第一話、都市伝説
「物語事務所」を知っているだろうか。
物語を書く上で、行き詰まってどうしようもなくなったら駆け込む場所だという。
書く人間は、一度は必ず行く運命にあるらしい。信じないならそれはそれで構わない。都市伝説なんてそんなものだろう。
しかし都市伝説さえ信じたくなる時だってある。
宮野は困っていた。
それは困ったなんてものではなくて。
締め切りは四日後に迫っていた。しかも、三日前に締め切りを無理言ってのばしてもらった後だ。できませんでしたなんて言えるわけもない。
都市伝説の「物語事務所」を無意識に探してしまっていても仕方がないことだった。
もうどうしようもないのだ。あるか分からないものに縋りたい気持ちでいっぱいだった。
コートの前を閉めるのも面倒で、掻き合わせる。今日中に雪が降るだろう。
この薄暗い天気が宮野の心情を表しているようだった。編集担当者からの電話で履歴が埋まっていた。今も携帯が右ポケットで振動しているが、出る気力はない。
闇雲に歩いていた。
こうしている間に机に向かうべきなのは充分に分かっている。しかし、何度も言うようにどうしようもなかった。
探しながら、頭の隅にはそんなものはないだろうとも思う。あればいいなとも思う。結局の所では宮野にとって、薄暗い路地に向かって足を動かすこの行動は現実逃避だった。
締め切りを守れなかったらどうなるだろうか。一つ信頼を失うことになるだろう。
しかし、この物語は完結させたかった。思い入れはいつもより倍だったから。
気持ちを入れ過ぎたのも事実だ。
だから、視界の右端に「物語事務所」という文字が見えた時はなんの冗談かと思った。ついに焦りから幻覚が見えるようになってしまったのか。
路地にそれはあった。
みすぼらしい看板だ。所々文字は禿げ掛けているし、書いた時にペンキの乾かし方が足りなかったのか、重力に沿って黒のペンキが下に垂れている。
おどろおどろしく、お化け屋敷にように見える。だいたい、ベニヤ板じゃなくてちゃんと分厚い木に書くべきじゃないだろうか。薄木は反り返っていた。
しかし、やっと見つけた「物語事務所」だ。
入らないわけにはいかない。違ったらまたどこかへ歩けばいい。困っているのは確かなのだから。
薄い扉をたたくと蝶番がぎしりと音を立てた。今にも壊れそうだ。
「ごめんください」
「開いてますよ」
声がした。まだ声変わりが終わってないだろう少年の通る声だ。
「お邪魔します」
ノブを回すとこのまま引っ張れば取れそうな頼りなさがあった。
「いらっしゃいませ」
迎えてくれたのは、声からは想像できなかったスーツをきっちりと着た青年だった。青年の口から出た声は先程の少年の声だ。
てっきり小学生くらいだと思ったのは失礼に当たるだろうと、顔だけは平静を保っていた。
「あの……こちら、物語事務所で合ってます?」
「もちろんです。事務長を呼んで参りますので、こちらでお待ちください」
表の看板が目に入らなかったのだろうかと青年は怪訝そうな顔をして、宮野はなんとも気まずい思いを味わった。
訊きたかったのは、『あの』物語事務所、で合っているのかということだ。
ともあれ、部屋の中心にあったアンティークのように見えるソファーまで案内された。
壁は全て本棚で埋まっていた。
床には、靴でそのまま踏みしめるのを躊躇してしまうほど細やかな柄の織られた絨毯が敷かれている。
勧められるままコートを脱いでソファーに座るものの落ち着くはずもない。しかしキョロキョロと周りを見回すのも不作法だろうと窓際にある机の上のランプを眺めた。ガラスでできたそれは、無骨で荒々しいが美しくオレンジの光が分厚いガラスの中でゆらめていた。
ああ、書きたいなと思う。こうぼんやりと美しいものを眺めると創作意欲が湧いてくるのが宮野の癖だった。
自分でもそういう性分なのだと自覚している。暇があれば書きたい。
だから今回はイレギュラーなのだ。宮野も動揺していた。
これがスランプというやつなのかと思ったが、スランプに陥ったことがないためにこれがそうなのかも分からなかった。
「お待たせしました」
階段から男が降りてきた。青年は、事務長です、とだけ告げた。
「ご用件は?」
事務長は詰め襟学生服に外套を羽織り、学生帽という明治か昭和を思わせる出で立ちだった。
驚いた。都市伝説の物語事務所の事務長は若い。
「学生なんですか」
思わず質問には答えずについ口から出てきてしまう。
「いや、趣味だ」
「は?」
「だから趣味。今日は寒いからな、この格好が一番暖かい。な?」
青年に向かって首を傾けると、はいお似合いですと返事が返ってくる。
「はあ」
そうですかと気の抜けたことしか言えず、コスプレが趣味らしい事務長は年齢不詳のまま椅子に腰掛けた。
部屋の雰囲気と学生服はぴったりと合っていて、違う時代にやってきたのかと思うほど恐ろしく似合っていた。おかしな男だ。
いや、都市伝説が実在したこと自体がおかしいのだからそこの事務長がおかしな奴だったとしてもなんらおかしくはないだろう。いや、おかしいのか。
で? と促され、宮野は青年が出してくれた紅茶に口を付けてひと呼吸おくことにする。
「書けない話があって。……でも、後少しなんです。後は最後の結末を書くだけなんですけど…書けなくて」
本当に後は、数枚書くだけなのだ。
色々と乗り越えてきた男女がすれ違いの末に、やっと結ばれる。そこをただ書くだけなのだ。
「物語事務所には何が必要か知ってるか」
物語事務所には持っていくべき物がある。行き詰まっている途中までの原稿だ。
鞄にしまってあった原稿を取り出して机に載せる。
「珍しいな」
手に取った事務長がそう言うのも道理で、宮野の原稿はデジタルが進んだ中で手書きを貫いていた。
どうもキーボードを前にすると書けなくなるのだ。最後の段階でパソコンに打ち込むのがいつもの流れだ。
「すみません、字が汚くて。どうもキーボードとは相性が悪いみたいで」
「いや、悪くないな。うん」
「事務長、どうされます?」
青年がそう言ったのは、宮野の依頼を受けるかどうかだろう。
しかし、その返事は思ったよりもあっさりしていた。
「面白いから受ける。良い原稿だ」
読んでもいないのに事務長は破顔してそう言う。
さっぱり意味は分からないがとりあえず受けてもらえることになったらしい。
「ほんとですか。助かります」
「とは言っても、俺は手助けするだけだ。本当に解決するのはあんた自身」
「解決……すれば書けるようになりますか」
「知らん。書くのはあんただからな」
知らんのか。
ともあれ藁にでも縋りたいからこの際どうでもいい。
「よろしくお願いします」
頷いて事務長は立ち上がった。
事務所は高い建物に囲まれて光からは隔離されており、暗い雰囲気があった。けれど、光よりも闇が物語事務所には合っているかもしれない。
事務長の日焼けを知らない白い肌が宮野には病的に思えた。
部屋の電気を消し、窓のカーテンを締めればまだ昼なのに薄暗くなる。雪がちらつきそうな真っ白な空の影響もあっただろう。
唯一付いていたオレンジのランプの光を青年が消した時に、フッと空気が変わった気がした。その感覚は説明しづらい。
強いて言うなら、外国へ旅立ちその地に足をつけた時に感じる今までとは違う場所に降り立った感覚のような。空気が既に違うような。
再び周りが明るくなった頃には、自分が立っている場所が今までいた部屋ではなくなっていることを宮野は理解していた。
「……どこですか。ここは」
「書いたあんたの方がよく知っているだろう」
覚えがあるから言ったのだ。
そこは公園だった。目の前には古いベンチがある。ああ、忘れるはずもない。あのベンチだ。
目を閉じてもベンチのどの部分の木が欠けているか思い出すことができる。
懐かしい。なにもかもが懐かしい。
ハッとして事務長と青年を見る。
「ここは私の書いた物語の中ですか」
「そうだ。あれを見ろ」
事務長が指差した方向は、霧がかかっているように薄くかすれて白く見えにくくなっていた。
「あれは物語の場面外だ」
「場面外?」
「考えたことはないか。主要人物達が物語を進めている中、その他の部分は果たして存在しているのか。名もない通りすがりの通行人、公園の横を走る車の運転手、公園で遊ぶ子供達。いるだろうとされる人物達、頭上を飛ぶ鳥。どれも物語の進行にはなんの支障もない。しかし小説は空間として成り立つ風景が必要だ。だから存在はしている。あのモヤは主要人物達がいない場所、つまり場面外だ」
あってもなくても物語には支障のない場所。場面外。
「じゃあ、この場所は」
「そうだ。物語の一場面らしいな」
「あちらから来ているようですね」
青年は示してくれたが、宮野にはどうしてそう思えたのかが分からなかった。勘ってやつなのだろうか。
分からなくても、この場面がどこなのかはよく知っていた。主要人物はやがてこのベンチへやって来る。
最後の場面だった。
すれ違う男女は出会えぬまま、女はそう上手くいくはずもない現実に打ちひしがれて最後の希望を持って思い出のベンチに座るのだ。男は、女がいくら待っても来ない。諦めようと立ち上がる……所で宮野の筆は止まっていた。
これから、女がベンチに座る場面だ。
「ここでぼんやり立ってても大丈夫なんですか」
「物語に俺たちは書かれていないんだから、影響はない。気分が出したかったら、その辺の草むらにでも隠れたらいい」
冗談か本気か測りかねる。
「……なんですか、気分って」
女が左側を大きく空けて座ったベンチは、ぎしりと寂しく音を立てた。
「どうせしばらく時間があるんだ。あんたはその左側に座ってみればいい」
それだけ言って事務長は青年を連れて、薄いあの空間に歩いて行った。
不安はあったが、でもせっかくくれたチャンスを活かす気はある。これは宮野が作ったキャラクターなのだ。
公園の時計は正午を過ぎていた。
設定では、女はこれから六時間近くこの場から動かない。
少し待たせすぎたか。そうだな、話にインパクトを持たせたくて六時間に設定してしまったけれど、自分はそんなに待たなかった。
「私はそんなに待たなかったよ。せいぜい三時間だった。君はすごいな」
聞こえるはずもないのに呟いた。
そうだ、待たなかったんだ。待てなかった。
差し迫る飛行機の時間を見ながら、悪い遅れたって現れる所を瞼の裏で何度も想像した。幻聴が聞こえてきそうなほど頭で繰り返した。すれ違った二人の時間を顔を見て埋めたかった。
でも出来なかった。
「待ちたかったんでしょう、彼を」
女からぽつりと返事が帰ってきた。
「え」
でもよくよく考えれば、信じられないことの連続なのだ。自分が作ったキャラクターが勝手に喋り出したとしても不思議はない。
宮野は何もかも受け入れる体制はできていた。というよりもこれは全て夢なのだと考えることを放棄した方が楽だ。
「あなたは、どれだけ待ったとしても彼は来ないと思ってる、来るはずないと思ってる。だから、私にも彼が来ない」
否定出来なかった。待っても来ない。だって。
「俺には来なかった。どうしたら来るのか俺には分からないんだ」
何が悪かったとかどちらが悪かったとかそんなことは思いたくない。
けれど、あいつは家を捨てられなかった。乗り越えられなかった。全て捨てて、断れない見合いも捨てて宮野のもとに訪れるはずもなかった。
自分にはそんな価値はないと知っていた。身分違いもいいところだ。名家の長男がそう簡単に家を捨てられるはずもないのに、気持ちは止められなかった。
俺と一緒に来て欲しいと言わなかったのは打算もあった。自ら飛び込んで欲しいと思った。
ただただ若かったのだ。後のリスクなんて考えてもいない。今ならわかる。
これで正しかったのだ。家を取ったあいつは正しかった。
取り残された宮野の気持ちは空中を漂い、文字になって紙に載せてもやはり中途半端なままハッピーエンドの選択肢を未練がましく探している。
自分で分かっていないのに。男女で書いたのも、俺が女だったら、男女のごく普通なカップルであったら違ったエンドがあったんじゃないか思ったからだ。身分違いは変わらないんだから、結局のところ同じ結末だっただろうけれど。
「私とあなたは違うのよ」
女はそう言った。
「私はあなたが作った、違う人間なの。あなたと同じエンドは嫌」
女はどこまでも強気だ。
「強いなあ。君は」
俺よりもどこまでも強い。
「待つの。絶対に来るから私は泣かずに待つのよ、それが例え何時間でも。必ず来るから、ここで待つのよ」
膝が震えているのを宮野は見た。緊張しているのだ。
宮野はまだ続きを書いていない。未来はないのと変わりないのだ。結末は宮野が握っている。
宮野は女の冷たい手を取った。
「来るよ。君には絶対来る。俺、君には幸せになって欲しいんだ。ハッピーエンドが似合ってる」
「でしょう? そうだと思った」
笑顔が眩しかった。
地面にふっと目線を落として顔を上げると、元の物語事務所に戻っていた。再びランプの明かりが揺らめいているのが見える。
「書けますか」
いつの間にか後ろに立っていた青年が問う。
「はい。ありがとうございました」
来るよ。君には俺がとっておきのハッピーエンドをあげる。
「物語事務所の報酬は知っているか」
事務長は足を組みかえて言った。
そう言えば、都市伝説は広まっているもののその対価は知られていない。
「いいえ」
多額の報酬を請求されても、しがない作家の自分には支払えない。
「物語だ」
物語?
「その書きあげた物語を報酬としてもらう」
「出版された本ってことですか? 勿論ですよ。持ってきます」
「違う。まぁその内わかる」
何が違うのか。不思議な物語事務所の報酬もまた不思議なものだ。とりあえず、借金をしなくてもよさそうだ。
「じゃあ、私は帰って早く書き上げます」
「その方がいい」
「また機会がありましたら、物語事務所へどうぞ」
入り口まで見送ってくれた青年は優雅に一礼した。
出てすぐにベニヤの看板をつま先で蹴って倒してしまった宮野は青年を振り返った。
「すみません! 蹴っちゃいまし……た……」
そこには入り口なんかどこにもなかった。建物も消えている。
残ったのはボロいベニヤだけで、立て直してみるとあのペンキの垂れたおどろおどろしい「物語事務所」の文字も跡形もなく消えていた。
夢を見ていたようだった。
しかし、行き詰まった小説は進められそうだ。
不思議な体験はそれだけでは終わらなかった。
帰って直ぐに書き終えた宮野は、編集担当者に電話を繋いだ。
日付は期日内で書き上げることができた。あんなに書けなかったのに。
「あ、お世話になってます。宮野です。今、原稿できまして……え?なんの原稿かって? あの、数日前にのばしてもらったあの……新刊の……」
そんな話知らないとバッサリと言われてしまった。最初は、怒りから悪い冗談を言っていると思ったが、どうやら本当にそんな話はなかったらしい。
それよりも新聞連載の話があると言われる始末だ。
なかったことになっていた。
放心しながら電話を切った後に、手書きの原稿が風も吹いていないのに空中を舞い床に散らばった。そして宮野は確信したのだ。
ああ、報酬はこれかと。
原稿は真っ白な状態に戻っていた。鉛筆の跡さえない。
あんなに苦労した物語が世に出ないのは作家として残念な話だ。
しかし、宮野はこうも思っていた。出なくても良かったかもしれない。少なくとも宮野にとって、あれはいずれ書かなければならなかったのだ。自分のケジメとして。
そうだ。明日は締め切りからも開放されたしあの公園へ行ってみよう。奇しくも明日はあの日からちょうど十年だった。
同じ時にあのベンチの左側を空けて座るのだ。誰も座らないだろうけれど、思い出に身を浸すのも悪くないと思えた。
「悪い、遅れた。全部捨てるのに十年もかかった」
そう言いながら男がベンチの左側に疲れたように座るのを宮野はまだ知らない。
物語事務所の棚がかたりと音を立てる。
「またひとつ増えた」
「コレクションが増えましたね」
事務長がパタリと手元の本を閉じると、ランプの光も同時に消えて闇に溶けていった。