迷い家
一間≒180センチ
一町≒110メートル
とします。
星子を抱え上げ、権六が中州に上陸する。
水際を歩く際、音を立てて権六の足が凍ったが、気にしていないようだった。
死屍累々の屋代の前庭を、星子が歩く。
すると、焼かれ、あるいは斬られた無残な死体から、ふわふわと光る珠が浮かんで、天に昇ってゆく。
「範囲、およそ三間ってところだな」
小平鉄砲足軽衆の成仏の具合から、三十郎が星子の能力の有効距離を測っていた。
「ゲスですね」
背の薬箱をゆすり上げて、三十郎の呟きを聞きつけた狐堂が言う。
「なんとでも言え。今回のキモは、あの巫女さんだぜ」
「ええ、まぁ、同意ですが、大人しそうな顔して案外じゃじゃ馬ですよ、彼女」
朽ちかけた竹矢来があり、近くで見ると、屋代の荒れ具合が目立つ。
庄屋造りの十部屋ほどの平屋に見えるが、勿論、見た通りではないのだろう。
なにせ、由来すらも定かではない時代から、ずっとここにある屋代なのだ。
本来なら、ここで屋代内に娘が入るのを見届けてナナツオクリは終了になる。
だが、今回は違った。
汗止めを兼ねて鉢金をつけ、三つに折りたたまれていた六角棒を神人たちは組み立て始めた。
これはまるっきり『天罰』と称した打壊の前の武装である。
音彦は示し合わせていたのか、特に驚きはないようだった。
三十郎と狐堂も、事前の説明はなかったが、予想はしていたらしい。
否、この二人、目的は違えど、この屋代そのものに目的がありそうだった。
驚き、困惑しているのは、星子のみであった。
今までいた野営場所には、何百人という小平鉄砲足軽衆が淵に入ろうとするたびに、凍って沈んでいる。
鉄砲を撃ちかけてこないのは、屋代があるからか。
底光りする何の感情も籠らない眼、眼、眼が、一行をひたすら見つめていた。
「これより、七ツ沢に熊野の天罰を下す! いざ!」
要が言い放ち、柏手を打つ。
掌を打ちあわせた音は、小平鉄砲足軽衆が討滅されたことで薄くなった霧の中州に響き、静寂を破る。
「護火来たれり」
要が合わせた掌を離すと、そこにはポッと小さな炎が出現した。
魔を払うは古来より陽光。その陽光を集め具現化させるのが、熊野十万流 軻遇突智九十九番『大日』である。
その小さな火球に照らされ、竹矢来が飴細工の様に歪む。
それは、のたうつ毒蛇の塊に変化したではないか。
竹矢来に偽装し、近づく者に毒を浴びせる異界の蛇であったとは。
「アビラウンケンソワカ」
音彦が呪言を唱え『弓鳴り』を放つ。
音の広がりに触れた、異界の蛇は、まるで酸を浴びた様に燻り悶え、消えた。
屋代の戸口に蝶が吸い込まれていく。
馬之助の『眼』となって、内部の索敵を開始しているのだ。
「なんだこりゃ? 外観と内部が合わん。三蔵が言っていた通りだ」
蝶の眼の視界は、脳裏に浮かぶのか、馬之助が目をつぶって、見えた映像を伝える。
「ああ……ちくしょう、俺の蝶がもう半数は喰われた。壁も、床も、天井も、全てに擬態したあやかしが潜んでいるぞ。だが……だが……これは……」
絶句する馬之助に、要が問いかける。
「何だ、何があった?」
馬之助が固唾を飲む。この、鍛えられた神人をして、恐怖の表情を浮かべさせるとは。
「祟るとはいえ、神は神。どこかに神性を感じさせるものだが、この屋代の様子は、まるで……」
馬之助の鼻から血がつつっと流れる。肉体に過負荷がかかっている証拠だ。
「……まるで『鬼』の巣だ」
ガクンと糸の切れた操り人形の様に、馬之助が倒れる。
要が、その体を支えた。
「くそっ! くそっ! 蝶が全部喰われちまった!」
馬之助が、血混じりの痰をかっと吐き出して、毒づく。
「奥まで探るのは不可能か。踏み込むしかあるまい」
今まで呆気にとられていた星子が、要に詰め寄る。
「あなたは何を言っているのですか? 私を置いて、立ち去りなさい!」
要が整った顔に苛立ちをにじませて、詰め寄る星子を邪険に突き離す。
「もはや、事態は変わった。あんたは、ここまで運んできた爆薬のようなもの。黙って我々に従っていればよい」
宮司の娘として、乱暴な言葉を投げかけられる事に慣れていない星子が、衝撃を受けた顔をする。
が、その瞬転、要の頬が鳴った。
無比流杖術の達人でもある要に星子が平手打ちをかましたのだ。
「このアマ!」
役者顔の裏に隠した冷酷な素顔をむき出しにして、要が手を振り上げる。
星子は、目もつぶらず、逃げもせず、そのつぶらな瞳で要を射ぬいていた。
「う……」
要が動きを止める。
権六が左から、三十郎が右から、すっと要を挟み込む位置に動いたのを捉えたのだ。
低く唸りながら権六が要を睨みつける。
三十郎は、途方に暮れた様にそっぽを向いて、そのくせ『似たり神』の鯉口を切っている。
「これは、道元様の指示。従ってもらいます」
口調も改め、要がくるりと後ろを向く。
今になって、星子の脚が震えだしていた。
「茶畑様、ありがとうございます」
血の気を失った唇を、なんとか微笑の形にして、星子が三十郎に頭を下げる。
三十郎は頭に乗せている菅傘を目深にかぶり直し、
「いいってことよ」
とぶっきらぼうに言う。ふふと、星子が笑った。
ようやく、緊張と衝撃から解放されたらしい。
「要のやり方は承服できませんが、いずれにせよ、私は『迷い家』に入る身。行くだけです」
そう言って、偽装が剥がれた竹矢来を潜る。
「感謝される事はないぜ。俺もアンタを利用しようとしているだけだからな」
という三十郎の呟きは、星子には届かなかった。
畏敬され、そして、忌避されてきた、七ツ沢の屋代の前に一同が立った。
田舎の庄屋風の作り。
一応庭もあるが、雑草で荒れ果て、池は緑色に濁っていうる。
ぼんやりと灯りをともす石灯籠があったが、その内部は、ヒカリゴケであった。
何十年も替えられない茅葺屋根は、本来ならとうに腐り落ちてしまうはずが、黒く変色してはいたが、未だに健在だった。
雨戸は固く閉ざされて、外部から内を窺い知ることは出来ない。
「招かざる者が来ても、戸口は開かない」
とされているが、杉板の引き戸は、大きく解放されている。
空気とともに霧がその戸口に吸い込まれていて、黒々と蹲る屋代の姿には奇妙な威圧感があった。
先頭を行くのは、六角棒を構えた鹿之進と音彦。その後方に、肩幅に広げた両掌の中央に火球を揺らめかせる要が続く。
その後ろに星子と権六。
例によって、三十郎と狐堂は最後尾だが、監視のつもりか、顔の下半分が髭剃りあとで青々としている、うすら禿の光三郎が加わっていた。
「アビラウンケンソワカ」
低く唱えて、不可視の弦を音彦が弾く。音彦の呪言は、文字に書くと『阿毘羅吽欠蘇婆訶』となる。
意味は太陽の神格化である大日如来への祈りであり、これもまた、魔と対極にあるもの『陽光』を術化したのだと言える。
弓の弦音の広がりとともに、天井から、床から、壁から、百足や毒蛇や不定形のおぞましきモノが転びつまろびつ、逃げてゆく。
「祟る神かと思っていたが、この穢れ様。道元の推理の通り、あやかしの類やも知れんな」
音彦が一人ごちた。
土足のまま、土間から廊下に上がる。
ボロボロになった暖簾が、微風に揺れていた。
「三十郎さん……」
小声で狐堂が言う。そして、背後を目配せした。
戸口があった場所はいつの間にか土壁に変わっており、もう引き返さなくなっていた。
「生きて帰さんという、意志表示であろうな」
天気の事でも話すような口調で、三十郎が返す。
光三郎もチラと背後の怪異を見て、ふんと鼻で笑った。
「想定内。この屋代の主を討てばいいだけの話よ」
と、嘯く。この神人もあやかしと戦う訓練を受けてきただけあって、肝が据わっていた。
ボロボロの暖簾を潜って前に進む。
果ての見えない廊下が続いていた。
外観を考えると、ありえない奥行きだった。
「この先、半町ほどの距離に、引き戸があった。俺はそこまでしか『見えて』おらん」
改めて馬之助が一匹の蝶を飛ばす。
「うむ……先程『見た』時にはなかった襖が二カ所あるな。待ち伏せは……なし。罠も……なし」
紙で出来た蝶に導かれる様に、廊下を進む。
闇に呑まれた廊下の先で、何かが動いた。
「くそっ! 三蔵じゃないか!」
横幅二間ほどの広い廊下を、踊る様な足取りで、三蔵が横切る。
そして、奇声を発して、両手をぶん回した。
「何か投げたぞ!」
馬之助が警告を発する。
「任せておけ」
鹿之進が両手を広げて、各指を複雑に動かした。
ボスっと音を立てて空中で止まったのは、拳大の茶色い塊。
一瞬で廊下に蜘蛛の巣が張られ、投擲されたものを受け止めたのだ。
白いモノが蠢くその塊は……
「馬糞だ! あの野郎、馬糞を投げやがった!」
床にぽろぽろ落ちたのは、蛆虫だった。
「憑かれ者め! アビラウンケンソワカ!」
音彦が不可視の弦を引く。
放たれた音は、鈍い弦音ではなく、空気を切り裂く鋭い音だ。『弓鳴り』は音を絞り、前方に飛ばす事も出来るということか。
ケタケタと笑う三蔵の左腕が、ゾンという刀が肉を断つ音とともに、床に落ちた。
化鳥の叫びを上げて、三蔵が身を翻し、闇の奥に逃げる。
「怖くなってきました。後方の壁、壊しておいてくださいよ」
と、少しも怖がっていない口調で狐堂が三十郎に言う。
「嫌だよ。刃こぼれしちまう」
本気か、それとも冗談か、どちらとも狐堂が決めかねていたその時『迷い家』が牙を剥いたのだった。