ方をするとは思ってなかった! あれは俺の傑作だったんだ。俺の久国は、俺の愛した久国はあれにしか宿ってない」
「意味がわからない」
わからないのは雪下も同じだ。
物語事務所に飛び込んだのは半年前のことである。
雪下の初の文庫本は、出版社の想像を越えるヒット作品だった。飛ぶように売れていると聞くものの、どこか他人事のように感じていた。
最初にこれだけ売れてしまえば、次に出す本のハードルは上がりに上がっている。それだけは確かだった。
続編を、そんな話が上がるのも当然だった。感じていないつもりではあったが、思いの外プレッシャーは雪下を蝕んでいたらしい。
書き方がわからなくなっていた。
主人公、久国が自分で作ったキャラクターなのに他人のように掴めなくなっていた。
こうじゃない。久国はこんな行動はしない。こんなことは言わない。
何度も書き直す内に雪下は、自分の手を離れたところで久国が動いているに違いないと思うようになっていた。久国ともし、話ができるなら。
そんな時に「物語事務所」に迷いこんだ。
そして、雪下は久国を取り戻した。久国と会って、思ったのだ。
「俺の理想の久国はあれだ。何度書き直しても帰ってこない。思い出しながら書き直そうと思っても、句読点一つ、言い回し一つで久国にはならない。書けない……」
久国に会いたい。会いたいから書くのに、いつまでも書けない。だから取り戻しに来た。
拳銃をポケットに突っ込んでひたすら歩いたのだ。見つからない訳がないと思っていた。
物語事務所は求めて止まない人間の元へやって来る。
「だから、返せ」
「奪う、という表現は心外だな」
「事務長、どうされます?」
男は立ち上がるとおもむろに事務机の後ろのカーテンを閉めた。
「面倒くさい。面倒くさい事は、早めに終わらせるに限る」
「了解しました」
「書きかけの原稿は持ってきた」
雪下はまだ二ページも書いていない原稿を出したが、男は冷たい目で見ただけだった。
「いるか、そんなもの」
秘書はランプを静かに消した。以前にも見た光景だ。すると、静電気が起きたように服がパチパチと音を立てる。
瞼をぎゅっと閉じてそろりと開けると、そこは校舎の屋上だった。久国が通う高校だ。
「もう少ししたら来ますよ」
秘書は、久国がどこにいるのかはっきりわかっているようだった。
「……そう言えば、あんたら今日はただのスーツじゃないか。衣装はどうしたんだ」
雪下は沈黙がどうにも居心地が悪く、場を繋げるために発した言葉だった。意味はなく、ただの世間話だ。
けれど、物語事務所に入ったときから気になっていたのだ。以前は浴衣を着ていた。秘書は変わらずスーツだったけれど、ネクタイはセンスの良いワイン色だったはずだ。
今日は二人とも全て光沢のない地味な黒で統一されている。スーツのボタンも金属ではなく光らないクルミボタン。ネクタイも黒。
まるで。
「それじゃあ、まるで喪服じゃないか」
「喪服だよ」
男ははっきりと言った。冗談だろうと笑い飛ばせないくらいの真剣な目だった。
「え」
「喪服だあんたの」
「それは……どういう」
「雪下様、来られましたよ」
秘書に遮られ、男の言った意味を聞くことができなかった。
屋上の扉が甲高い音を立てて開く。
本来この高校は屋上の扉には施錠してあり、チェーンまでしてある。開くのは、計画的に日数を重ねてきたからだ。何日もピッキングし続けてようやく開いた。
久国はねじまがった負けず嫌いな部分があった。負けず嫌いは何にでも発動するわけではない。
自分がこれなら負けないと自信を持っているものに対しては異常なまでに負けたくないのだ。久国にとっては、それはピッキングだった。
針金を用いてかちりと自分の力だけで、そしてスリル感を持って鍵が開いたときの快感に気づいてしまえば病みつきになってだいぶ時が過ぎていた。その為なら何時間でも何日でも続ける執着心も助けていただろう。
ピッキングという趣味を楽しむのに学校という場所は非常に都合が良かった。
「はーっ……やっと開いた」
言いながら入ってきたのは久国だ、ああ俺の久国だ。紛れもなく。
目が離せなくなる。こんなに見つめても久国は雪下には気づかない。それはそうだ。雪下は物語の登場人物ではない。
それでも駆け寄る。
「久しぶり、久国」
「……うん」
返事を返してくれたかと思った。しかし、続いたのは。
「感覚は覚えたな。施錠もできる」
手を握ったり開いたりしながら感覚を思い出して、自身に頷いたにすぎなかった。
「会いたかったんだ。俺、何回書いてもお前に会えなくて」
返事はない。校舎を見下ろそうと恐る恐る柵のない縁へ歩いていく久国を追う。
「死にそうだった。会えなくて」
言いながら雪下は、自分は何を言っているんだろうかと思っていた。それでも止まらない。
「あの話を書いてるとき、お前がこの世にいると信じきっていた。でも、俺と同じ世界にはいなかった。いないのに気づいてしまった」
書けない理由が自分でもやっとわかった。
「お前が、好きだ」
狂おしい。雪下が久国への気持ちが大きくなりすぎて、文字にはできなくなってしまった。ましてや、久国に物語の中で恋人を作って恋愛させるなんて到底無理だ。
おかしな恋にいつの間にか落ちてしまった。決して俺を見ない男は現実に戻れば、物語事務所にあるまま。
そして雪下には二度と書けないだろうと思えた。
俺のものにするには、こうするしかない。
ポケットに突っ込んであった拳銃を再び握り直す。銃口を久国に向けた。これほど至近距離なら外すはずもなかった。
コツは掴んでいる。無駄な力は入れない。引き金をひいたときの衝撃にあらがわない。はね上がる腕は我慢しなくていいのだ。
視界の隅に映った男と秘書は、両耳をしっかりと塞いでいた。
破裂音と共に久国は後ろへ倒れる。スローモーションに見えた。
そして、雪下は自分の右こめかみに銃口を当てる。
手は震えない。引き金を引く為の指の力も十分にあった。こんなものかと思う。妙に静かな気持ちだった。
「連れてきてくれてありがとう。喪服はこういうことか」
両耳を塞いだ男と秘書には聞こえなかっただろう。
死ぬほど嫌そうな顔をしていた男は更に顔をしかめたから、なんとなく伝わったのかもしれない。
人差し指に力を入れた。
屋上には折り重なった二つの塊があった。先ほどまで人間だったものだ。触ればきっとまだ温かいだろう。
「こいつの物語は割りと気に入ってたのに」
「この場合ハッピーエンドなんですかね。ネクタイ、白にすれば良かったでしょうか」
「結婚式か。冗談じゃない。喪服がお似合いだ」
最期の力を振り絞ったのだろう、久国の手を雪下は握っていたが、だらりと力の抜けた久国の指は決して握り返しはしない。
「くだらない」
「帰って、紅茶でも淹れましょうか」
「そうする」
ランプが再び灯れば、そこはもう物語事務所に戻っていた。
本棚の縁にめり込んだ弾は、本の表紙に少しだけ傷を残していた。男は手に取って検分するが、中身に影響はないようだった。
「補修、されますか」
「いや、いい。このままで」
それよりも。本棚でかたりと音が鳴る。取り出すと、全編通して真ん中より左寄りに穴が空いていた。銃痕のような。
「あー、嫌だ。本棚よりこっちの方が重傷だ」
「それくらいマシでしょう。銃口をあなたに向けられたときどうしようかと思いましたよ。あなたのための喪服にならなくてよかった」
「……冗談言うな」
「冗談じゃありませんよ、本当のことです」
長く息を吐く。
空いた穴を片目でのぞいても世界は何も変わって見えなかった。